西野神社 社務日誌

札幌市西区の西野・平和・福井の三地区の鎮守(氏神様)であり、縁結び・安産・勝運上昇等の御神徳でも知られる西野神社の、公式ブログです。

天神信仰

菅原道真公

菅原道真公の祥月命日(延喜3年2月25日薨去)に当たる今日、全国の天神系神社(天満宮、天神社、菅原神社、北野神社など)では、梅花祭(ばいかさい)という祭典が執り行われます。この日を例祭日としている天神系神社も少なくないことから、天神様をお祀りしている神社にとっては、今日はとても重要な日といえます。

京都の北野天満宮は、福岡県太宰府市に鎮座する太宰府天満宮とともに、全国に鎮座する天神系神社約1万2千社の総本宮的な位置付けにある神社ですが、その北野天満宮では、毎年この日、15万人もの参拝者が訪れるそうです。菅公の祥月命日であることに因み、今日は天神信仰について記させていただきます。

■天神様とは

よく知られているように、天神系の神社で主祭神としてお祀りされている神様(天神様)は、記紀に登場する神話上の神様ではなく、平安時代に実在した人物、菅原道真公(写真参照)です。菅公は公家・学者・文人・政治家として卓越した能力を発揮した人物で、文化人としてのイメージが強いことから現在では主に“学問の神様”として広く信仰されており、特に、大学や高校などの入学試験を受ける受験生たちからは毎年篤い崇敬を受けています。

近年は、入社試験、公務員試験、司法試験や車の運転免許など、あらゆる試験に打ち勝つ神様としても絶大な信仰を集めています。歴史的にも、天神様は稲荷神や八幡神とともに庶民に最も親しまれてきた神様といえます。

しかし、菅公の神様としてのデビューは、平和的な文化人というイメージとは程遠い、恐ろしい御霊神(怨霊)としてでした。没後当初の菅公は、激しく祟る怨霊として人々に畏怖され、その魂を鎮めるために、御霊神として敬われるようになっていったのです。平安時代には、菅公以外にも早良親王伊予親王平将門崇徳院など、無念の死を遂げたために御霊神とされた人物は多いですが、そのなかでも菅公の御霊神としてのパワーは絶大で、菅公は平安時代を代表する御霊神といえます。

■菅公の生涯

菅公は幼少の頃から文才に優れており、18歳で律令制度の国家公務員試験の科目の一つ「進士」の試験に最年少で合格し、23歳で官吏養成機関である大学寮の試験「秀才」に合格し、正六位下に除されました。貞観19年には、33歳の若さで菅原氏伝統の官職である式部少輔と文章博士に任じられ、以後その才能を遺憾なく発揮して順調に出世し、55歳で父祖も達し得なかった右大臣にまで上り詰め、当時絶大な権力を誇っていた左大臣藤原時平と肩を並べるまでに至りました。

しかし、その異例の出世が藤原氏から妬みと反発をかい、延喜元年、菅公は藤原時平の讒言(天皇を廃して娘婿である斎世親王を立てようと企てている、という上奏)によって突如失脚し、北九州の太宰府へ左遷されてしまったのです。宇多上皇は菅公の突然の左遷に驚かれ、その発令を拒もうと宮廷に駆けつけましたが、宮廷の門は固く閉ざされたままで、菅公は帝との面会も叶わず宮廷から排除されたのでした。

菅公の太宰府への出発は、左遷の勅命が発せられてから僅か1週間後という慌ただしさで、しかも道中の国々には、菅公に対しては食料も馬も供出してはならないという厳命が下され、菅公は苦難の旅路の果てに、今にも倒れそうな半病人の体でやっと太宰府にたどり着き、そして太宰府に赴任して2年後の延喜3年2月25日、失意の内に59歳で亡くなりました。

当時、他国で亡くなった政府の高官の遺骨は京に送られる習わしとなっていましたが、菅公の「自分の骨を故郷に帰すことを願わぬ」という遺言によって、近臣たちは遺体を牛車に納めて葬場に移すことにしました。ところが、四堂という所に差し掛かった所で牛が歩みを止めて動こうとしなくなったため、近臣たちはこれは菅公の霊告であるとして、その地に菅公の遺体を埋葬しました。その後、菅公の供養のためその埋葬地に堂宇が建てられ、菅公の霊廟として信仰を集めるようになり、これが、太宰府天満宮の起源とされています。明治以前の太宰府天満宮神仏習合色が色濃く、一般には天原安楽寺安楽寺天満宮、菅公霊廟などと呼称されていたようですが、明治の神仏分離以降は仏教色が廃され、今日のような神社としての形態になりました。

