西野神社 社務日誌

札幌市西区の西野・平和・福井の三地区の鎮守(氏神様)であり、縁結び・安産・勝運上昇等の御神徳でも知られる西野神社の、公式ブログです。

大久保利通という漢の生き様

大久保利通

よく知られているように、薩摩藩士の西郷隆盛と、同じく薩摩藩士の大久保利通と、そして長州藩士の木戸孝允の3人は、「維新の三傑」と称されています。右の肖像画が、今日の記事の主役であるその大久保利通です。

維新の三傑とは、倒幕と新政府成立に最も貢献した3人という意味で、私個人としては、倒幕と新政府成立に最も貢献したのは、その三傑が最も打倒すべき敵と認識していた徳川慶喜なのではないだろうかと思っているのですが(実際には慶喜はあくまでも“優秀な政治家”であって“征夷大将軍として真に武家の棟梁たるに相応しい人物”ではありませんでしたが、もし慶喜武家の棟梁に相応しい武士であったとしたら、日本は戊辰戦争以上の大規模な内戦状態に陥っていた事は間違いなく、そうなれば欧米列強の介入を招く事になり、結果的に日本の独立が保たれていたかどうかも疑わしくなります)、それはともかく、その三傑の中で最も人気がある人物といえば、それは間違いなく西郷隆盛です。今でも“西郷さん”と、さん付けで呼ばれる事からも、皆から広く愛され親しまれている様子が窺えます。

逆に、三傑の中で最も不人気なのは、間違いなく大久保でしょう。西郷とは共に維新を推進してきた同士であり、プライベートでは親友でもありながら(大久保と西郷は子供の頃から家族ぐるみのつきあいでした)、最終的にはその西郷を死に追いやった非情で冷酷な人間として、あるいは、明治初期に於いて当時の政府の事実上の頂点に立ち絶大な権力を行使して強権的な政策を次々と断行していった“冷徹な権力者”として、一般国民からは当時も今も(政治家としての評価は高くても)その人気は極めて低いのが実情です。人気が低いというよりも、明治期に於いてはむしろ国民からははっきりと“嫌われていた”といってもいいくらいかもしれません。現在ではさすがに“嫌われている”という程ではないでしょうが、少なくとも、今以上に西郷の人気が高かった明治時代に於いては、大久保は一般の国民からは間違いなく嫌われていました。

最終的には、その嫌われぶりが祟って大久保は不平士族達により暗殺されるにまで至るのですが、その暗殺された日が、明治11年5月14日、つまり丁度130年前の今日なのです。そこで今日は、大久保の130年忌に因んで、大久保とはいかなる人物であったのかを、改めて振り返ってみたいと思います。

ところで、私は今までこのブログで幕末についてのエピソードを紹介した際、大抵は幕府側の人間に対して同情的に、官軍を名乗った新政府側の人間に対してはかなり厳しい書き方をしてきたため、一部の読者には、このブログの作者(田頭)は「神職でありながら、当時朝敵とされた幕府を支持する佐幕派である」という認識を与えていたかもしれませんが、実際には必ずしもそうではありません(否定もしませんが)。ただ私は、薩長をはじめとする西国諸藩のみが近代日本の礎を築き、旧幕府側の人間が近代日本の建設には何ら貢献する事がなかったと思われている事や、敗者であるばかりに旧幕府側の人間が事実を歪曲されてまで不当に貶められて評されている事に我慢ならないだけで、所謂官軍(薩長土肥)の中にも、個人的に好感を抱いている人物は勿論います。実は私は、「維新の三傑」の中では以前から大久保が最も好きなのです(その理由は後述します)。

また、一昨年5月19日付の記事「黒田清隆と榎本武揚」の「北海道の開拓」の項でも紹介したように、明治になってから北海道開拓のために設立された官庁・開拓使は、薩摩閥の独占官庁であり、そのため初期の北海道開拓は、北海道からは遠く離れた薩摩(現在の鹿児島県)の人々によって推進され、そういった経緯から全国の自由民権派の人々は、東京の政府を憎む以上に北海道の開拓使藩閥政治の象徴として憎み、開拓使のトップにいた黒田(大久保が暗殺された後、大久保の後を継いで薩摩閥の重鎮になりました)に対しては、「開拓使の黒田か、黒田の開拓使か」と陰口を叩いていた程でした。こういった事実からも、その地理的関係から一見まるで接点のなさそうに見える北海道と薩摩には実は浅からぬ繋がりがあり、私としても薩摩の動向には個人的に関心を持っておりました。そういった事からも、実は大久保については、以前からこのブログでも取り上げてみたいと密かに考え続けていたのです。


