西野神社 社務日誌

札幌市西区の西野・平和・福井の三地区の鎮守(氏神様)であり、縁結び・安産・勝運上昇等の御神徳でも知られる西野神社の、公式ブログです。

古史古伝

神社神道にはキリスト教でいう『聖書』、イスラームでいう『クルアーン』に該当する所謂“教典”はありませんが、日本民族精神の淵源する処を伝へ日本の歴史と文化の根底に働いてその形成の原動力となってきた古典、後世に永久に継承されるべき貴重な宝典として、神社神道では特に『古事記』(こじき)と『日本書紀』(にほんしょき)という二つの歴史書を重視しています。

古事記日本書紀は合わせて『記紀』(きき)と称され、神社神道においてはこの記紀が数々の古典の中でも最も重視されているのですが、私達神職記紀に加え、更に『古語拾遺』(こごしゅうい)『宣命』(せんみょう)『令義解』(りょうのぎげ)『律』(りつ)『延喜式』(えんぎしき)『新撰姓氏録』(しんせんしょうじろく)『風土記』(ふどき)『萬葉集』(まんようしゅう)なども、日本及び神社神道の歴史・文化・信仰を物語る貴重な古典として重視しており、今具体的に名前を挙げたこれらの古典はまとめて『神典』とも称されています。神社神道を信奉する私達神職は、精神的・信仰的な拠り所をこの『神典』に求めています。

ところで、『神典』を神社神道の“正統な歴史書“つまり“正典”と捉えると、その対極の位置にあり“外典”もしくは“異端”とでも云うべき扱いを受けているのが、『竹内文献』『宮下文献』『九鬼文献』などに代表される、俗に『古史古伝』と称される一連の超古代文献です。これらの古史古伝には記紀には出てこない古代史が描かれているのですが、その内容があまりにも荒唐無稽であるため、歴史学の世界ではいずれも偽書と見なされており、一部の神道系教団を除いて神社界でもその正統性を認めていません。

実際、神職養成機関での授業や階位検定講習会などでも学生や受講生に対してこれらの古史古伝が教えられることは一切なく、そのため、現職の神職であっても「竹内文献などは全く聞いたこともない」という人は意外と少なくありません(私も詳しいことは知りません)。ただ、正統な神社神道の立場や歴史学の立場からは“異端”と見なされていても、古神道の世界においては、これら古史古伝の根底には隠された真実の歴史や思想が潜んでいると解され、古神道の流れを汲む教団や古神道家などは、今でも竹内文献などの古史古伝記紀同様、場合によってはそれ以上に重要な文献として扱っていたりします。

今日は、それらの古史古伝のなかから、特に代表的なものをピップアップして、その概要を以下にまとめてみたいと思います。


≪竹内文献≫ たけうちぶんけん

5世紀末、武内宿禰(たけうちのすくね)の孫である平群真鳥(へぐりのまとり)が、武烈天皇の勅命により、真の神代史を正しく後世に伝えるため、象形文字で書かれていた神代の記録を漢字仮名混じり文に改めて筆写したとされる文書で、平群真鳥の子孫とされる越中神明村の赤池神明宮の宮司家・竹内一族に伝えられ、大正末期から昭和初期にかけて、竹内家に養子に入った竹内巨麿(たけうちきよまろ)によって世に公開されました。

その内容はというと、太古の世界を支配していたのは日本であったというSF的ウルトラ皇国史観が貫かれており、例えば、紀元前3175億年から続く天皇は天浮船(あめのうきふね)という飛行空母に乗って世界各地を訪れて文明を与え、地球が天変地異に襲われるとその度に天皇は天浮船で外宇宙に避難した、などという破天荒なストーリーが繰り広げられ、また、釈迦、孔子、キリスト、ムハンマドといった大宗教の教祖たちは全て来日して天皇に仕えていたという記述も登場し、数多く存在する古史古伝の中でもとにかくスケールの壮大さが際立っているのが特徴です。

しかし竹内文献天皇の出自に触れていたため、昭和5年、竹内巨麿は皇室への不敬罪を問われて逮捕され、裁判では無罪となったものの、押収された膨大な文献は裁判所の倉庫の中に眠ったまま、昭和20年の東京大空襲により被災し灰燼に帰してしまいました(昭和46年に復刻版が刊行されています)。


≪宮下文献≫ みやしたぶんけん

孝霊天皇の時代に、始皇帝の命を受け不老不死の霊薬を求めて秦から来日した徐福(じょふく)が、甲斐の阿祖山大神宮に伝わる伝承を記録した古史とされており、富士吉田市の小室浅間神社宮司家・宮下家で発見されました。

