西野神社 社務日誌

札幌市西区の西野・平和・福井の三地区の鎮守(氏神様)であり、縁結び・安産・勝運上昇等の御神徳でも知られる西野神社の、公式ブログです。

宗教行為か?収益事業か?

ペット霊園

可愛がっていたペットが死んでしまった場合、そのペットの供養をお寺に依頼するという方が増えてきています。お寺で供養の法要を行い、火葬も行い、遺骨は、境内の専用墓地や納骨堂に納めるのです。

どんなにペットを可愛がっていても、死んだ際に人間と同じ葬儀場や火葬場を使う事は許されず、だからといって、まさか遺骸を生ゴミとして処分するような無慈悲な事も当然できず、そうなるとペットの遺骸は、お金を払って公的機関(保健所や動物管理センターなど)に引き取って貰うか、あるいは、供養料などを払ってペット供養を行なっているお寺や専門の業者などに引き取って貰うか、大抵はそのいずれかになります(魚や鳥など小型のペットであれば、自宅の庭や公園、森などに自分で埋葬するという方も多いでしょうが)。

しかし、より丁寧に供養したいとなると、やはりお寺にお願いする方が多いようです。そのペットへの愛情が強ければ強い程、正式な宗教家の執行する宗教儀式により供養したいと願う方が多いようで、飼い主の心情を思えば、それは極めて当然の事といえるでしょう。実際、最近はペット供養に力を入れているお寺が増えてきており、また、ペットの葬祭や火葬を専門に行なう業者も増えてきています(ちなみに今日の記事に貼付した写真は、新潟県内にある某ペット専用霊園で、ここには、先月新潟に旅行に行ってきた際に視察して来ました)。

しかし、そのペット供養の解釈について、今、国(税務署・裁判所)と寺院側とが真っ向から対立しているというのを御存知でしょうか?とはいっても、ペット供養を行っている寺院の数は、寺院全体の割合から見ると極めてごく一部であり、そのため仏教界全体としては特に大きな問題として捉えられている訳ではありません。ましてや神社の場合、ペット供養を行っている神社は寺院以上に少ないため(当社でも今までペット供養を行った事はありません)、神社界では全くと言っていいほど、この件は問題にも話題にもなっていません。

しかし、ペットを飼う人が年々増えてきている以上、ペット供養は、今後増える事はあっても少なくなる事はないはずで、氏子・崇敬者の要望に応える形で、ペット供養を執り行う神社が増えてくる事は十分予想されます。そうなると、今は全く問題になっていなくても、この問題は今後仏教界から神社界にも飛び火してくる事も十分に考えられます。そこで今日は、今仏教界の一部で問題になっているペット供養の問題、具体的にいうと、ペット供養は果たして宗教行為なのか?それとも収益事業なのか?という問題について、取り上げてみたいと思います。

天台宗に所属する愛知県春日井市にある某J寺は、先代住職の頃から二十数年来ペット供養を行っており、約3千坪の境内には、ペット専用の葬式場、火葬場、墓地、納骨堂などを設置し、「動物霊園」の看板を掲げています。ペット供養の税務問題については、J寺の住職によると、先代住職の時に税務署に相談し「非課税」の回答を得ていたそうです。しかし平成14年5月、小牧税務署長はJ寺に対して、平成8年4月1日から平成13年3月31日までの5年間のペット供養について、無申告課税を含め約六百万円を課税しました。

J寺はこれを不服として異議申し立てを行い、名古屋国税不服審判所に審査請求を行ったのですが、「ペット供養、納骨供養料その他の事業はいずれも収益事業に該当する」との理由で棄却され、そのためJ寺は、「ペット供養は収益事業ではなく宗教行為である」として、小牧税務署長を相手取り課税処分の取り消しを求めて名古屋地裁に提訴しました。

裁判でJ寺は、「死者の供養や人形供養、針供養などは非課税で、ペット供養だけが課税対象となる合理的な理由がない」「僧侶の行為は同じく“供養”という行為であり、なぜペット供養については収益事業とされるのか」「ペットのための読経や火葬は僧侶自身の宗教行為・付随行為であり、受け取る金員は対価性のない“布施”であって、徴税庁による安易な類推解釈・拡大解釈で収益事業として課税するのは不当」などと主張しましたが、平成17年3月24日、名古屋地裁は徴税庁側の判断基準を支持し、J寺の訴えを棄却する判決を言い渡しました。

