西野神社 社務日誌

札幌市西区の西野・平和・福井の三地区の鎮守(氏神様)であり、縁結び・安産・勝運上昇等の御神徳でも知られる西野神社の、公式ブログです。

11〜12月の宮中祭祀

宮中祭祀(皇室祭祀)とは、皇居内に鎮座の宮中三殿賢所皇霊殿、神殿)や神嘉殿、あるいは山陵(天皇太皇太后太后皇后の山陵、御陵、皇族方の陵墓)に於いて、天皇陛下や皇族が御先祖や神々に深謝され、国家の安泰、国民の福祉、世界の平和などを祈念される一連の祭祀の総称です。

1月13日付の記事では1月の宮中祭祀について、2月1日付の記事では2〜3月の宮中祭祀について、4月2日付の記事では4〜6月の宮中祭祀について、7月4日付の記事では7〜10月の宮中祭祀についてそれぞれまとめさせて戴きましたが、今回はそれらの記事の続きとして、11〜12月にかけての宮中祭祀をまとめてさせて頂きます。このシリーズはこれで完結です。


【11月22日】鎮魂の儀

新嘗祭(次項参照)の前日夕刻より綾綺殿にて執り行われる神事で、「みたましずめのぎ」といい、大祭・小祭の諸祭とは別とされています。

「令義解」(りょうのぎげ)によると、魂は身体から離れようとする事があるため魂を体に鎮める必要があり(これが「みたましずめ」の観念)、また、「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)などに記されているように魂は身体より離れはしなくても活力を無くす事があるので魂を活性化させる必要があり(これが「みたまふり」の観念)、宮中で行なわれる鎮魂の儀は、これらの両観念のもとに、大嘗祭天皇の即位後、宮中で初めて行われる一世一代の新嘗祭の事で、年毎の新嘗祭とは区別されています)や新嘗祭という重大な祭祀に臨む天皇陛下の霊魂の強化をはかるために行なわれます。

鎮魂の儀の史料上の初見は、日本書紀の天武十四年十一月条で、宮内省に神座を設けて天皇の衣服を運んで大臣以下の官人が参列して斎行され、宮内省の官舎が失われてからもその跡地で行なわれていましたが、15世紀に廃絶しました。現在宮中で行なわれている鎮魂の儀は明治6年に再興されたもので、綾綺殿に設けた祭場に、「延喜式」に記す通り神八座(神魂神、高御魂神、生魂神、足魂神、魂留魂神、大宮女神、御膳魂神、辞代主神)、大直神一座を降神して、掌典長祝詞を奏上してから、宇気槽の儀や御衣振動などの特殊な儀を行なっています。


【11月23日】新嘗祭

天皇陛下が神嘉殿に於いて、天照大御神をはじめとする八百万の神々に新穀をお供えになり、神恩を感謝された後は陛下御親らもお召し上がりになる、宮中恒例祭典の中で最も重要な祭典(大祭)です。

春に収穫を祈願して祈年祭を行い、秋にその収穫に感謝をして新穀を神様に捧げた後に頂く、という祭事は万葉集などにも見られるように古くより広く各地で行なわれ、また、「日本書紀」神代巻に天照大御神が新嘗を聞こし食された事が記されている事からも、宮中でも古くより行なわれ、重視されてきました。

しかし、後花園天皇の御世である寛正4年(応仁の乱が始まる直前期)に新嘗祭が行なわれて以降は、皇室の衰微により中絶のやむなきに至り、その後、東山天皇が元禄元年(徳川綱吉の時代)に「新嘗会」との名で再興されましたが、その後はまた暫く行われず、元文4年(徳川吉宗の時代)、櫻町天皇が正式に再興の事を議され、翌元文5年11月24日に旧儀通りに再興されました。そして明治4年、四時祭典則で新嘗祭を御親祭のうちに入れられ、翌5年の改暦の後、明治6年からは11月23日と定められ、同年よりこの日に行われるようになり現在に至ります。現在の宮中での新嘗祭の次第は以下のようになっています。

当日午前から神嘉殿内が整えられ、午後に掌典長以下で神座奉安を奉仕(神迎え)。夕刻に綾綺殿に渡御された天皇陛下はそこで侍従の奉仕により、嵯峨天皇の御世(平安時代初期)に定められた御祭服をつけられる。東宮便殿に参入された皇太子殿下は東宮侍従の奉仕で斎服をつけられる。参集所に参集した参列諸員が式部官の前導で幄舎についた後、掌典長が所定の位置について祝詞を奏上。天皇陛下出御(天皇陛下が御座に着御し、侍従が剱璽を御側の上に奉安)。皇太子殿下参進(皇太子殿下が座につかれ、東宮侍従が壺切御剱を御側の案上に奉安)。神饌行立(膳舎より掌典采女が、御米飯や御栗飯を入れた御飯筥、調理した魚を入れた鮮物筥、乾魚を入れた干物筥、果実を入れた御菓子筥を、神嘉殿に進める)。天皇陛下は正殿の御座に進御し、改めて陪膳采女の奉仕で御手水。御親供(伊勢の御方向の神座の御前に、天皇陛下御親ら神饌を古来の定め通りに次々と盛り付けられて供せられる)。御拝礼、御告文を奏される。御直会(御米飯、御栗飯、白酒、黒酒を聞こし食される)。皇太子殿下が正殿正面外側の座に進まれて拝礼。参列者諸員が庭上に進み拝礼。陪膳采女以下の奉仕で神饌撤下。