■凄まじかった菅公の祟り

天神信仰」の切っ掛けは、菅公の死とともに始まります。菅公をお墓に埋葬しようとしたとき、その同じ時刻に、京では雷鳴が轟き大地が揺れ動くという天災が発生し、しかもこの年には、日蝕、月蝕、洪水、疫病などが相次ぎました。そして、菅公の死から6年後には、菅公左遷の片棒を担いだ参議の藤原菅根が亡くなり、続いて菅公を陥れた張本人の藤原時平も後を追うかのように亡くなりました。

延喜23年には、生母が時平の妹であった、皇太子の保明親王が21歳の若さで亡くなられ、また、宇多上皇を内裏に入れなかった蔵人頭が雷に打たれて死んだり、時平と親しかった源光(みなもとのひかる)が狩猟中に沼に落ちて死ぬなどの凶変が続いたため、世の人々は菅公の怨霊のなせる業として恐れおののくようになりました。菅公を陥れた時平の一族が、菅公の怨霊によって次々と横死していく様は、「大鏡」などもおどろおどろしく物語られています。

このため、朝廷は菅公の怨霊を沈めるために、菅公を元の右大臣に復し、正二位を贈り、さらに太政大臣を追贈し、左遷の詔書も破棄するなどしました。しかし凶変は一向に収まらず、新たに皇太子に立てた幼い慶頼王(母は時平の娘)が5歳で亡くなられ、そして延長8年には、清涼殿の落雷事変が起こりました。

公卿たちが清涼殿に集まり雨乞いの相談をしていた所、黒雲が湧き雷鳴がしたかと思うと、突如清涼殿に雷が落ち、大納言の藤原清貫が胸を裂かれて即死し、右兵衛の美努忠包(みぬただかね)が頭髪を焼いて死亡するなど、5人もが死傷したのです。京の人々は、菅公の霊が雷となって内裏に乱入したのだと口々に言い合い、この事件にショックを受けた醍醐天皇は病床につき、その3ヶ月後には退位を表明して朱雀天皇に譲位し、そしてその1週間後に崩御されました。「扶桑略記」所引の「道賢上人冥土記」では、菅公が16万8千の眷属を持つ太政威徳天となって醍醐天皇の命を奪い、醍醐天皇に地獄の責め苦を与えている様が描かれています。左遷された大宰府で病苦に苦しみながらも天皇への忠誠をいささかも失わなかった菅公ですから、実際に醍醐天皇に祟りを成したとは考えられませんが、当時の人々にとっては、菅公は、天皇をも害し奉る程の凄まじい怨霊と映っていたのです。

更に追い討ちをかけるように、天慶2年には平将門の乱藤原純友の乱という大乱が相次いで起こり、乱は間もなく平定されたものの、こうした相次ぐ凶変に、菅公の怨霊に対する人々の恐怖は高まる一方で、何とかして菅公の怨霊を鎮めなければという思いが広く民衆の間に広がっていきました。京都の北野には、古くから火雷天神という雷神を祀った天神社があったのですが、清涼殿の落雷事変を切っ掛けに、菅公の怨霊はこの北野の雷神と結びつけられるようになり、天暦元年、菅公の怨霊を鎮めるために北野に神殿が建立されました。これが北野天満宮の起源で、この時点で既に菅公が亡くなってからは40年以上もの時が経っていました。そして、北野天満宮の創建から更に30年が経過した永延元年には、北野天満宮で初めて勅祭が執り行われ、このとき正式に、菅公は「北野天満宮大神」と称号されるようになりました。

こういった数々の凶変を、朝廷が全て菅公の怨霊の業と解釈し、右大臣に復したり神社を建立したということは、朝廷には、冤罪に陥れた菅公に対して後ろめたさや良心の呵責があったということであり、良心の呵責を感じていたという朝廷の態度こそが、結果的には菅公の無実を証明しているともいえます。一般の民衆も、菅公の怨霊に恐怖すると同時に、菅公に対しては激しく同情もしていたようで、菅公の死後次々と不幸に見回れていった藤原氏に同情的であった人は、ほとんどいなかったようです。

