西野神社 社務日誌

札幌市西区の西野・平和・福井の三地区の鎮守(氏神様)であり、縁結び・安産・勝運上昇等の御神徳でも知られる西野神社の、公式ブログです。

神武天皇

神武天皇

4月3日は、初代天皇である神武天皇崩御された日に当たり、そのため今日は、宮中や、神武天皇をお祀りしている神社、御祭神のなかに神武天皇が含まれてはいなくても特に規模の大きな神社などでは、「神武天皇祭」もしくは「畝傍山陵遥拝式」等の名称で、神武天皇の即位と御聖徳を記念する祭典が斎行されます。ちなみに、今回貼付の画像は神武天皇肖像画です。

「神武東征」(九州の日向に生まれた王権が大和に進出した経緯を語る伝承)は、偉大な英雄神・神武天皇による建国物語として古代から人々に伝承され続け、多くの人々を鼓舞激励してきました。現在では、神武天皇の実在を確実に証明する史料がないことから、歴史学の立場からは神武天皇は“伝説的存在”とされ、「神武東征」も史実ではなく“文学”と解する人の方が多いのですが、戦前までは、「神武東征」は語られている通りの事実と人々に信じられており、天武天皇壬申の乱の際には神武天皇陵に奉幣しておりますし、後村上天皇も「高御位とばりかかげて橿原の宮の昔もしきる春かな」という歌を詠んでおりますし、また、江戸時代の歴代天皇は、よく神武百余代の孫と自著されていました。

江戸時代末期には、国際情勢からも日本を強固にしなければならないと考えた学者や有識者たちは、神武天皇建国の御事蹟を思い起こして王政復古の思想を唱え、明治維新に際しては、神武創業の古(いにしえ)に還るべきことが仰せ出されました。そして明治6年には、神武天皇が即位したとされる辛酉年正月朔を太陽暦に換算して2月11日が紀元節(現在の建国記念の日)と定められ、神武天皇崩御したとされる4月3日は神武天皇祭として休日に定められました。こういったことからも、神武天皇の伝承が日本の歴史に与えた影響は極めて大きいといえます。そこで今日は、波乱に満ちた神武天皇の御生涯を簡単にまとめさせていただきたいと思います。

昨年10月23日付の社務日誌でも記しましたように、神武天皇は、当社の御祭神の一柱である鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)の第四子として日向でお生まれになられました。母親は、玉依毘売命(たまよりひめのみこと)という、海の中のお宮から日向に来られた神様で、当社の主祭神である豊玉姫命(とよたまひめのみこと)の妹に当たられる神様です。つまり、当社の御祭神である豊玉姫命と鵜草葺不合命は、初代天皇である神武天皇の実父と伯母に当たるのです。なお、神武天皇という名は奈良時代に定められた諡名(おくりな)で、それまでは神倭伊波禮毘古命(かんやまといわれひこ)と呼ばれていたのですが、今回は全て、一般に定着している「神武天皇」という呼称で統一させていただきます。

天照大神の御孫である邇邇芸命(ににぎのみこと)が、天上の世界である高天原から高千穂に降られましてから既に長い月日が経ち、そのおかげで日向(現在の宮崎県)の地やその近隣の人々は豊かに暮らせるようになってきていました。しかし、東の方にはまだ国津神(もとから地上もしくは海中におられた神様)という多くの土着の神々がおり、天津神高天原におられる神様、もしくはその神様の子孫)である神武天皇たちが国家を統一するためには、東の地にある大和(現在の奈良県)に都を遷すべきだとお考えになった神武天皇は、長兄である五瀬命(いつせのみこと)と話し合い、東方へと進軍して天下を平定し、大八島の中心にある大和に都を遷すことにしました。

大勢の皇族や臣下とともに、水軍を率いて日向をたたれた神武天皇たちは、瀬戸内海を東に進み、大阪湾から上陸して大和への侵入を試みますが、大和におられた天津神饒速日命(にぎはやひのみこと)を戴いて勢いを振るっていた大和の国津神長髄彦(ながすねひこ)の頑強な抵抗に遭い、五瀬命は流れ矢に当って負傷してしまいました。形成が不利になった神武天皇たちは兵を集めて再び船に乗り込みましたが、五瀬命はその傷が悪化して船中で亡くなられてしまいました。日の神である天照大神の子孫が、日の昇る東に向けて行軍した事が良くなかった、と解した神武天皇たちは、東から大和入りを果たすため、今度は紀伊半島南端の熊野村から上陸して進軍することにしました。

しかし、上陸する前に紀伊半島の沿岸で激しい暴風に遭い、この暴風により神武天皇は、稲氷命(いなひのみこと)と御毛沼命(みけぬのみこと)という二人の兄を失ってしまいました。これにより、神武天皇は全ての兄弟を亡くしてしまいましたが、それでも神武天皇の軍勢はなんとか、熊野に上陸を果たしました。