なお、春秋の皇霊祭同様、新嘗祭にも、内閣総理大臣衆議院参議院の両議長、最高裁判所長官、各国務大臣等に、掌典長より参列につき案内する事になっています。ちなみに、新嘗祭における天皇陛下による御親供は凡そ1時間半にも及ぶのですが、その間、皇太子殿下は座で只管正座されたままでいらっしゃいます。


【12月中旬】賢所御神楽

夕刻より翌早朝にかけて、賢所前庭の神楽舎で御神楽を奉奏して、御神霊を和めまつる祭典(小祭)です。古来から日は定められておらず、そのため皇室祭祀令でも日付は示されておらず、ただ「十二月中旬」とされています。御神楽は、一条天皇の御世である長保4年(平安時代中〜後期頃)に隔年で始められ、承保4年(平安時代後期)以降は毎年行われるようになり、その後、中世末期(戦国時代〜安土桃山時代)には行われない事があったようですが、江戸時代以降はまた続けられてきました。

賢所御神楽の当日は、神楽舎の正面以外の三方に幔幕を張り廻し、その内の東西両側に三色木を敷き、その上に薦を敷き、更にその上に薄縁帖を敷き、正面中央では庭燎を焚き、午後6時に、楽師(御神楽24名、神楽歌9名)が参進して座につき、御神楽を奉奏します。


【12月23日】天長祭

天皇陛下の御誕生日を祝して宮中三殿で執り行われる祭典(小祭)です。天皇御生誕の日を天長節と称してお祝いする行事は「続日本紀」の「光仁天皇宝亀六年十月十三日」に初見される事から、天長節奈良時代後期から行われていたようですが、全国的な行事として盛大に執り行われるようになったのは、明治元年明治天皇誕生日である9月22日(旧暦)に神祇官神殿に於いて天長節の行事が執り行われてからです。

明治6年、旧暦から新暦への改暦に伴って、正院布告により従来の五節句人日、上巳、端午七夕重陽)が廃され、神武天皇即位日(紀元節)と共に天長節が祝日と定められ、またこの布告の中では、それまで9月22日とされてきた明治天皇天長節新暦に換算して11月3日に改定されました。

現在の天長節は、午前9時に天皇陛下宮中三殿での祭典で御拝された後、10時より長官以下の祝賀を受けられ、10時15分には一般参賀を受けられ、その後は終日、祝賀行事におでましになります。なお、天長節に関しては一昨年12月23日付の記事「天皇誕生日」も、併せて御参照下さい。


【12月25日】大正天皇例祭

大正天皇崩御日(12月25日)に、宮中の皇霊殿と、大正天皇の御陵である多摩陵(東京都八王子市)に於いて執り行われる祭典(小祭)です。皇室祭祀令第八条・第九条・十二条により昭和3年以降は先帝祭、大正天皇祭として、昭和63年まで大祭として御親祭されましたが、平成2年以降は、同令第二十一条に定める先帝以前三代の例祭に準じて小祭で行われています。


【12月31日】節折

天皇陛下のための祓いの行事です。平安時代初期より行われていたのですが中世以降は廃れてしまい、明治4年6月に、「大祓」と共に再興されました。この行事では、侍従が、御小直衣を召されて出御された天皇陛下の御後に立って細竹で御背丈を計り、その竹に筆で墨印を付けます。そしてその細竹は侍従から掌典掌典から掌典補へと下げ送られ、掌典補はその墨印の箇所で細竹を折ります。同様に、天皇陛下の左右御肩から御足まで、左右御胸から御指先まで、左右御腰から御足まで、左右御膝から御足までを細竹で順次計らせて戴き、その度に墨印を付けられた細竹が送り下げられ、掌典補は墨印の箇所でそれを折り、それらを櫃に収めます。そして櫃に収められた御竹は、大祓の祓物とともに海に流されます。


【12月31日】大祓

神嘉殿前庭にて、皇族をはじめ国民のために行われる祓いの行事です。定期的に国家全体を祓うことは天武天皇の時代より行われていましたが、宮中では応仁の乱により中絶し、明治4年、前項で述べた「節折」とともに再興されました。再興当初は賢所前庭で行われていたそうですが、昭和13年に宮中三殿御修理のため神嘉殿前庭で行われるようになってからは、修理が終わって以降も毎年神嘉殿前庭で斎行されるようになりました。


【12月31日】除夜祭

大祓の後に宮中三殿で行われる歳末の祭典で、一年間の神様の御恵みに感謝する祭典です。もともと宮中では、鎌倉時代末期頃まで、大晦日には陰陽師により追儺(ついな)という神事が執り行われおり、室町時代以降、追儺は節分に行われるようになったのですが、その後も大晦日には年越しの神事が行われ続け、明治になってからその神事が除夜祭という今の形に改められたと云われております。ちなみに、現在の宮中の除夜祭は皇室祭祀令には入れられておらず、そのため天皇出御・御拝はなく、掌典職限りで奉仕されています。


(田頭)

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