なお、時平の死後、政界の中心人物となったのは、時平の弟・忠平です。忠平は、菅公に対しては同情的で、菅公が左遷された後も文通で慰めていたことから、時平とは対照的に怨霊の被害を全く受けず、以後は、忠平の子孫が藤原氏の本流となっていきました。藤原氏の栄華を極めた藤原道長も忠平の子孫です。こういったことから、菅公の怨霊の話を世間に広めたのは、忠平とその周辺の人々だったのではないか、とも云われています。

■学問の神様としての天神様

北野天満宮が建立された当時、菅公は恐ろしい怨霊として、しかも数多くある御霊を支配し統率する神霊として、天満大自在天神、日本太政威徳天、火雷天神などと厳めしい名で称されていましたが、やがて菅公は、怨霊としてではなく、“学問の神様”として人々から崇敬されるようになっていきました。ちなみに、天満大自在天神とは、天候を司る雷神としての天神と、菅公の御霊、殺牛祭神における漢神、密教護法神、神話上の天津神(天神)が習合して成立した神格と云われています。

菅公が“怨霊”から“学問の神様”へと転化していった理由は、ひとえに怨霊としての活動がだんだんと鎮まっていったことによります。怨霊としての怖さが薄れていくと、人々の関心は、詩歌、学問に優れた菅公の人物像や業績に向けられるようになっていき、生前の業績に相応しい学問の神様としての信仰を得るようになっていったのです。平安時代から鎌倉時代初期にかけて作られた「天神縁起」には、天神様を慈悲の神、正直の神として信仰する風潮が伺え、こうして現在の我々が親しむ「天神さま」のイメージが出来上がっていきました。

鎌倉時代になると、当時伝来された禅宗の影響を受け、菅公が唐に渡って禅の奥義を授けられたという説話がもっともらしく語られるようになり、中国風の衣装を身に着けた菅公が梅の枝を持っている「渡唐天神」という画像が多く描かれるようになりました。菅公がこよなく愛した梅の木が、菅公を追ってはるばる大宰府まで飛んで行ったという「飛び梅伝説」も、この頃から語られるようになりました。

学問の神様としての信仰が一般庶民の間に広く浸透していくようになったのは江戸時代に入ってからで、特に寺小屋が隆盛してからです。江戸時代の寺小屋の様子を記した文献などには、子供たちが机を並べる教室には、必ず天神様の尊像が掲げられてあったことが記されています。また、寺小屋へ入学する子供を父兄が連れて天神様に参拝するという風習も、江戸時代に全国的に広がりました。

子供の学問の神様として崇められるようになった天神様は、いつしか子供を守護する神様としても位置付けられるようになっていきました。有名な童謡「通りゃんせ」の歌詞「この子の七つのお祝いに」とは、当時の子供は七つの時期を終えると半人前の大人になると考えられていたため、天神様はその時点まで(7歳まで)の子供の守護神として民間に浸透していたことを反映しており、また、「行きはヨイヨイ、帰りは怖い」という歌詞は、学問の道の険しさと厳しさを言い表したものだと云われています。

■北野天満宮と太宰府天満宮

稲荷系神社の場合、その総本宮は京都の伏見稲荷大社であり、八幡系の神社の場合は、大分県宇佐市宇佐神宮総本宮とされており、恐らくそのことに異論を唱える人はいないはずです。ところが、天神系の神社の場合、明確に総本宮とされている神社はありません。

しかし、今回の記事の冒頭で「京都の北野天満宮は、福岡県太宰府市に鎮座する太宰府天満宮とともに、全国に御鎮座する天神系神社約1万2千社の総本宮的な位置付けにある神社」と記しましたように、北野天満宮太宰府天満宮の二社が、実質的に全国の天神系神社を代表する神社であることは確かです。実際、明治時代に全国の神社の社格が定められた際にも、北野と太宰府の両天満宮は、人臣を祀る神社としては唯一の官幣中社にも列せられており、他の天神系の神社とは別格の扱いを受けていました。では、北野と太宰府のどちらが総本宮なのかというと、それは、両社ともにそれぞれの歴史や由緒があるので、明確に「こちら」とは決められません。

