西野神社 社務日誌

札幌市西区の西野・平和・福井の三地区の鎮守(氏神様)であり、縁結び・安産・勝運上昇等の御神徳でも知られる西野神社の、公式ブログです。

平安時代の幕開けと怨霊

上御霊神社

3日前のこのブログで、平安時代について私の思う所を記させていただきましたが、今回も、神社神道とは何かと馴染みの深い平安時代について、再び記させていただきます。とはいっても、約400年間もある平安時代を簡単にまとめることは困難なので(私にはそれだけのボキャブラリーもないですし)、今回は平安時代の冒頭について、なぜ平安京への遷都が行われたのか、ということについてのみ、簡潔に記させていただきます。

平安時代が始まったとされるのは、西暦794年(延暦13年)です。あまり平安時代に思い入れのない私でも、中学生のときに覚えた「鳴くよ(794)ウグイス平安京」の語呂は今でも覚えています。平安時代の前の時代は「奈良時代」ですが、なぜ西暦794年を以って奈良時代平安時代を区分けしているのかというと、周知のようにこの年に都が京都(平安京)に移されたからです。

平安京の前の都はどこかというと、奈良の平城京です。と、つい答えてしまいそうになりますが、そう答えてしまうと間違いで、平城宮から平安京に遷都する間には、長岡京という都(現在の京都府長岡京市)が造られています。しかしこの長岡京という都は、平城京平安京といった華麗で壮大なイメージを伴う都に比べると、いまいちマイナーな感は拒めません。というのも、長岡京が都として機能したのは僅か10年間だけで、そのため、一昔前の歴史教科書には、長岡京については端っこの脚注などにしか記されていませんでした(最近の歴史教科書では本文中に載っているそうです)。平安時代は、この長岡京から平安京に遷都された年を以って幕が開きます。

では、平安京に都が遷都されたのはなぜなのでしょう。奈良の都は寺院の勢力の強い場所で、政治に口出しするようになった仏教勢力を排除するために新しい都に遷都が行われた、と私は中学や高校の歴史の授業で習いました。しかしその理由では、平城京から長岡京に遷都した理由にはなっていても、長岡京から平安京に遷都した理由にはなっていません。では、今の歴史教科書では遷都の理由をどう説明しているのかというと、「造営使の藤原種継の暗殺などのため平安京に再遷都した」と説明されているそうです。長岡京を造営する責任者であった藤原種継が暗殺されたため、建設中であった長岡京を未完のまま放棄し、平安京に遷都したというのです。しかし、この理由も強い説得力は伴いません。藤原種継が重要な人物であったのは確かでしょうが、桓武天皇にとっては部下の一人に過ぎない人物で、彼一人が殺されただけで、なぜ壮大な新都の造営を中止しなくてはならなかったのでしょうか。

結局、遷都の真の理由は何であったのかというと、それはズバリ、「怨霊の祟り」のためです。怨霊の祟りを恐れて、日本の首都を変えたのです。私が勝手にそう解釈しているわけではなく、これは現在、歴史学会のほぼ定説になっています。ただ、さすがに「怨霊を恐れて桓武天皇平安京に遷都した」とはまだ教科書には書けないようで、歴史教科書の記述では「藤原種継が暗殺されたことなどにより」となっているのです。

桓武天皇を悩ませた怨霊とされる早良親王は、桓武天皇実弟で、皇太子でしたが、藤原種継を暗殺した首謀者の一人とされたため捕らえられ、皇太子の位を剥奪され、乙訓寺に幽閉され、更に淡路島へ配流されることになりました。早良親王は断固無実を主張し、抗議のため一切の食を絶ち、そのため淡路島への移送途中に亡くなってしまったのです。その後、桓武天皇の近親が相次いで亡くなったり、疫病が流行ったり、天変地異が頻発するなどの異変が次々と起こるようになり、「その原因は早良親王の祟りによる」という卜占もあって、桓武天皇早良親王の霊への鎮謝・慰霊を行い、さらに早良親王の遺体を淡路島から奈良へ改葬し、怨霊鎮祀を繰りしましたが、それでも一向に祟りはおさまらず、そこでとうとう桓武天皇は、長岡という呪われた地を破棄することに決め、延暦13年、平安京への遷都を行ったのです。

しかし遷都後も祟りはおさまらなかったようで、延暦19年には、桓武天皇廃太子したはずの早良親王に対して、ついに「祟道天皇」という天皇としての尊号まで追贈しています。桓武天皇は、強力なリーダーシップを発揮した名君として名高い天皇ですが、その一方で、早良親王の怨霊には生涯悩まされ続けたのです。早良親王は、崇徳上皇菅原道真公と並んで平安時代を代表する怨霊といえます。

現代は、科学的に存在を証明できない幽霊とか怨霊といったものの存在を否定する人が多いです。しかし、怨霊は確実に存在します。それは、私が神主であるから、宗教家の端くれであるから言っているのではありません。霊の存在についてはいろいろな見方や見解がありますが、少なくとも歴史を見る立場においては、科学が証明できないものの存在を否定してしまうことは間違いで、当時の人たちが怨霊がいると信じていたのなら、それが科学的にどうであれ実在していたと考えるのが正しい見方なのです。当時の人々が、恨みを抱いて死んだ者が祟ると考えていたのは事実であって、それを迷信として笑い飛ばすことこそナンセンスなことです。

そして、怨霊を恐れて遷都が行われた以上、平安京の周りには当然、魔界からの侵入を防ぎ怨霊の祟りから逃れるための様々な装置が施されました。平安京陰陽道でいう「四神相応」の地で、青龍、朱雀、白虎、玄武の四神が宿る東・西・南・北は、それぞれ流水(鴨川)、窪地(巨椋池)、大道(山陽山陰道)、丘陵(船岡山)があり、その地が繁栄すると云われている形になっており、また、都の鬼門に当たる北東の比叡山には延暦寺が、羅生門の両側には東寺(教王護国寺)と西寺が建てられるなど、怨霊封じのための様々な仕掛けが施されました。平安京造営に先立って早良親王をお祀りする上御霊神社(写真参照)が創建されたのも、そういった経緯によります。

上御霊神社は、延暦13年、桓武天皇の勅願により、早良親王を御祭神としてお祀りする神社として創建されましたが、その後、菅原道真公など、非運の生涯を閉じて怨霊になったとされる人々を合祀するようになり、現在では8柱の人物を御祭神としてお祀りしています。私は上御霊神社に参拝に行かせていただいたことがありますが、神社は閑静な住宅街のなかに鎮座しており、地域の氏神として、地元の人々の崇敬を篤く集めているようでした。毎年5月18日に斎行される御霊祭は、京都では最も古いお祭りといわれており、また、境内は時代劇のロケ地としてもときどき使われているようです。

京都では上御霊神社以外にも、下御霊神社、藤森神社、祟道神社などでも、早良親王崇道天皇)が御祭神としてお祀りされています。

(田頭)