◆明治政府成立以前の大久保

大久保利通は、天保元年(1830年)8月10日、南海の雄藩・薩摩藩の鹿児島城下 高麗町で、琉球貿易を管轄する琉球館に勤めていた大久保利世の長男として生まれました。大久保家の家格は御小姓与(おこしょうぐみ)と呼ばれる身分の下級藩士で、大久保は幼少期に高麗町から甲突川対岸の加治屋町に移住し、そこで親友の西郷隆盛らと共に学問を学びました。

この加治屋町は、戸数僅か七十余の下級武士町でしたが、その小さな町内から西郷隆盛、その弟の従道(海軍大臣、内務大臣、元老として活躍。海軍軍人としては初めての元帥)、大山巖(日清戦争では陸軍大将として、日露戦争では陸軍元帥として共に日本の勝利に貢献。参謀総長・内務大臣・元老などを歴任)や東郷平八郎(海軍元帥。乃木希典と並び称された日露戦争の英雄。ホレーショ・ネルソン、ジョン・ポール・ジョーンズと並ぶ世界三大提督の一人)といった豪傑達を輩出した事で有名です。

大久保は15歳の時に元服し、弘化3年(1846年)から藩の記録所書役助として出仕しますが、嘉永3年(1850年)に起こったお由羅騒動(第10代藩主・島津斉興正室の長男である斉彬と、側室・お由羅の子である久光との家督相続を巡る対立)で斉彬派が大弾圧され、大久保の父の利世が斉彬派に属していたため大久保自身も記録所を免職、謹慎させられる事になり、大久保家では一切の収入が途絶え、一家は貧窮しました。

しかしその翌年、島津斉彬が藩主となった事で大久保は謹慎を解かれて記録所に復職し、誠忠組(朱子学の書である「近思録」の研究会)のリーダーとして活動するようになり、斉彬の死後は、友人の助力を得て、藩政後見となった島津久光(新藩主・島津茂久の実父)に接近し、以後は久光に取り立てられて、異例の出世を遂げて藩政に参与するようになりました。

本来であれば、身分の差から大久保と久光との間に直接の接点が生じる事は有り得なかったのですが、大久保は久光に接近するため、久光の趣味が囲碁であると聞くと友人の兄である吉祥院という囲碁の名手(久光の囲碁の相手もしていました)に弟子入りし、さり気なく政治に関する話や誠忠組についての話をしてそれが久光の耳に届くようにし、また、久光が読みたがっている本を知るとその本を吉祥院を通して久光に献上し、その本の中に自分の意見や同士の名前を書いた紙を挟んでおくなどして、久光に自分の考えを知らしめる事に成功したのです。

文久2年(1862年)、大久保は初めて、幕末期の政局の中心地である京都に足を踏み入れ、弱体化した幕府の改革を目指して、公家の岩倉具視らと公武合体政策を画策し、一橋慶喜将軍後見職就任、福井藩主・松平慶永政事総裁職就任などを推し進めました。以後、大久保は西郷と共に薩摩藩の中心人物として活躍し、薩英戦争の際には薩摩に帰って作戦の指揮に当たり、戦争には敗れたものの、戦後イギリスとの講和交渉では巧みな交渉術を発揮して「イギリスの要求する慰謝料7万両を全額幕府から借用して支払う」という解決策を導きました。

そして、慶応3年(1867年)、徳川慶喜大政奉還を行うと、大久保は岩倉と共に王政復古のクーデターを計画して実行し、明治新政府を成立させました(親幕府の摂政らが御所を出るのと入れ違いに薩摩藩兵が御所の内外を封鎖し、王政復古派の親王や公卿らが参内して天皇に王政復古断行を奏上、王政復古の大号令が発せられました)。

大久保は下級藩士の身でありながら、己の才覚のみでかつてない程の出世を果たし、幕末の政界に強靭な意志の力と理性を持って登場したのです。


◆中央集権を強力に推し進める

薩長土肥藩士達が中心となった明治新政府が成立すると、大久保は参与、参議を務め、旧藩主達や多くの士族の反対を押し切って廃藩置県版籍奉還などの政策を次々と断行し、中央集権国家の確立に奔走しました。

