西野神社 社務日誌

札幌市西区の西野・平和・福井の三地区の鎮守(氏神様)であり、縁結び・安産・勝運上昇等の御神徳でも知られる西野神社の、公式ブログです。

9人の乙女

九人の乙女の碑

日本最北端の街、北海道稚内市の高台にある稚内公園には、「九人の乙女の碑」という慰霊碑が建っています。この慰霊碑は、樺太の真岡郵便局で自ら命を絶って職場を守った9人の女性職員たちの霊を慰めるため、昭和38年に、宗谷海峡を隔てて樺太を望む稚内公園に建てられたものです。数年前に稚内を訪れたとき、私もこの碑の前には行かせていただきました。

昭和43年に稚内を訪問された昭和天皇香淳皇后は、この「九人の乙女の碑」の前で深く頭を垂れて9人の冥福を祈られ、『樺太に命をすてしをたやめの心を思えばむねせまりくる』、『樺太につゆと消えたる少女らのみたまやすかれとただにいのりぬ』という歌を詠まれました。彼女たち9人が自ら命を絶って殉職したのは、終戦の5日後に当たる、昭和20年の今日(8月20日)でした。今日は、この「9人の乙女」についてお話させていただきます。

日本とソ連は「日ソ中立条約」(日ソ両国の相互不可侵と、一方が第三国の軍事行動の対象となった場合、他方の中立などを定めた条約)を昭和16年に締結していたのですが、終戦直前の昭和20年8月9日、ソ連は一方的にこの条約を破って日本に宣戦布告し、北緯50度の国境線を超えて軍を南樺太に南下・侵攻させ、更に北方四島にも軍を上陸させ、日本領である樺太北方四島を侵略し蹂躙しました。

しかも、日本がポツダム宣言を受諾した8月15日を期に連合国は一斉に戦いを止めたにも関わらず、ソ連だけは8月15日以後も日本領への侵略を続け、むしろ激しい攻撃を加え、ついに樺太北方四島を全て占拠し、ソ連が崩壊してロシアとなった今日もそのまま不当占拠を続けています。確かに、サンフランシスコ講和条約によって日本は樺太南部と千島列島を手放すことを余儀なくされましたが、しかし日本が手放したそれらの地域がソ連に帰属するなど条約のどこにも書かれていませんし、そもそもソ連は、そのサンフランシスコ講和条約には署名すらしていない立場です。旧ソ連および現在のロシアの行動は、どのように好意的に解釈しても、やはり不法行為以外の何者でもありません。

このように、ソ連軍は日本が降伏した8月15日以降も南樺太への侵略を続けたため、終戦直後の樺太は、正確にはまだ“終戦”を迎えておらず、至るところで戦闘や、ソ連軍による略奪や暴行が続き、大混乱している状況にありました。既に故人となった私の祖母(母方)は樺太からの引揚者でしたが、当時、樺太に上陸してきたソ連軍は日本人の婦女子に対して蛮行を繰り返していたため、祖母は、自分と我が子の身を守るため、わざと鼻水を垂らして痴呆のふりをしながら、幼かった我が子たちの手を引いて北海道に引き揚げて来たと語っていました。

当時の樺太はそのような状況でしたから、高石ミキ、可香谷シゲ、伊藤千枝、吉田八重子、志賀晴代、高城淑子、沢田キミ、渡辺照、松橋みどりら「9人の乙女」たちが住んでいた樺太西海岸南部に位置していた真岡町も著しく混乱している状況にありました。しかも、このとき引き揚げを待つ船が真岡の港に多く停泊していたため、樺太北部に住んでいた日本人たちは一斉に真岡を目指して逃げてきており、そのため真岡の駅や港は避難民で溢れごった返している状態でした。

「9人の乙女」たちはいずれも真岡郵便局の電話交換室に勤める交換手(17〜24歳までの独身女性)で、本来であれば彼女たちも緊急疎開命令(樺太全土に出された引揚命令)によって本渡に引き揚げるべき立場にあったのですが、彼女たちは皆、戦時下における電話交換業務がいかに重要なものであるかを充分把握していたため、その責任感の強さから誰もが進んで残ることを希望し、そのまま職場に残り続けました。

電話の交換業務は24時間休みなく続けられるため、彼女たちは昼と夜を通して交替で勤務し続けました。しかし、彼女たちは全員、万一の事態を想定し、薬品室にあった青酸カリをポケットに忍ばせていました。もしソ連兵から乱暴されそうになったときは、大和撫子としての誇りを守るため、自らの命を絶つためでした。樺太のあちこちで若い女性がソ連兵に乱暴されているという噂は、既に真岡にも届いていたのです。

