西野神社 社務日誌

札幌市西区の西野・平和・福井の三地区の鎮守(氏神様)であり、縁結び・安産・勝運上昇等の御神徳でも知られる西野神社の、公式ブログです。

織田信長と熱田神宮

織田信長

来週、神社から連休を頂きまして、名古屋と伊勢に行って参ります。新千歳からセントレア中部国際空港)行きの飛行機に乗ってまず名古屋に入り、名古屋から、近鉄の特急に乗り換えて伊勢に行こうと思っています。名古屋と伊勢に行く以上、勿論、名古屋の熱田神宮と、伊勢の神宮へもお参りに行ってきます。というか、むしろそのお参りが今回の旅行の目的です。また伊勢では、今回初めて皇學館大学へもお邪魔して来ます。皇大への訪問も今から楽しみです。

ところで、熱田神宮は、私にとっては懐かしい思い出のあるお宮です。京都の神職養成機関に在学していた一年次の夏季休暇中、私は、熱田神宮境内にある神職養成機関「熱田神宮学院」の学生寮に3週間泊り込んで、同神宮境内に於いて緑陰教室(小学生を対象とした林間学校)の先生として御奉仕させて頂いた事があるからです。正月の授与品の調整を行ったり、玉垣の内側に入れさせて戴き清掃奉仕を行うなど、神務実習も併せて行わせて頂きました。なお、熱田神宮での当時の御奉仕については以下の記事に詳しく書かせて頂きましたので、御参照下さい。

http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20070809

来週、その熱田神宮へ6年ぶり(伊勢の神宮には5年ぶり)にお参りに行かせて頂くので、今日は、それに因んで熱田神宮に関するエピソードを書かせて頂こうと思います。個人的には、戦国武将のカリスマともいえる織田信長(上の絵図参照)と熱田神宮との関わりがなかなか興味深いので、今日は、私の個人的な趣向に基づき(笑)その辺の事情を以下にとめさせて頂きます。

駿河遠江三河の三ヶ国と尾張の一部を支配し「海道一の弓取り」と称されていた駿河守護大名今川義元は、永禄3年(1560年)5月、信長が支配していた領土(尾張の大半)をも攻略すべく、2万5千の大軍を率いて駿府から尾張に進撃しました。この時、対する織田軍の兵力は僅か3〜4千程度で、今川軍は、織田軍の諸城を攻め落としながら順調に尾張に進攻し、信長の本拠地である清洲に迫りつつありました。そして、清洲を攻略するに前に、今川軍は桶狭間に本陣を構え、そこで暫しの休憩を取りました。

同年5月18日の夜、当時27歳の青年だった信長は、次々と寄せられる、自軍の極めて不利な戦況報告にも動じる事なく、今川軍の動向を清洲城の中から備に観察し、そして突然、日頃から愛踊していた幸若舞「敦盛」を謡いながら三度舞い、舞い終わると同時に、具足を素早く身に付け、兜を被って馬に跨り、清洲城を出陣しました。余りにも突然の出陣だったため、この時信長に従った者は僅かだったといいます(江戸時代初期に成立した「信長公記」によると、この時信長に従ったのは岩室長門守ら小姓衆僅かに5騎だったそうです)。

清洲城を出た信長が向かったのは名古屋の熱田神宮で、翌19日の午前8時頃に熱田に到着し、その時にはようやく300騎程の兵が信長の下に集結しました。しかし「信長公記」によると、熱田に着いた時、信長は同神宮の摂社・上知我麻神社の前で、東方に二条の煙が立ち上るのを見て鷲津・丸根の両砦が陥落した事を知ったとの記述があるので、織田軍にとっては依然として不利な戦況が続いていました。

熱田神宮に着いた信長は、右筆(ゆうひつ)の武井夕庵に『この戦いは多勢に無勢、苦しい戦いとなる。熱田大神の力を借りて、是非勝利したい』という趣旨の願文を作らせ、御神前に跪いて、集結した兵達の前でこの願文を読み上げ戦勝を祈願しました。この時、本殿の奥から甲冑の触れ合う音が聞こえ、一羽の白鷺が舞い立つという吉兆が顕れたそうで、信長は「これぞ、熱田の大神が我々を護り、勝利に導くしるしである!」と兵達を激励しました。

