西野神社 社務日誌

札幌市西区の西野・平和・福井の三地区の鎮守(氏神様)であり、縁結び・安産・勝運上昇等の御神徳でも知られる西野神社の、公式ブログです。

洞爺丸海難

洞爺丸

彼岸明けの今日、北海道北斗市七重浜に立つ「洞爺丸台風海難者慰霊碑」前では、毎年恒例の慰霊式典(恐らく仏式の法要)が厳かに執り行われます。丁度53年前に当る昭和29年の今日、台風15号により、「洞爺丸」「第十一青函丸」「北見丸」「日高丸」「十勝丸」の計5隻の青函連絡船が沈没し、乗客と乗組員合わせて1,430名(行方不明者112名を含む)もの尊い命が失われました。

そのうちの1,155名が洞爺丸(写真右)の乗客・乗員であった事から、後にこの台風は「洞爺丸台風」と呼ばれ、また、死者数では、北大西洋ニューファンドランド沖で氷山に衝突し沈没した英国の豪華客船タイタニック号(1,513名死亡)に次ぐ世界第二の海難事故としても知られるようになりました(沈没した5隻の中でも洞爺丸の死者数が突出しているのは、5隻の中では洞爺丸だけが客貨船で多くの乗客を乗せていたのに対し、他の4隻はいずれも貨物専用の連絡船で乗客が乗っていなかったためです)。

しかし、さすがに事故から半世紀以上も経ると、北海道民であっても、洞爺丸の事故を知らないという人が少なくはなく、また、現在北海道と本州を結ぶ大動脈として機能している青函トンネルも、この事故の発生を大きな教訓として建設されたという事を知らない人が増えてきています。当時の事故を知る人の多くが既に故人となられ、現在では青函連絡船自体が廃止されてしまっているのですから(昭和63年、青函トンネルの開業により青函連絡船は廃止されました)、事故の風化はある意味当然の事なのかもしれませんが、だからといって、これだけ大きな海難事故を忘れ去ってしまって良い訳はありません。今日は、洞爺丸海難忌である事に因み、53年前の洞爺丸の海難(事故)を振り返ってみたいと思います。


◆洞爺丸出港

現在、北海道と本州を移動する人の多くは飛行機を利用しますが(羽田〜新千歳間の航空路は世界一の需要を誇るドル箱路線にまで成長しています)、かつて、北海道と本州を結ぶほとんど唯一の交通手段は、国鉄青函連絡船でした。当時の人達は鉄道を使っての移動が主流であり、東北本線函館本線に接続する青函連絡船は、当時、北海道と本州とを結ぶ要であり、それ故、7月13日付の記事「北海道空襲」で記したように、昭和20年7月、米機動部隊は青函航路を重要な攻撃目標として青函連絡船を攻撃し、8隻を沈没、4隻を大破させ、青函航路を壊滅させたのです。そして、終戦により復活を果たしたその青函航路に、昭和29年9月26日、あの、台風15号が襲来したのです。

洞爺丸は、空襲によって壊滅状態となった青函航路の輸送力確保のために、国鉄がGHQの許可を得て建造した戦後初の大型船で(建造時3,898t、当時4,337t)、戦後の困難な状況の下で建造されたとは思えない程の充実した設備を誇った事から「海峡の女王」とも呼ばれた、当時は最新鋭の客貨船でした。その年の8月の昭和天皇北海道行幸の際には、天皇皇后両陛下の御召船ともなり、青函航路のフラッグ・シップとしても親しまれていた船でした。その洞爺丸が台風15号に遭遇したのは、御召船の大役を務めた僅か1ヶ月後の事でした。

9月26日午後、台風15号が日本海上を猛烈なスピードで北東に進み、青函航路にも近付きつつありましたが、函館港(函館駅第一岸壁)に停泊していた洞爺丸のK船長は、台風の位置と進路、船の耐荒天性能などを考慮の上、航行は可能であると判断し、定刻通り午後2時40分に、洞爺丸を青森に向けて出航させる事にしました。