当時の日本は、戊辰戦争終結して間もなく、新政府は、若さと勢いはあってもその政権基盤は未だ脆弱で、しかし当時の国際社会は弱肉強食の帝国主義時代であり(欧米列強はアジアの国々を次々と植民地化していました)、開国した事によりその帝国主義の荒波の中に舵を進めなければならなくなった日本は、植民地化されるのを防ぐためにも、何としても早急に中央集権体勢の強権的な国家を築き上げる必要があったのです。

大久保は、かつての主君で自分を重用してくれた島津久光に中央集権政策を理解して貰うため、薩摩に戻って久光と面会し協力を求めましたが、久光は新政府が進めていた封建制度廃止には反対で、話し合いは激論となってついに大久保は久光の説得を断念し、東京へと帰っていきました。この時大久保は、久光と、故郷の薩摩藩とは完全に決別したのです。そして大久保は、久光が新政府に対してクーデターを起こすのではないかと囁かれ政府内にも動揺が見られる中、廃藩置県を断行して、政府の権限強化に努めました。廃藩の報が入った時、久光は自邸で花火を打ち上げてその怒りを紛らわしたと云われています。

明治4年、大久保は岩倉具視を全権大使とする欧米視察団に特命全権副使として同行し、出発から1年10ヶ月後、多くを学んでドイツから帰国しました。その頃、大久保の留守を預かっていた政府部内では、西郷隆盛副島種臣板垣退助江藤新平らが征韓論を主張し、排日と鎖国政策をとる韓国に対して武力で開国を迫るべきという姿勢を示していました。

それに対しては大久保は、岩倉や木戸孝允らと共に内治優先を貫き、征韓論を主張する西郷らと真っ向から対立しました。欧米の先進諸国を実際に自分の目で見て周り、その国力に圧倒されて帰ってきた大久保は、日本が世界の国々と渡り合うためには、まず殖産興業を行って国の基礎を固めなければならないと痛感していたのです。そのため、共に薩摩の出身で盟友でもあった大久保と西郷は、この征韓論を巡って激しく対立し、結局、大久保の裏面工作によって西郷は政治的に敗北して下野する事になり、この西郷の下野が、やがて明治10年の西南戦争へと発展していくのです。

大久保暗殺の背景には、こうした新政府内の反対勢力との確執や、中央集権による近代国家成立に向けた各種の改革(士農工商身分制度撤廃、秩禄処分による士族への俸禄打ち切りなど)で武士としての特権を次々に奪われていった士族達の反発があったのです。しかも、大久保が暗殺される明治11年には、既に西郷も木戸もこの世にはおらず(西郷は自刃、木戸は病死)、「維新の三傑」のうち唯一残った大久保は、政府に対しての恨みや憎しみを一身に受けざるを得ない立場になっていたのです。


◆大久保が築いたもの

明治政府が掲げたスローガンとしては、特に「殖産興業」と「富国強兵」が有名ですが、大久保はそのいずれの政策にも深く関わり、欧米列強に比べて遥かに遅れていた日本の近代化を促進するため、官営の鉱山や工場を立ち上げ、先進諸国の機械設備や技術を導入して、日本の工業化を積極的に進めました(官営工場の多くは民間に払い下げられ、その後も長く稼動されました)。また、日本と同じ島国であるイギリスを視察した際、イギリスの国力を支えているのは貿易であるという意識を持った大久保は海運業も重視し、明治8年には岩崎弥太郎の三菱汽船会社を援助し、同社はアメリカやイギリスの汽船会社を締め出して上海航路を独占する事に成功しました。

それ以外にも、大久保は西洋農法の導入も重視し、東大農学部東京農工大学農学部の前身となった駒場農学校を設立したり、福島県郡山市に疎水を建設して荒野を水田に変えるなど、大久保が日本の近代化に果たした功績は実に大きなものがあります。

ところで、大久保が政権内で実力者たり得るきっかけになったのは「内務省」の創設です。内務省は、殖産興業、交通、通信、土木、衛生、警察、消防、都市計画、地方行政などを管轄する中央行政機関で、現在でいえば財務省・外務省・防衛省以外のほぼ全ての省庁を兼ねている、日本の歴史上稀に見る程の強大な権力を有した省庁でした。大久保は、この超強力省庁を活用して自らの政策を推し進め、大久保の死後も、大東亜戦争終結するまで内務省は存続し続けました。


