西野神社 社務日誌

札幌市西区の西野・平和・福井の三地区の鎮守(氏神様)であり、縁結び・安産・勝運上昇等の御神徳でも知られる西野神社の、公式ブログです。

人形

日本人形

来月5日、午前11時から、当社参集殿において人形供養祭が執り行われます。当社には、人形供養の受付を開始した今月の15日から、毎日沢山の人形が持ち込まれ、また、郵送により全国各地から届けられ、かなりの量の人形が集まりつつあります。

人形供養祭まではまだ1週間あるのですが、人形が溜まってきましたので、今日は、人形供養祭の斎場となる参集殿内に専用の祭壇を設置し、それらの人形を祭壇に並べる作業をしました。雛人形五月人形・市松人形・博多人形などの日本人形(写真参照)や、フランス人形、ぬいぐるみ、着せ替え人形、観光地でお土産として売られている民芸品の各種人形など、実に様々な人形たちが並んでいます。なかには、雛人形が描かれた掛け軸、こけし、熊の木彫りの彫像、動物の剥製など、もはや人形とはいえないものも含まれています。

ところで、現在では飾り物、もしくは子供のおもちゃとしてのイメージが強い人形ですが、そもそも人形は玩具として作られたものではなく、非常に呪術性の高い宗教的な呪具として生み出されたものです。日本における人形の原型といえる縄文時代土偶古墳時代の埴輪などは、祈祷や魔除けの道具として使われたり、殉死者の身代わりとして墓に埋葬されるなどの用途で使われており、この頃の人形には、玩具としての性格は全くありませんでした。

土偶は、ほとんどの場合手足や首を失った無残な姿で発見されており、なかには、千体以上もの大量の土偶が発見されながら一つとして完全な形の土偶が見つからなかった遺跡もあることから、縄文人たちは、“破壊のための人形”として土偶を製作していたのではないかとも云われています。土偶の破壊された箇所は病気や怪我をしていた箇所で、その部分を破壊することで治癒を祈願していたのではないか、と推察されます。

奈良時代になると、「厭魅」(えんみ)という、人を呪い殺す呪術が行われるようになったのですが、その厭魅においても、人形が用いられました。朝廷はこのような悪の呪術を厳しく禁止しましたが、朝廷内部にも政敵を呪うために厭魅を行う人々が多くいたため、その効果はあまり芳しくなかったようです。平城宮跡からは厭魅に使われたと思われる人形が出土しており、その一つである、古井戸から発見された約15cmの木製人形には、両目と心臓の部分に約1cmの釘が打ち込まれていました。

平安時代になると、天児(あまがつ)という、子供の病気や災いを移す形代としての人形が作られるようになりました。天児は、30㎝位の2本の棒を束ねて人形の両手にして、さらにT字形になるように別の棒を組合わせ、その上に白絹の布で作った丸い頭を取り付けて作り、それに簡単な衣裳(赤ちゃんの産着)を着せたもので、幼児の枕もとに置く魔除けのお守りとされました。また、這子(ほうこ)という、白綿に綿を詰めた人形も作られました。這子はぬいぐるみの原型ともいえるもので、当初は天児同様、幼児の災厄を祓うための人形だったのですが、やがて幼児の玩具としても愛用されるようになりました。

流し雛の行事も、平安時代から行われるようになりました。流し雛は、現在の雛人形の原型といえるものですが、意味合いは現在とはかなり異なり、体を撫でて身の穢れを人形に移して川や海に流すという形代としての人形でした。流し雛には、穢れを祓って農耕の神に祈願すると同時に伝染病などの災厄を外部へ追い出す、という意味が込められていたのです。現在の雛人形にその痕跡を見る事はできませんが、流し雛は、明らかに呪術的な意味を持っていました。

玩具としての人形が一般の人々にも普及するようになったのは室町時代頃からで、それまで「ひとがた」とか「かたしろ」など様々な呼び方をされていた人形が、現在のように「にんぎょう」と呼称されるようになったのも室町時代からのようです。