しかし、戦時標準船で船質が著しく劣るために危険を感じて函館山沖から引き返してきた第十一青函丸からの乗客・車両の移乗に時間がかかって出港が遅れ、それに加え、いざ出港するという時になって、貨車の積み込みのため船(車両甲板)に掛けられた可動橋が停電のために上げられず、出港の見通しがたたなくなり、そのため船長は、出港を延期する「天候警戒出港見合わせ」を決定します。しかし、この時の停電は僅か2分間で、すぐに可動橋は上げられたため、もしこの時に「天候警戒出港見合わせ」を直ちに取り消して出港していれば、難航はしたものの洞爺丸は間違いなく無事に青森に着いていたはずであるため(事実、ほとんど同時刻に青森を出港した十勝丸は無事に函館に着いています)、結果的にはこの僅か2分間の停電が洞爺丸の運命を変えた事になります。

つまり、もし洞爺丸が定刻通りに函館を出港していたとしたら、洞爺丸は何の事故に遭う事もなく済んだ訳であり、洞爺丸であれだけ多くの犠牲者が出たのは様々な複合的要因が重なった結果ですが、まずその第一の要因は、船が定刻通りに出港できなかった事(停電した事と、出港見合わせを取り消さなかったという停電後の判断ミス)にありました。

なぜ、船長は直ちに「天候警戒出港見合わせ」を取り消さなかったのか、その理由は明確ではありませんが、K船長は船長歴13年のベテランで、しかも周囲から「天気図」というあだ名を付けられていた程の“気象通”であり、恐らく船長は長年の感から、「台風の足は速い。あと2〜3時間もすれば通過するので、その後で出航すれば良い」と予測したものと思われます。実際、当日気象台から発表されていた予報では、台風15号は夕方には奥羽地方北部から三陸沖へ抜け、津軽海峡は暴風域に入るとしても可航半円であるとしており、函館気象台でもK船長と同じ見通しを立てていたのです。

午後5時、それまでの風雨が嘘のように急速に弱まり、雲間に青空も見えてきました。船長も他の乗組員達も、これを“台風の目”と確信し、後1時間程で台風は通り過ぎると判断して午後6時30分に洞爺丸を出航させる事にしました。しかし、実はこの一瞬の晴れ間は“台風の目”ではなく閉塞前線によるもので、台風はまだ函館西方に海上にいたのです。洞爺丸であれだけ多くの犠牲者が出た第二の要因は、船長のこの判断ミス(閉塞前線を台風の目と判断した事)にありました。しかし、当時は函館海洋気象台でも船長と同じようにこれを台風の目と判断していたのですから、単純に船長一人の判断ミスとしてこれを責める事はできません。台風15号は、専門家達の目をも狂わせる、ほとんど前例のない特異な性質の台風だったのです。


◆洞爺丸沈没

午後6時39分、洞爺丸は1,314名の人々(乗客1,167名、乗組員111名、その他36名)を乗せて、9分遅れ(午後2時40分の定刻からは4時間遅れ)で函館港を出航し、青森を目指しました。しかし、出航から僅か22分後、洞爺丸は函館港防波堤を出た直後に凄まじい南風と激しい波しぶきに襲われ、船長は「このまま海峡に出るのは危険」と判断して航行を断念します。

とはいえ、この状況では港に戻るのも危険と思われたため、錨を降ろして風が静まるのをその場で待つ事にしました。ところが、風は一向に衰える気配がなく、しかも錨が十分に効かず、洞爺丸は錨を降ろしたまま七重浜の方へと流されていきました。更に、車両甲板では船尾から波が次々と打ち込み、海水が車両甲板に滞留し、そのため機関室では天井から海水が降っきて、左舷発電機では白い水蒸気が立ち上がり始めました。洞爺丸であれだけ多くの犠牲者が出た第三の要因は、この車両甲板の致命的な構造にありました(これについては次々項で詳しく述べます)。