私は3年前、初めて北野天満宮に参拝に行ったのですが、境内は多くの観光客や修学旅行の学生たちで賑わっており、活気があり、とても規模の大きな神社だな、という印象を受けました。当時私は京都の神職養成機関に在学していたのですが、そのとき、私が受けていた授業を受け持ってくださっていた先生の一人が、北野天満宮権宮司さんで、また、北野天満宮には私が在学していた養成機関の卒業生が多く奉職していることから、個人的には、北野天満宮にはとても親しみを感じていました。

しかし、昨年の3月、初めて太宰府天満宮へも行ったのですが、神社としての規模は太宰府の方が北野を更に上回っていました。境内も広く、どこまでが境内地なのかもよくわらない程でした。昨年秋には、東京、京都、奈良に次ぐ第四の国立博物館として「九州国立博物館」が太宰府市にオープンしましたが、大宰府天満宮では、九州国立博物館のために境内地の一部を無償で提供しており、こういったことからも境内地の広大さが窺えます。神社としての規模は、やはり北野よりも太宰府の方が大きいようです。ちなみに、全国の天神系神社の集まりとして「全国天満宮梅風会」という団体があるのですが、その梅風会の会長は、太宰府宮司が務めています。

しかし、各地に勧請された天神様の数では、実は北野系の方が太宰府系を圧倒しています。全国に1万2千社ある天神系神社の大半は、北野・太宰府のいずれかの天満宮から分祀されており、そのため天神系の神社は、御祭神の系統別に分類すると北野系と太宰府系に二分されるのですが、その内訳は、北野系が1万社強と大半を占めているのです。北野神社、菅原神社という名の神社も、大抵は北野系の天神様です。

こういった事実からも、どちらが総本宮かを決めることは、やはり困難といわざるを得ません。実際、両社ともに「天神信仰発祥の地」を名乗ってはいますが、“総本宮”や“総本社”とは名乗っておりません。

■全国の天神系神社

“三大天神”という場合、一般には、北野、大宰府の両天満宮と、山口県防府市に鎮座する防府天満宮の三社を指すことが多いのですが、“三大稲荷”同様、その中身は厳密には決まっていないようで、地域によって“三大天神”とされる神社は微妙に異なるようです(北野と太宰府の名は必ず入っているようですが)。

北野天満宮から勧請され“湯島天神”の名で広く親しまれている湯島神社(東京都文京区)、大宰府天満宮から勧請され東都一の天満宮として讃仰された亀戸天神社(東京都江東区)、菅公誕生の地とされる吉祥院天満宮京都市南区)、菅公がしばしば詩歌管絃の遊びを楽しまれ大宰府へ下向の折にも立ち寄られた地に建つ長岡天満宮京都府長岡京市)、日本三大祭の一つである「天神祭」で有名な大阪天満宮大阪市北区)なども、全国的に有名な天神系の神社です。

菅公が太宰府に配流される際に通ったとされる一帯(京都から瀬戸内にかけて)には天神系の神社が特に多いですが、これは、それらの神社の創建の由緒が、菅公が配流される途中で立ち寄ったという伝承に基づいているためで、前出の防府天満宮なども、こういった由緒により創建されています。

なお、単立の神社に関しては知りませんが、本庁包括下の神社に限っていえば、札幌近郊(北海道神社庁札幌支部管内)に“天満宮”という名を冠した神社は、江別市に鎮座する錦山天満宮一社だけです。しかし、札幌近郊でも、主祭神とは別に天神様を配祀しているという神社は意外に多く、本殿とは別の境内社で天神様をお祀りしているという神社もあります。なお、前述のように全国的には北野系の天神様が多いのですが、札幌近郊の天神様は、大宰府から勧請されているケースが多いのも特徴です。

ところで、今日では“天神様といえば菅原道真”ですが、前述のように、京都の北野では菅公と習合する以前から地主神としての雷神がお祀されており、現在でも、その数は圧倒的に少ないものの菅公が神格化される以前からの天神様(豊作を約束する、農耕の神としての雷雨神)をお祀りしている神社もあります。例えば、現在、北野天満宮の本殿前に鎮座している火之御子社の御祭神が、菅公と習合する以前からの天神様と云われており、毎年6月1日の火之御子社例祭(雷除大祭)には、火雷神=避雷針ということもあって、電気関係者、ゴルファー、釣り人などが多く参拝するそうです。ただし、一般に“天神信仰”という場合は、菅公と習合する以前の雷神への信仰ではなく、習合神としての神格を獲得するに至った菅原道真公への信仰を指します。

(田頭)