信長にとって、熱田は周辺の軍勢を集結させる場所としても最適だったようで、信長が同神宮を出た時には2千人近い兵達が集まっていました。こうして熱田で軍勢を整えた信長は、今川軍が本陣を置く桶狭間に向かい、そのすぐ近くの太子ヶ峰に隠れて攻撃の機会を窺いました。そして、猛烈な雨が降り出したの機に、信長は2千の軍勢を率いて一挙に今川軍本陣に奇襲をかけたのです。

ちなみに、下の左側の写真が熱田神宮の拝殿(外玉垣御門)で、右側の写真が、現在は史跡として整備されている「桶狭間古戦場跡地」です(熱田神宮の写真は同神宮で実習していた当時、桶狭間古戦場跡の写真はバイクで日本一周ツーリングを行なっていた時に、それぞれ撮ったものです)。

熱田神宮 桶狭間古戦場跡

織田軍の突然の奇襲に今川軍は大混乱に陥り、右往左往する中、信長の近臣・毛利新助が今川義元の首級を挙げ、大将を討たれた今川軍は散り散りに敗走していきました。こうして信長は、歴史上最も華々しい逆転劇をおさめ、この戦勝により、信長はその名を天下に知られるようになり、そして尾張全土を統一し、やがて天下統一に乗り出す事になったのです。また、信長が桶狭間で義元を討った事により今川が没落し、今川の家臣(事実上の人質)であった三河の松平元康(後の徳川家康)は今川と断交して信長と同盟を結ぶ事になった訳ですから、この意味においても、この時の信長の戦勝は間違いなく歴史の大きな転換点となった出来事でした(もし義元が生きていれば家康が幕府を開く事は有り得ませんでした)。

桶狭間での戦勝後、信長は清洲城への帰途に、熱田大神の御加護に感謝するため再び熱田神宮に参拝し、神馬1頭を奉納し、その後更に、今も境内に残る、土と石灰を油で練り固め瓦を厚く積み重ねた「信長塀」を奉納しました。この塀は、三十三間堂の太閤塀、西宮神社の大練塀と共に「日本三大壁」の一つと云われています。

ところで、よく知られているように、信長は「神仏をも怖れぬ男」「残忍冷徹な男」「魔王」といった悪しき印象を周囲に与えてきました。確かに信長は、比叡山一山を焼き討ちしたり、伊勢長島の一向一揆を徹底的に弾圧するなど、一部の過激な仏教勢力に対しては容赦のない大弾圧を加えましたし、更に、自分に背いた浅井長政親子・浅倉義景の頭蓋骨を漆で塗り固めて金粉を施したものを酒の肴にするなど、常軌を逸した所があったのも確かです。しかし、それ故に、信長が神社、特に熱田神宮に対して抱いていた格別の崇敬の念は、逆に際立って見える程、全く異例のものでした。

しかも信長は、熱田神宮以外にも、伊勢の神宮石清水八幡宮賀茂別雷神社賀茂御祖神社などの大社にも造営料を寄進しており、戦国の世の混乱のため中断されていた祭祀の復興に貢献しました。このため、仏教勢力(もっとも、当時の大寺院は“仏教”という蓑を被った純然たる軍事勢力でしたが)にとっては「鬼」や「悪魔」のように思われていた信長ですが、神社にとっては、信長は「大恩人」ともいえるのです。

寛正3年(1462年)以来123年ぶりに再興された、天正13年(1585年)斎行の第41回神宮式年遷宮も、慶光院周養上人(尼僧)の勧進活動と共に、信長や秀吉の経済的援助がなければ実現できなかったと云われており、政治的な計算や配慮があったにせよ、信長が神道や神社の復興に尽力した功績は大いに評価すべきものがあります。

また、戦国時代は皇室が最も衰微した時代でしたが、信長は上洛後、直ちに皇居の修理に着手し、殿舎を全て新築して一新させ、更に御料地も回復し、供御(くご)の料を奉って廃絶していた朝儀の再興を図るなど、皇室への貢献も大きなものがありました。ですから、私は信長を過大評価するつもりはありませんが、神道人としてはもっと信長を正当に評価してもいいのでは、という気がしています。


(田頭)

人気blogランキングへ