ところが熊野では、上陸直後、その土地の荒ぶる国津神の化身である熊が現れ、毒気を吐いたため、神武天皇の軍勢は皆倒れてしまいました。神武天皇は再び窮地に陥ったのですが、熊野の高倉下(たかくらじ)という者が、建御雷神(たけみかづちのかみ)の分身である霊剣・布都御魂(ふつのみたま)を献上してきたため、神武天皇はこの剣により荒ぶる神たちを退治することができ、再び大和を目指しました(この霊剣は後に石上神宮御神体となりました)。

そして、大和へどのように入るべきか、と神武天皇が悩んでいた所、一羽の八咫烏(やたがらす)が現れ空高く北に向かって飛んでいったため、神武天皇の軍勢はそのあとについていき、そのまま吉野に到達することができました。八咫烏は、神武天皇の道案内のため天津神が派遣したものだったのです。大和では、宇陀野において、その地の族長である兄猾(えうかし)が仕掛けを凝らした宮殿を造って神武天皇たちを陥れようと策略しましたが、神武天皇道臣命(みちおみのみこと)や弟猾(おとうかし)の協力を得て、兄猾を誅滅しました。

神武天皇にとっては兄の仇にも当たる宿敵・長髄彦は、東から神武天皇の軍勢が進軍してきたことを知るとまた戦を仕掛け、神武天皇の軍勢と何度も戦いました。神武天皇は苦戦を強いられますが、あるとき、天がたちまち暗くなって雨が矢のように降り始め、金色の鵄(とび)が雲間から飛来してきて神武天皇の弓先にとまりました。そして金色の光を稲妻のように放つと、長髄彦の軍は目が眩んで戦えず、とうとう大敗を喫しました。戦前、日本軍が兵士の武勲を称えた「金鵄勲章」は、このエピソードに因んだものです。

しかし、長髄彦は自分が主と仰ぐ饒速日命以外に天津神はいないと言って、戦いに敗れた後も神武天皇には従わなかったため、饒速日命は仕方なく長髄彦を誅滅し、部下を率いて神武天皇に従いました。神武天皇は、吉野を始め大和盆地の各地で数々の抵抗に遭っていましたが、各地の国津神たちも次々と降伏するようになり、苦難の末、神武天皇はついに大和を平定されたのです。

そして辛酉年正月、神武天皇畝傍山(うねびやま)の東南の麓、橿原(かしはら)の地に宮殿を建て、皇位の象徴である三種神器を祀り、第一代の天皇として御位に即位されました(皇紀はこの年が元年で、西暦では紀元前660年に当たります)。日本書紀の記述によりますと、神武天皇が日向を出発してから即位を果たすまで、7年余を要したことになります。この即位が日本の建国に当たり、明治5年に定められた紀元節は、この建国の御偉業を後世まで永く記念するために設けられたものです。

初代天皇の御位に即位された神武天皇は、その翌年、東征に功労のあった諸将を褒賞し、即位してから31年後には国内を巡行し、国号を定められました。即位の42年後には、皇子の神渟名川耳尊(かんぬなかわみみのみこと)を皇太子に定め(第2代となる綏靖天皇です)、そして日本書紀によれば即位の76年後、127歳で崩御され(古事記によれば137歳で崩御)、翌年、畝傍山東北陵に埋葬されました。

神武天皇が鎮まっておられる御陵は、中世以降は皇室の式微とともに放置されてしまい、江戸時代には、近隣にあるいくつかの御陵のうちどれが神武天皇陵であるかも確定できなくなってしまったのですが、幕末に尊王思想が盛んになると、蒲生君平(がもうくんぺい)が「山陵志」を著し、水戸藩でもその顕彰を考えるようになりました。そして、明治の王政復古により、大規模な神武陵修築が行われ、今日に至っています。また、明治23年には、神武天皇即位の伝承地である畝傍宮遺跡に、神武天皇と皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)の二柱をお祀りする橿原神宮奈良県橿原市)が創建されています。ちなみに、奈良県神社庁の現庁舎は橿原神宮の境内に置かれています。また、神武天皇をお祀りする神社としては、宮崎神宮(宮崎県宮崎市)も有名です。

戦後は、学校の歴史教育でも神武天皇については取り上げられなくなってしまったため、戦前であれば誰もが常識として知っていた神武天皇の御事蹟を全く知らないという人が多くなってしまいました。しかし、自分の国の建国物語を全く知らないというのは、日本人としてかなり情けないことでもあります。例えば、もしジョージ・ワシントンという人物を知らない米国人がいたとしたら、多くの日本人たちは、その人は米国人として随分情けない人だな、と思うはずです。普段は歴史にも神話にも興味のない人も、せめて神武天皇祭に当たる今日くらいは、自国の建国の神話に思いを馳せてみるのも良いかと思います。

(田頭)