そして運命の8月20日、午前5時40分に、真岡郵便局の電話交換室に、真岡へのソ連艦隊の襲撃を知らせる第一報が届きました。真岡の北8kmに位置する幌泊監視哨から、「ソ連艦隊、幌泊沖で進路を変え、真岡方面に向かった」という緊急連絡が来たのです。真岡局の1階では、直ちに男性職員たちにより軍関係の連絡網や暗号解読所などの機密書類を焼く準備が行われ、2階の交換室でも、女性職員たち全員が持ち場について緊急連絡体制に入りました。それから程なくして、ついに真岡で戦闘が始まりました。ソ連の艦隊からソ連兵たちが真岡に上陸を開始し、日本軍がそれを迎え撃って反撃したため、ソ連の艦船からも真岡に対して一斉に射撃が始まったのです。ソ連軍の射撃は無差別射撃で、軍人だけではなく多くの民間人が殺されました。

真岡局にもあちこちから地響きが伝わり、交換室の窓からも激しい戦闘の様子が見えたため、交換手たちは懸命に仕事をしながらも、皆恐怖の中にいました。そんな中で、交換手たちの班長であった最年長の高岡が、まず一番最初に青酸カリを口に入れ、水と一緒に飲み干しました。あまりにも突然の出来事で、高岡のその行動を見た他の交換手たちは一斉に「班長さん、早まっちゃだめ!」と駆け寄ったのですが、既に手遅れでした。高岡は、この日の前日、戦争が終わったら結婚をしようと約束していた婚約者の戦死を知ったばかりでしたが、それでも死の直前まで懸命に仕事を続け、つい先程まで「みんな、持ち場を離れちゃだめよ!」と他の交換手たちを激励していたのですが、その責任感の強さ故からか、職場から逃げることはせず、また辱めを受けることも良しとせず、その場で自決したのです。

高石の遺体を見守りながら、暫くは誰もがショックで呆然としていましたが、郵便局の外壁にも流れ弾が当たり始め、いつまでも呆然としていることはできませんでした。班長に続き自分たちも自決しよう、という意見も出たのですが、とりあえずは上からの指示を仰ごう、ということになり、交換手の一人であった志賀が、泊居局に連絡をしようとしました。しかしそのとき、先程高石に「早まっちゃだめ!」と叫んでいた副班長の可香谷が、青酸カリを飲んで高石に続きました。

志賀は泊居局の交換手に事態を説明し、「高石さんと可香谷さんは今死にました。私たちもこれから死にます」と言いました。泊居局の交換手は「死んじゃだめ!私たちも頑張るからあなたちも頑張るのよ!」と涙ながらに必死に説得を続けましたが、電話で話している間にも真岡の状況は刻々と悪化し、ソ連兵が真岡局の目前にまで迫り、建物の中にまで流れ弾が飛んでくるようになってきました。

このため、真岡局の交換手たちは既に覚悟を決め、志賀は「ものすごい射撃です。乱暴される前にこれから青酸カリを飲みます」と言い、交換手たちは次々と青酸カリを飲んでいきました。「男の人がいるでしょ!呼びに行くのよ!」という泊居局からの問いかけに対して「もう飲んじゃいました…」という力のない声が真岡局から届いて、電話は切れました。

暫くしてから、その真岡局から再び泊居局に電話が入りました。電話をかけてきたのは交換手の伊藤で、泊居局の交換手は「大丈夫なの!?」と訊いてきましたが、既に伊藤も覚悟を決めていました。「もうみんな死にました。私も乙女のまま清く死にます。皆さん、さようなら…」と伊藤は言い、それが真岡局からの最後の通信となりました。

真岡局1階の通信室には男性職員も残っていましたが、この頃は皆銃撃から身を守るのが精一杯で、彼らも死と隣り合わせの修羅場にいました。そのため彼らは、2階の交換室からの電話で初めて2階で起こった惨劇を知り、急いで2階へと駆け上がりました。彼らは2階で、9人の遺体に囲まれて泣いている2人と、さらに机の下にうずくまっていた1人を発見し、彼女ら3人を1階に避難させました。

そしてそのとき、ついにソ連兵が銃口を向けて真岡局の中に突入してきました。真岡局の職員たちは必死で「我々は民間人だ」と身振り手振りで説明し、兵士たちをなんとか納得させ、結局残った局員は全員捕虜として港の倉庫に収容されました。こうして、真岡郵便局の長い朝は終わりました。

この惨劇から18年後の昭和38年、全国の樺太引揚者の手によって真岡を望むように稚内に建てられた「九人の乙女の碑」には、以下の碑文が刻まれています。

8月20日、ソ連軍が真岡上陸を開始しようとした。その時突如、日本軍との戦いが始まった。戦火と化した真岡の町、その中で交換台に向かった9人の乙女らは、死をもって己の職場を守った。窓越しに見る砲弾の炸裂、刻々迫る身の危険。今はこれまでと死の交換台に向かい「皆さんこれが最後です。さようなら、さようなら」の言葉を残して、静かに青酸カリを飲み、夢多き若き花の命を絶ち、職に殉じた

蘘國神社でお祀りしている246万余柱の御祭神のなかには、この「9人の乙女」たちも含まれています。

(田頭)