江戸時代になると人形の製作技術が飛躍的に向上し、現在のように雛人形を飾る行為も、江戸時代に入ってから行われるようになりました。この頃になると、人形の呪具としての役割はかなり薄れ、人形は、美術品・工芸品として価値が高まるようになっていきました。雛人形の工芸品としての価値が高まってくると、雛人形の贈答が盛んに行われるようになり、雛人形を売る雛市が登場するなど、雛祭りが盛大にお祝いされるようになりました。あまりにも盛大にお祝いされるようになったため、幕府はたびたび禁令を出して、贅沢な飾り付けや華美な人形の製作をいましめた程です。ただ、こういった華美な人形はまだ高価で、武家や、裕福な町人・農民の間では普及していたものの、一般の庶民にはなかなか手が届かなかったようで、あまり裕福とはいえない町人や農民の女の子たちは、自作の人形などで遊んでいたようです。誰もが人形を買えるようになったのは、戦後になってからのことです。

私が今まで見た人形の中で、特に印象に残っているのは、靖國神社の「遊就館」の館内に並べられていた花嫁人形たちです。綺麗な花嫁衣装を身に纏ったこれらの日本人形たちは、妻を娶ることなく戦死した将兵に対して遺族から奉納された人形たちで、母親が戦死した我が子のために奉納するケースが多かったようです。北海道出身の佐藤武一陸軍軍曹は、昭和20年4月に沖縄にて戦死しましたが、昭和57年、その佐藤武一命に、84歳になった母親から“桜子”と名付けられた花嫁人形が奉納されています。その綺麗な花嫁人形は、人形に添えられてあった手紙とともに館内に展示されてるのですが、その手紙の文面からは、母として子を思う優しさが窺え、思わず胸が熱くなります。

『沖縄の激戦で逝ってしまった貴男…。年老いたこの母には今も二十三才のままの貴男の面影しかありません。日本男子と産まれ、妻も娶らず逝ってしまった貴男を想うと涙新たに胸がつまります。今日ここに日本一美しい花嫁の桜子さんを捧げます。どうか安らかに眠って下さい。ありがとう。』と、その手紙には記されています。他にも、戦死した兄に対して妹から奉納された人形もあります。これらの花嫁人形は、遺族の重い気持ちが込められているだけに、見ている者に対しても語りかけてくるような雰囲気があり、それを奉納した遺族の心情を思うとつい目頭が熱くなります。

ところで、靖國神社の花嫁人形は、戦死した未婚の男性に対して“花嫁を象徴するもの”として人形を奉納する、というものですが、これとは似て非なるものとして、東北地方(主に津軽)には、故人となった男女を、人形を通して結婚させる“冥婚”といわれる習俗が、今でも残っています。冥婚は死霊婚ともいい、未婚のまま夭折した死者を人形にかたどって、婚礼を挙げて供養するという習俗で、冥婚を執り行うお寺には、対になった花婿人形と花嫁人形が一つのガラスケースに収まり、そのケースが棚の上にびっしりと並べられています。私は実際にそれらの人形が奉納されているお寺を訪問したことはないのですが、そういった人形たちが並べられている堂内の写真を見ると、“死者同士の結婚”という非日常的な習俗に、言葉では形容し難い独特の雰囲気を感じます。

もともとは、結婚することなく他界した子供を可愛そうに思った親が、花婿人形や花嫁人形を花婿や花嫁に見立てて結婚させてあげようと奉納したもので、なかには、婚約者同士であった男女が交通事故で一緒に亡くなったので死後に添い遂げさせてあげようと奉納された人形もあるようですが、実際に奉納されている人形の大半は、配偶者になる予定の者がいなかった未婚の男女たちのための人形だそうです。

現在人形と称されているものの大半が、人形本来の呪術性を喪失し、飾り物や玩具と化していのに対し、遊就館靖國神社)に奉納されている花嫁人形や、津軽地方の一部に残っている冥結という習俗で使われる人形などは、今でも濃厚に呪具としての性格を残している人形といえます。

(田頭)