そして、石炭を焚く缶室にも浸水が始まり、蒸気が止まれば運転不能となるため焚火員は必死に対応しましたが、この頃には風速58mを記録し、風速は益々強くなる一方で、遂に客室にも浸水が始まりました。海水が畳の上を流れ始め、船が傾けば人も物も転がってくるというような状況になり、大波で叩き割られた窓ガラスの破片が散って怪我人も出始め、乗客の間にも「まさか沈むのではないか、いや、こんな大きな船がそう簡単に沈むはずはない、しかし…」という不安が広がっていきました。

台風は予報に反して北に進んで函館港を直撃し、しかも速度が半分に落ちて益々発達し、午後10時、洞爺丸は浸水により遂に左エンジンも右エンジンも相次いで停止しました。自力での航行が不可能となったため、船長は安全のために船を七重浜座礁させる決意をし、乗客に救命胴衣を着用するように告げました。そして洞爺丸は、ドドーンという船底からの大きな震えと共に座礁しました。これで、誰もが「助かった!」と思いました。そもそも座礁という事態も明らかに非常事態であり、事故には違いないのですが、少なくとも、「船底が海底に届いたのだからこれ以上沈む事はない。これで最悪の事態は去った」と誰もが思ったのです。

しかし、座礁したはずの洞爺丸は、一波毎にズルズルと海岸の方に押し流され始めました。実は、洞爺丸は七重浜にではなく、嵐のため海底の砂が移動して沖に浅瀬を作った部分に乗り上げてしまっていたのです。本当の陸地にではなく、沖に一時的にできた浅瀬に座礁してしまった事、これが、洞爺丸であれだけ多くの犠牲者が出た第四の要因です。

午後10時39分、万策尽きた洞爺丸はついに「SOS、こちら洞爺丸。函館港外青灯より276度1500mの地点に座礁せり」とのSOS信号を発信します。しかし、遭難信号を受信した僚船も国鉄青函局も、まさか4,000tもの船が座礁後直ちに転覆するなどとは夢にも思わず、しかも他の船は自船の保持に精一杯で、とても洞爺丸の救助に向かえる状況ではありませんでした。

洞爺丸からの救難信号を受けて、函館海上保安部からはすぐに「詳細知らせ」の無線が洞爺丸に送信されましたが、その通信に洞爺丸が返信をする事は永久にありませんでした。SOS信号を発信した直後、洞爺丸では船内の照明が一斉に消え、船の全機能が停止したからです。傾斜を辛うじて繋ぎ止めていた“最後の命綱”である左舷錨鎖も切れ、完全にコントロール不能に陥った洞爺丸は、巨波の一撃毎に右舷への傾きが大きくなり、午後10時43分、遂に轟音と共に右側に横転し、最後には船体がほぼ裏返しとなって4本の煙突が海底に突き刺ささるように波の間に沈没しました。七重浜から僅か700m、水深8mの地点でした。そして、海岸を目前にして、9割もの乗客が帰らぬ人となりました…。

以下の図は、5隻の青函連絡船の沈没位置を示した図で、図中の「1」が、洞爺丸が沈没した場所です。この図からも、洞爺丸の沈没地点は七重浜からはかなり近い場所であった事が分かります。

遭難連絡船位置略図


◆沈没後の混乱

洞爺丸であれだけ多くの犠牲者が出た第五の要因は、沈没後の救助活動の遅れが挙げられます。七重浜駅から救難本部に遭難者漂着の報告が入ったのは午後11時15分頃で、激しい風雨や情報の混乱などにより救助活動が遅れてしまったのです。その結果、七重浜に打ち上げられた時点では生存していたものの、そこで力尽きて亡くなってしまったという人も少なくはなかったようです。

七重浜の浅瀬に辿り着いたものの、安心感と極度の疲労から体に力が入らず、海から出ることができず、先に助かった人に手を引かれて這うようにして海から抜け出したという人もいました。また、七重浜に辿り着いた遭難者の中には、船上でもみくちゃにされた悪夢からまだ覚めず、「何か掴むものはないか!」との執念に憑かれたまま、七重浜の浅瀬から起き上がって自力で近くの民家にまで行き「揺れを止めてくれ!」と叫ぶ人や、障子を突き破って家の柱を掴む人、ストーブの煙突を掴む人などもいたそうです。