名古屋地裁は、J寺がペットの火葬費用を含む8千円から5万円の料金表を予め用意している事などを「ペット葬祭業者の営業形態と似ている」と指摘し、「宗教的外形や意義、宗教家の主宰によって収益事業性が否定されるべきではなく、課税すべき収益事業に当たる」と判断して、J寺のペット供養は収益事業(葬儀と読経は請負業、納骨は倉庫業)として課税対象であるという判決を下したのです。当然、J寺はこの判決に納得するはずはなく、名古屋高裁に控訴しました。

同年6月18日、愛知県日進市愛知学院大学で開催された「第50回宗教法学会」でもこの件が取り上げられ、東京基督教大学の櫻井教授は、「社会通念に従えば、ペット供養を宗教行為と考えない方がおかしい」と名古屋地裁の判決を批判し、徴税庁が宗教法人の個々の活動を細分化して宗教活動か否かの認定を行う事の問題性を批判しました。

これは私の勝手な推論ですが、もしこの件について一般の方々(飼い主の側)に感想を述べて貰ったとしたら、恐らく、国に対しては「いくら財政危機とはいえ、明らかな宗教行為を強引に収益事業と解釈するなんて!そこまでして税金を搾り取りたいのかよ!」という批判的な意見が多く出て、そして寺院側に対しても、「ペット供養は当然宗教行為だと思うけど、でもお寺は儲けてそうだから、利益の一部を税金として納めたって全然問題ないんじゃないの?わざわざ裁判起こすなんて、そうまでして税金払いたくないの?」という批判的な意見が多く出るような気がします。私としては、課税か非課税かはともかく、その前提段階として、そもそも“供養”という行為を宗教行為と認めない国の見解・認識には、宗教家の端くれとして、やはり納得する事ができません。

この名古屋地裁の判決に対する批判としては、同年7月2日付の「中外日報」紙上に掲載された、大阪府立大学の田中治教授(経済学部長)の文章がかなり的を得ておりますので、少し長い文章なのですが(しかもやや難解な言い回しがありますが)、以下にその文章を転載させて頂きます。

第一に、公益法人の本来の活動から生じた剰余金に課税をしないのは、特権でも優遇措置でもない。この措置は、現行の法人税が、個人所得税の前取りであるという建前から当然に生じたものであるに過ぎない。

これは公益法人と株式会社を比べればよく分かることである。もともと会社に対する法人税は、会社は株主のものであって、会社の利益は最終的には株主に分配される、という前提に立っている。そのうえで、会社に対する法人税は、税収を確保する観点から、株主に分配される利益をあらかじめ前取りするために課されるものである。このように最終的に個人に分配される利益があってこそ、法人税の存在が正当化されることになる。

他方、株式会社と違って、公益法人には、それが本来の活動をしている限り、最終的に個人に分配される利益はない。したがって、本来の活動に対しては、法人税を課税したくともできない、ということになる。公益法人について課税がないのは、法人税の組み立ての基本原理からする当然の帰結である。

この点判決は、宗教法人の本来の活動に対する非課税措置を「優遇措置」ととらえるとともに、この措置は、宗教法人が非営利法人であることを求められ、かつこれを担保とするために所轄庁による監督に服しているためであるとする。このような優遇措置という考え方は、上記に示した法人税の課税の論理からは到底導くことができない。また、宗教法人に対する監督、規制は、信教の自由の保障、政教分離原則と抵触しかねないことからすると、課税上の「優遇措置」が活動上の「規制」の見返りであるかのような安易な考え方には同意できない。

第二に、公益法人が収益事業を行った場合に限って課税をするのは、営利法人と事業内容が競合する場合において、課税の公平を優先した結果と考えるべきであろう。(中略)判決は、社会通念に従って、当事者間での財貨の移転が任意でなされるのか、それとも任意性のない対価関係によるものかという判断基準で収益事業該当性を判断すべきだという。

しかしながら、判決のいう「社会通念」の意味ははっきりしない。また宗教活動の多様性を考えると、葬祭の内容を「料金表」ないし「供養料」という表題のもとで定型的に示していることをもって、直ちに当事者間において対価関係があると断定することも容易ではない。

基本的に問われるべきは、問題のペット葬祭事業は、当該宗教法人の本来的な活動の一環として、教義に基き、宗教行為としてなされているかどうかである。これが肯定されれば、営利法人との競合の問題は基本的に生じない。宗教活動の実態がある場合において、これと競合する民間の事業があるということはまず考えられない。民間における事業との競合性は、対価関係の存否のみで直ちに結論がでるものではない。まず、宗教上の教義や様式に基いて霊の鎮魂や飼い主への癒しという事実があるかどうかが決定的であり、仮にこれが認められるのであれば、当該事業は、宗教法人本来の活動と認定すべきである。