◆物凄い威厳

大久保に対面したほとんどの人は、その時の印象を「威厳に打たれた」と語っています。大正時代に二度首相として内閣を組閣した山本権兵衛は、大久保と西郷の二人を比較して、「西郷さんの所に行くと時間が流れるのも忘れてしまい、門を出る時には誰もが愉快な気持ちになったが、大久保さんはこの逆で、怖い顔をしており言葉数も少なく、訪れた者はただその威厳に打たれて、言いたい事も言えずに小さくなるだけだった」と述べています。

新政府成立後、大久保が初代内務卿としてそのトップに立った内務省では、大久保の靴音が省内に響くと雑談や笑い声がピタリと止まり、あたかも水を打ったように静まり返ったといいます。また、大久保に議論を仕掛けようとして省内の大久保の部屋を訪ねた者も、大久保の部屋に入って実際に大久保本人を目の前にすると、大抵は議論どころではなく縮み上がって帰っていったといいます。大久保が暗殺された後、帝国議会板垣退助の答弁中に野次や怒号で議場が騒然となった際には、それを見た議員の一人が「大久保卿であればこんな事にはならないのに」といって大久保の威徳を偲んだとも伝えられており、こういったエピソードからも、大久保に、誰もが圧倒される程の物凄い威厳があったのは間違いないようです。

大久保のこの威厳は、背が一際高く眼光鋭いその容姿から感じられるという面も確かにあったはずですが、それだけではなく、新政府高官の中には陳情を引き受けても一向に実現しない者が多い中、大久保は一度引き受けた陳情はどんな困難や障害があろうとも必ず実現させた事から、そういった大久保の姿勢も人々に畏怖の念を抱かせたものと思われます。

しかし、意外にも家庭での大久保は実に平凡な父親だったようで、大久保の三男の利武は、父から叱られた記憶はなく、家へ帰って父に会うのが何よりの楽しみだったと語っています。大久保は仕事から帰ると、小さい子供達に靴を脱がせるのが習慣で、子供が力いっぱいに靴を引っ張って後ろに転がる様子を見て面白がっていたといい、また、少しでも暇があれば書斎に小さい子供達を呼び入れて遊んでいたとも云われています。


◆紀尾井坂の変

明治元年からこの10年は何もかも最初からで創業の時代だった。これから先の10年は、内治を整え民産を興す建設の時代で、私の尽くすべき仕事である。その先の10年は後輩達が後を継いでくれるだろう」 −大久保は暗殺される日の朝、自邸を訪ねてきた福島県令(知事)の山吉盛典にこう語り、この言葉が大久保の遺言となりました。

地方官会議に出席するため上京していた山吉は、帰県の挨拶のため午前6時頃に大久保邸を訪れ(大久保邸には早朝訪れる人も多かったようです)、ここで2人は2時間程懇談し、山吉が去った後、大久保は陸海軍に対する勲章授与のための記念式典に出席するため、馬車に乗って自宅を出ようとしました。ところが、抱かれて見送りに来ていた赤ん坊の芳子(末っ子で一人娘)が泣き出したため(それまで見送りで泣いた事はなかったそうです)、子煩悩な大久保はぐずる娘を一旦馬車に乗せ、玄関回りを一周し、泣き止んだ所で芳子を馬車から降ろして、夫人や書生らに見送られて赤坂仮御所へと出発しました。

そして午前8時30分頃、大久保を乗せた2頭立て箱馬車が清水谷(紀尾井坂の手前)に差しかかった時、そこで大久保を待ち構えていた6人の男達が突然物陰から飛び出し、まず一人が馬車の馬を襲い、2頭いた馬のうち左側の馬の左脚を斬り払い、次いで右側の馬の脇腹を抉りました。このため馬車はその場で止まり、その直後、御者も斬殺され、6人のうちの一人が馬車の扉を開け、大久保の右手を斬りつけました。

外に脱出しようとした大久保は胸を刺され、その後は馬車から引きずり出され、6人の刀を無数に受けて、大久保はその場で息絶えました。維新を成し遂げ、新政府を揺ぎないものとするために、政府の事実上の首班として全身全霊でその施策に打ち込んだ大久保は、その事業の完成を見ずに志半ばにして130年前の今日、暗殺者の凶刃に倒れてこの世を去ったのです。享年49歳でした。