そして、洞爺丸であれだけ多くの犠牲者が出た第六の要因は、沈没した時点ではまだ生存していた乗客・乗組員の“勘違い”が挙げられます。何を勘違いしたのかというと、泳ぐ方向を勘違いしてしまったのです。折からの暴風雨と高波によって当時は泳ぐこともままならない状況にあったのですが、それでも、船が沈み海中に放り出された時、多くの人達は陸に電気が点いている明るい方を目指して必死に泳ぎました。しかし、それは遠い函館の灯であり、陸地は直ぐ700m位の七重浜の方がずっと近かったのです。

ところが当時の七重浜は人家も疎らで街灯などは全く無く、夜は暗闇となってしまうため、七重浜が近い事に気付かず函館の市街地に向かって泳いでしまった人が多く、その結果、陸地に辿り着く前に大波に飲み込まれてしまったり力尽きるなどして亡くなってしまったという方も多かったのです。泳げない人で「もう駄目だ」と諦めて波間に浮いて漂っているうちに七重浜に打ち寄せられて助かった人がいるというのは、何とも皮肉な話です。

沈没の翌日、各新聞の朝刊は第一面で洞爺丸の沈没を伝え、北海道新聞では、「台風15号で本道に大惨事」「洞爺丸 座礁して沈没 九百余名の生命絶望 既に死体二百余が漂着」「凄惨、強風荒ぶ七重浜 闇に消える救いの叫び」「逃げ遅れた女子供 激浪にのまれ大半は死亡」などの見出しで報道され、七重浜に打ち上げられた遺体の写真も掲載されました。

そして、時間の経過と共に事態は更に深刻である事が分かり、朝刊発刊後、同日中に2ページの号外も出され、1ページ目には「洞爺丸遭難者の死体続々収容」「十時現在二百八十名 青函連絡船沈没は五隻」「目を覆う七重浜の惨状 虚空をつかむ死者の手」「北見丸と第十一青函丸も沈没」「国鉄の本道幹部全滅 浅井総支配人 札鉄局長ら」などという最悪の状態を伝える見出しの文字が並び、2ページ目には「死屍累々!凄惨を極める七重浜」「浅瀬に転覆した洞爺丸の船体」とキャプションを付けられた写真2枚が掲載され、見る人の心を締め付けました。

国鉄本庁の会議に出席するため洞爺丸に乗船していた浅井国鉄北海道総支配人、船津旭鉄局長、栗林札鉄局長、水谷釧鉄局長などの国鉄幹部も殉職し、富永元衆議院議員右派社会党の富吉衆議院議員、菊川衆議院議員、元宝塚スターの佐保美代子さんなどもこの時洞爺丸に乗船していたため犠牲になりました。また、犠牲者の中には、任期を終えて羽田空港から本国に帰るために乗船していた千歳駐屯の60人の米国軍人とその家族も含まれていました。

事故後、総勢8社117人の潜水夫によって船内の遺体捜索が行われ、これと並行して100隻の漁船による底引き作業も行われ、また、海上自衛隊海上保安庁の艦艇・ヘリコプター・連絡船・補助汽船により浮遊遺体の捜索・引き上げ作業も行われ、函館市内の広場には次々と遺体が運ばれました。しかし、遺体の数が余りにも多く、そのため収容場所は死臭と線香と消毒剤が交じり合った咽るような臭気が満ち、そのような劣悪な状況下で、遺族達はそれらの遺体を掻き分けるようにして身寄りを捜し、泣きながら遺体に抱きつくなど、言葉には表せない悲惨な光景が至る所で展開されました。

そして、事故の後、「なぜ台風が来ているのに船を出航させたのか」という怒りが巷に渦巻き、その怒りは、生き残った乗組員や、亡くなった乗組員の遺族達にまで向けられました。特に、洞爺丸と運命を共にして死亡したK船長は世間から激しい非難を浴びる事になり、K船長の奥さんは、夫の死を悲しむ暇もなく、事故の後、連日遺体収容所に赴いて遺族の前で「Kの妻です。大変申し訳ありませんでした」と泣きながら謝り続けたそうです。K船長の奥さんは、当時、雑誌に次の手記を寄せています。