記紀等で神々が住まう場所として描かれている高天原は富士山麓にあり、クニサヅチノミコトがその富士の神都を本拠として日本の東半分を、クニノトコタチノミコトが丹波の桑田紀を本拠として日本の西半分をそれぞれ分割統治したとしています。『富士古文献』もしくは『徐福文献』とも称されています。


≪九鬼文献≫ くかみぶんけん

元、熊野神社宮司家で、江戸時代に綾部に転封され綾部藩主となった九鬼(くき)子爵家に伝えられていた文書で、昭和15年頃に三浦一郎という人物が九鬼邸内でこれを書写・整理して公開しました。

天皇家の遠祖はスサノオノミコトで、朝鮮半島に降臨して檀君王朝を築いたとか、イザナギノミコトはエジプト王になったとか、ノアやイエス、釈迦の出自はいずれも出雲王朝にある、などといった記述があります。


≪上記≫ うえつふみ

天保元年(1830年)、豊後の国学者・幸松葉枝尺(さきまつはえさか)によって発見された古文書で、全編、豊国文字と称される神代文字で書かれています(神代文字というのは、漢字伝来以前に日本で使われていたとされる古代文字のことですが、実際には近世以降に創作された文字と見られています)。

神武天皇以前に72代続いたというウガヤフキアエズ王朝の存在を伝えており、ウガヤフキアエズ王朝の時代には天文観測、解剖投薬実験、治金、味噌製造なども行なわれていたとされ、当時の文化がかなり高度なものであったことを伝えています。


≪秀真伝≫ ほつまつたえ

秀真文字と称する神代文字で書かれている、全40紋(あや)から成る五七調の叙事詩集です。元初神(げんしょしん)である国常立神から流れ出した地水火風空が交じり合って、人祖・天御中主神が生まれたと説かれており、また、記紀における天照大神はアマテルという男神として語られています。


≪先代旧事本紀大成経≫ せんだいくじほんぎだいじょうきょう

小野妹子(おののいもこ)と秦河勝(はたのかわかつ)が、聖徳太子の命によって卜部(うらべ)・忌部(いんべ)両家の先祖伝来の歴史をまとめたとされる文書で、延宝7年(1679年)に江戸の書店で発見されました。

神代七代から推古天皇までの歴史や祭祀をまとめた正部38巻と、神社の縁起、暦、医学など広範囲な内容を網羅した副巻34巻の計72巻から構成されており、全編を神道・仏教・儒教の三教一致思想が貫いています。ちなみに、天地開闢から推古天皇までの歴史が記述されている全10巻から成る歴史書先代旧事本紀』とは全くの別物です。

先代旧事本紀大成経』が発見されたことは当時大きな話題となりましたが、伊勢の神宮の別宮である伊雑宮(いざわのみや)の神職が「伊雑宮こそが伊勢の本宮である」と主張していた説を裏付ける内容であったため、これを不審に思った伊勢の内宮・外宮の神職達が、この書は伊雑宮による謀略の偽書である可能性が高いとして幕府に詮議を求め、天和元年(1681年)、幕府は詮議の結果この書を偽書と断定し、禁書として焚書、版木の破却を命じ、伊雑宮神職や書店にこの書を持ち込んだ神道家や僧侶らを処罰しました。

しかし、その後も『先代旧事本紀大成経』は幕府の目を掻い潜って出回り続け、垂加神道などに影響を与えたとされています。


≪東日流外三郡誌≫ つがるそとさんぐんし

天皇家津軽藩によって抹殺された古代津軽王朝の歴史を後世に伝えるため、江戸寛政年間に、津軽飯詰村の和田吉次らが諸国を巡って調べた古文献や伝説などを収録・編纂した歴史書で、東北のアラハバキ族と大和朝廷との抗争が記されています。

東日流外三郡誌によると、約3万年前にアソベ族が、約1万年前にツボケ族がそれぞれ大陸から津軽に渡来し、ツボケ族が中心となって紀元前3000年頃に津軽に王朝を築きました。その後、神武天皇軍に敗れたアビヒコ・ナガスネヒコ兄弟が東北に逃れてツボケ族らに合流し、アラハバキ族として津軽に新王朝を築き、アラハバキ族は徐々に国力を増強させながら越後から関東以北を支配するようになり、そして紀元前300年頃、アラハバキ族は仇敵である神武王朝(大和朝廷)を滅ぼして日本の統一を果たしました。しかし、その後アラハバキ族は朝鮮から渡来した勢力に敗れて再び関東から北へと追いやられ、平安時代に朝廷から派遣された坂上田村麻呂が東北を平定するまで、断続的に戦闘が続いたとされています。

古史古伝の中では唯一、天皇家中心主義に対して批判的なスタンスをとっているのが特徴です。


(田頭)