また、ペットの遺骨の管理につき、営業ベースの倉庫業といいうるほどの実態があるかどうかの検証も必要である(後略)。』

また、上記の田中教授の文章とほぼ同時期に、大和総研のHP内で、資本市場調査部の内藤武史主任研究員が発表された文章も大変参考になります。以下にその一部を転載させて頂きます(但し寺院名はアルファベットに置き換えさせて頂きました)。

慶應義塾大学の中島隆信教授によれば、「料金を提示するのは収益事業」であり、「補助金が入っておらず、公益性が担保されない宗教法人の場合、料金を提示しないということが公益性の高さを証明するための具体的な手段となる」 のだという。

一方、J寺が主張するように、人形供養・針供養などが非課税で、ペット供養が課税対象となるというのはいささか奇異な感が否めないことも事実である。そもそも、日本における動物供養のはじまりは今から760年ほど前にさかのぼるといわれている。ペット供養の源流ともいうべき動物供養にそれなりの歴史があるのだとすれば、人形供養や針供養の非課税措置との不整合性を追及することは一定の説得力があろう。さらに、中島教授が指摘するように「ペット供養は苦しみからの救済を求める人々に対し、救いの手を差し伸べている行為であり、明らかに宗教活動といえる」 のである。(中略)

今後、宗教法人全体として最も注意しておかなければならないのは、コペルニクス的転回が起きる懸念である。「ペット供養の課税がおかしいのではなく、人形供養・針供養などが非課税であることがおかしい」 という議論に転回するだけでなく、最終的に「死者の供養も対価を得ている」という解釈論にまで飛躍してしまう恐れである。このプロセスにこそ、全面的課税につながる危険性を内包しているのである。中島教授が指摘するように、「どんなに宗教活動の一環だと力説する事業であっても、活動の対価を受け取っている以上は、何らかの収益事業に当てはめようと思えば当てはまってしまう」 のである。(後略)』

田中教授と内藤主任研究員によるこれらの説明は、なかなか分かりやすくて、それぞれ的確に的を得ていると思います。しかし、その後も国側の見解が改められる事はなく、今年の3月、名古屋高裁は、「ペットの葬儀、遺骨の処理などの行為は収益事業に該当する」として、課税処分を適法とした1審の名古屋地裁判決を支持する判決を下し、J寺の訴えを棄却しました。J寺は名古屋高裁のこの判決を不服として、同月、最高裁へ上告の申し立てを行い、現在もこの裁判は続いています。

J寺は最高裁に上告する事によって、ペット供養の解釈の見解をめぐって今後も国と争う姿勢を明確に示した訳ですが、仏教界の中では、この名古屋高裁の判決を受けて、より現実的な対応をとる宗派・寺院も出てきました。4月8日付の記事「伝統仏教教団 宗政の動向」の「■時宗」の項でも触れましたが、時宗は、今年3月の8・9両日に総本山清浄光寺で開催された宗会及び総本山協議会で、総本山が行っているペット供養(犬猫慰霊碑の前で行っている犬猫慰霊法要や、納骨など)を収益事業と見做して「時宗総本山犬猫供養事業特別会計予算」を新設したのですが、この特別会計新設には、J寺への名古屋高裁の判決が背景にあるのはまず間違いないでしょう。

もしペット供養の依頼を受けたらどのように対処すれば良いのか、神社としても、これは今後考えていかなければならない問題といえます。過去にペット供養を行なった事がなく、今後も行なう予定がないという神社(多分大多数の神社はそうだと思いますが)では、もしペット供養を依頼されたとしても、「申し訳ありませんがウチではしておりません」と言って断る事になるでしょう。しかし、家族同然に可愛がっていたペットをどうしても神式で供養したい、と願う氏子・崇敬者から「是非お願い致します」と懇願された場合、それを無下に拒否してしまっても良いのでしょうか。

少なくとも教学的には、それを明確に拒否できる理由はありません。対象が人間か、人形か、針かの違いはあっても、神社としては葬祭や霊祭には既に関わっているのですから。まさか、課税対象となるかもしれない事を理由に拒否する事もできません。そのような理由で断れば、それこそ供養という行為を神社側が収益事業と認める事になるからです。だからとって、もしペット供養を行い、謝礼を受け取ったとしたら、徴税庁からは収益事業と見做されるかもしれないのです!

(田頭)