あの惨事の前日、夫はいつもと変わりなく私と次女の淑子に見送られて、午後2時頃家を出ました。翌日の目を覆う地獄が口を開けている事など、神ならぬ身には知る術もなかったのです。(中略)夫はこれまで、どんな事態に直面しても、絶対に慌てた事はありませんでした。これは決して死んだ夫を庇う妻の気持ちからではありません。(中略)生き残った部下の方から、当夜最後までブリッジに頑張り、仁王立ちになった夫の行動を28日夜になって初めて知ると同時に、世間の批判は益々募るばかりでした。夫の遺体は揚がらなくとも、乗客や船員の遺体は全部遺族の元に届けていただきたい。私達母子はどんな厳しい非難も覚悟の上です。許されない事でしょうが、任せられた多くの生命を失った夫の罪を、どうかこの母と子に免じて許してやって下さい。

この手記が発表された2日後の10月3日、K船長の遺体が揚がりました。救命具を付けず、愛用の双眼鏡をしっかりと胸に握り締めたままの姿だったそうです。それは明らかに、船長としての職務を全うした“殉職”でした。その後の海難審判では、洞爺丸の沈没は船長の判断ミスを原因とする人為的な事故と結論付けられましたが、船と運命を共にした船長にその判断の可否を問うことは出来ませんし、次項で詳しく述べるように当時の気象観測に不備があったのも確かで、船が沈没した責任を船長や乗組員にだけ押し付ける事はとてもできません。


◆大惨事となった要因

前項及び前々項で触れたように、洞爺丸であれだけ多くの犠牲者が出る事になった要因はいくつもあるのですが、その中でも特に大きな要因といえるのは、以下の2点です。

(1)気象観測の手違い

気象台もベテランの船長も、台風15号の異常な動きを見抜く事ができなかった事が、惨事を引き起こした最大の原因といえます。台風15号は100km以上の速度のままで日本海を一気に北上し、午後3時には早くも青森県の西海上に到達し、この時台風の中心気圧は960mbと依然として大きな勢力のままでしたが、100km以上もあった速度は青森県に於いて一転して50kmと大幅に減速しました。この思いもよらない減速が大きな悲劇を生む事になったのです。そして、台風の北上するスピードは青森県沖からさらに遅くなり、台風15号は巨大なエネルギーを蓄えたまま、函館湾内の青函連絡船にに襲いかかったのです。

気象台も対応も、かなりずさんなものでした。当日、台風が日本海に抜けてから中央気象台は資料不足に悩まされ、その上、北海道各地の測候所との専用回線も切れて、午後5時過ぎまで約6時間に亘って情報の空白状態が続いていたのです。また、函館海洋気象台では、午後5時に、2時間も前の午後3時現在の状況を発表したきりでした。当時の旭川測候所所長は、事故の後、新聞に以下の投稿をしております。

台風15号について私は大失敗した。もともと風の弱い旭川には暴風警報を出さなかった。ところが台風通過後に暴風が酷くなって、当初開設以来2番目の暴風を記録してしまった。つまり台風15号は今までのものと性質が違っていたための失敗であった。私達の失敗は、洞爺丸が台風中心の通過中に出航したという不可解な行動を解く鍵となりそうである。

しかし、気象衛星はおろか気象レーダーすら無かった当時、このような複雑な気象現象を正しく観測し予想する事が非常に困難な事でもあったのも確かで、しかも、速度を急速に落としてゆっくりと北上を続けるという台風は観測史上この15号が初めてであり、気象台の対応だけを一概に批判する訳にはいきません。