暗殺実行犯の6人は西郷隆盛に心酔する石川県の士族(旧加賀藩士)達で、彼らは犯行後直ちに赤坂仮御所に自首し、不敵にも「たった今、大久保参議を待ち受けて殺害に及びました。宜しくその旨をお伝え戴き、相当の処分をお願い致す」と犯行宣言をし、その身柄は直ちに東京警視本署に引き渡され、7月27日に斬首の刑に処せられました。

大久保の葬儀は、5月17日に日本初の「国葬」級葬儀として盛大に執り行われ、明治天皇の使者や政府高官をはじめ、1,200人近い人々が参列しました。この暗殺事件は俗に「紀尾井坂の変」もしくは「紀尾井町事件」と呼ばれています。


◆政権の中枢にいながら借金を残した清廉さ

大久保が暗殺された後、遺族が遺産を整理した所、驚くべき事実が明らかになりました。大久保は政府の中で専制的な支配力を築き上げた絶大な権力者でしたから、誰もが莫大な遺産を遺しているのだろうと思っていたのですが、実際には、僅か数百円の現金しか残しておらず、それどころか、借金が8,000円(現在の金額で約2.4億円)もあったのです。

しかもその借金は全て、不足した公金を賄うために大久保が自分名義で借りた借金で、国家づくりのために、大久保が個人的に親しくしていた人達から借りたものだったのです。当時、政府は多くの公的事業を推し進めていましたが財源不足に陥っていたため、大久保は友人や知人から個人的に借り集めたお金をその財源に注ぎ込んでいたのです。大久保は、政権中枢にいて巨万の富を得る事も不可能ではなかった時代に、最期まで清廉を貫いた人だったのです。私はこのエピソードを知った時に、大久保という人物が好きになりました。

ちなみに、政府は協議の結果、大久保が生前に鹿児島県庁に学校費として寄付した8,000円を回収し、更に8,000円の募金を集め、この1万6,000円を以て大久保の遺族を養う事にしました。


◆大久保が遺したもの

大久保の暗殺は、日本中に大きな衝撃をもたらし、政府部内にも大きな動揺が走りました。その波紋は海外にも広がり、事件2日後の16日にはロンドン・タイムズが追悼文を掲載し、また、パークスやアーネスト・サトウなどの各国の在日外交官も次々と大久保邸を弔問に訪れています。

しかし、かつて大老井伊直弼桜田門外の変で暗殺された事によって幕府の権威が一気に失墜したような大きな混乱は起きず、大久保の暗殺によって政府の政権基盤が揺らぐまでには至りませんでした。これは、大久保が中心となって推し進めてきた近代国家成立に向けた改革が、着実に実を結び始めた結果ともいえます。

そして、伊藤博文大隈重信といった実力者達が後の政権を支えた事も、大久保の改革の成果でした。伊藤や大隈らは、出身藩だけに偏らない人事と世代刷新を掲げた大久保に引き立てられたともいえるのです(伊藤も大熊も薩摩の出身ではありません)。大久保暗殺の翌日、空席となった内務卿のポストには伊藤が就任し、伊藤は大久保の遺志を継いで殖産興業、富国強兵を旗印に、政治的には立憲君主制に基づく中央集権国家の確立、経済的には近代資本主義の確立に向って邁進していきました。


冒頭でも述べましたように、大久保の人気は今でも依然として高くはありません。西郷を死に至らしめ、西南戦争では薩摩を滅ぼそうとした張本人として、地元・鹿児島県に於いてすら、その人気や評価は高くありません。近年まで地元への納骨すら避けられていたのですから(大久保の遺骨が鹿児島に里帰りしたのは平成に入ってからです)その冷遇ぶりが分かろうというものです。

しかし大久保は、冷徹で非人情、時には狡猾とも評されながらも、日本の近代化という大義のために私情を殺し、死をも覚悟して(明治6年に西郷を下野させた時点で、既に大久保は自分は殺されるであろう事を意味する文章を書いています)あえて強権的な政治を行いました。強靭な意志力と、それを支える情熱的な使命感のもと、国家国民のための大義に命を投げ出してテロに倒れた大久保は、粘り強い意思で新しい時代を切り開いた熱き漢(おとこ)でした。

明治時代の外交官で、岩倉や大久保と共に欧米諸国を視察した林董(はやしただす)は、大久保と西郷を比較して、「西郷は幕府を倒すという難事業をやるに非常に功のあった人だが、大久保は新しい国家を建設するに非常に功のあった人だ」と評し、新政府はほとんど大久保の力でできたとの見解を示しています。


(田頭)

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