(2)車両甲板への浸水

連絡船の、鉄道車両を積み込む部分を車両甲板というのですが、洞爺丸はその車両甲板の船尾開口から浸水した海水が船の心臓部である機関室と缶室に侵水した事により、主エンジンや操舵機が停止し、台風の猛威と戦う全てを失ってしまったのです。これは沈没した他の連絡船「北見丸」「日高丸」「十勝丸」も同様で、開口部である車両甲板に海水が浸水し滞留した場合、機関室への浸水を防ぎきれないという連絡船の構造上の問題が浮き彫りになりました(これまではどんな荒天時でも、車両甲板入口付近を濡らす程度しか海水の侵入がなかったため、経験則として車両甲板全体に海水が滞留する事態は考えられていなかったのです)。

また、洞爺丸は18両の貨車を積んでいましたが、洞爺丸と同じく沈没した他の4隻についても、北見丸は46両、日高丸は43両、十勝丸は43両と、それぞれ貨車を積んでいました。これに対して、空船で貨車を積んでいなかった大雪丸と第十二青函丸はいずれも助かっており、重量のある貨車を積んでいなかった分、吃水(船が水に浮いている時の、船体の最下端から水面までの垂直距離)が浅く、そのため車両甲板への海水の浸水が少なく、また、車両甲板開口部の閉鎖作業も容易だった事も、結果的には明暗を分けました。

貨車を積んでいた洞爺丸をはじめとする沈没した5隻の連絡船は、貨車を積んでいた事によって重心が高くなっていたのに加え、車両甲板に海水が侵入し始めた際に、車両甲板に開口している機関室やボイラー室への換気口を閉鎖しようとしても車両が邪魔をしてこれらの開口部の閉鎖が完全に行えず、そのため機関室等への浸水を防げず、これが沈没の大きな一因となったのです。

こういった事から、事故の後の連絡船は、防水を徹底させるために車両積込口に防水扉が設置され、また、生き残った洞爺丸型3隻の連絡船については、遊歩甲板の角窓を水密性に優れた丸窓に交換し、石炭積卸用の開口部を閉鎖するため燃料の重油転換も図られるなどの改修が施されました。


◆海難から立ち上がる

洞爺丸の沈没は、青函連絡船の運航に様々な教訓を残しました。事故の翌年(昭和30年)、青函鉄道管理局は、青函船舶鉄道管理局に改められ、船舶業務の指導監督が明らかにされ(青函連絡船の運航はそれまで船長の独断に任されていたのですが、事故後は船長と青函局指令との合議制になりました)、航海に必要な気象情報や警報を迅速に連絡するため直通電話、連絡放送などが増強されました。

また、低下した輸送力アップのため、同年「檜山丸」「空知丸」の貨物船2隻が就航し、昭和32年には、洞爺丸の代船として客貨船の「十和田丸」が新たに就航しました。これら3隻はいずれもディーゼル機関を採用し、また安全には特に配慮をした船でした。転覆し難いよう重心を低く設計し、車両積載口には水密扉を設置し、車両甲板下の旅客区画も廃止するなどし、それまでにも増して特に安全性に力が入れられ、十和田丸には当時としては珍しかった膨張式ゴムボートも装備されました。事実、その後は昭和63年3月13日の連絡船終航まで、青函連絡船では二度とこのような大きな事故が起きる事はありませんでした。

そして、戦前から構想だけはあったものの、ほとんどの人が実現不可能な夢物語と考えていた青函トンネルの建設事業が、洞爺丸の沈没が大きな契機となって急速に具体化していき、二度とこのような事故を繰り返さないという決意の下、昭和36年、北海道側の吉岡で斜坑の掘削が開始され、世紀の大事業である青函トンネル工事が着工されました。

なお、洞爺丸沈没のひと月あまり前に洞爺丸に乗船された昭和天皇は、事故の後、以下の二首を詠まれています。昭和天皇の深く悲しまれた様子がひしひしと伝わってきます。

その知らせ悲しく聞きてわざはひをふせぐその道疾くとこそ祈れ

北の旅のおもひ出ふかき船も人も海のもくづとなり果てにけり

事故の翌年、多くの遺体が引き揚げられた七重浜には犠牲者を悼む慰霊碑が建てられ、その慰霊碑は今も海峡を行く船を静かに見守っています。


(田頭)

人気blogランキングへ