西野神社 社務日誌

札幌市西区の西野・平和・福井の三地区の鎮守(氏神様)であり、縁結び・安産・勝運上昇等の御神徳でも知られる西野神社の、公式ブログです。

忠を選ぶか孝を選ぶか、平重盛が下した決断

平重盛

今から約830年前の安元3年(1177年)、後世になって「鹿ケ谷の陰謀」と称される事件が京の都で起りました。

当時は平清盛が人臣を極めて天下人として世に君臨し、平家一門は“我が世の春”を謳歌していたのですが、平家の専横を目に余ると常々苦々しく感じておられた後白河法皇の近臣である公卿の藤原成親や僧侶の西光・俊寛らが、同年5月、法皇が鹿ケ谷(現在の京都市左京区)にある俊寛の山荘に御幸した際に、法皇の御前にて平家打倒の計画を密かに話し合ったのです。

ところが、その密議に加わりながらもこの計画はとても成功の見込みがないと早々と見切りをつけた多田行綱多田源氏嫡流で源頼盛の長男)が、その密議の後すぐに清盛に面会を申し入れて清盛に直接この謀議を密告した事により、首謀者らは直ちに捕らえられ、西光は処刑され、他の参加者らは配流されました(藤原成親備前国に配流後殺害されました)。これが、「鹿ケ谷の陰謀」「鹿ケ谷の謀議」「鹿ケ谷事件」などと称される、平家に対してのクーデター未遂事件で、計画が実行される前に首謀者らが悉く捕らえられたため結局未遂・失敗に終わったのですが、平家の滅亡はこの事件から始まったとも云われています。

ところで、この事件では、さすがの清盛も後白河法皇に対して処分を科す事は最終的に思い留まったのですが、しかしそれは、長男の平重盛(たいらのしげもり)に強く説得されたためであり、謀議が発覚した時点では、怒りが収まらない清盛は法皇を逮捕して幽閉する心算で、実際、北面の武士法皇に仕えている武士)達と一戦を交えるため自らも鎧を着て出陣体勢を整えていました。そして、法皇を捕らえるため今まさに出陣をするという、緊迫したその場(清盛の屋敷)に、重盛が武装もせずに平時の服装で現れたのです。

重盛は、文武両道に秀で、それでいて温厚・実直で思慮深い性格であった事から多くの人達から厚い信望を集めており、清盛も、自分の後継者として平家一門を束ねる実力と人望を併せ持った人間は重盛しかいないと認めていました。しかしそれだけに、清盛にとって、清廉潔白で武勇も兼ね備えた重盛は、自分の息子ながら唯一頭が上がらない、あるいは遠慮せざるを得ない人間でした。ちなみに今日の記事に貼付の画像が、京都の神護寺が所蔵している、現在国宝に指定されている重盛の肖像画です(但し、近年になってこの画像は足利尊氏肖像画ではないかという説も出てきています)。

その重盛が、場違いとも言える平時の服装でその場に現れ、出家している身でありながら鎧を着て殺気立っている清盛と対面したのです。清盛と重盛のこの時のやりとりは、戦前・戦中の歴史教育を受けた人にとっては、「忠ならんと欲すれば孝ならず。孝ならんと欲すれな忠ならず。重盛の進退ここに谷(きわ)まれり」という重盛の名言と共に“知っていて当然”の常識なのですが、しかし現代の歴史教育を受けた人には残念ながらこのエピソードは全く馴染みがなく、重盛という人物に対しての認識も、せいぜい「清盛の息子」もしくは「平家物語の一登場人物」という程度だろうと思います。

そこで今日は、一昔前の日本人なら誰もが知っていた、この有名なエピソード(清盛と重盛のやりとり)を紹介させて頂きます。以下に、戦前の小学校の歴史教科書である「尋常小学国史」から、この場面を引用させて頂きます。

重盛は、はらはらと涙を流しながら、「恩を知つてこそ人といへるので、知らないものは、鳥やけだものと同じです。恩の中でも、一ばん重いのは君の御恩です。まして、わが家は桓武天皇の御末でありながら、中頃たいへん衰へてゐたところ、父上になつて大いに立身出世せられ、われわれのやうなおろかものまでも高い官位をいただいてゐるのは、これ全く君の御恩ではありませんか。

今、この御恩を忘れて、天皇の御威光をかろんじ申すやうなことがあつては、たちまち神罰を受けて、一族はやがて滅びてしまふでせう。それでも、なほ父上がお聞入れなさらないなら、私は、兵をひきゐて法皇をお守りせねばなりません。しかしまた、父上にてむかふことも、子として私には堪へられません。それ故、父上がどうしてもこの企を成しとげようとなさるなら、まづ私の首をはねてからにして下さい。」

と、真心をこめて諌めたので、さすがの清盛も、しばらくは、思ひとどまるやうになつた。重盛のやうな人こそ、まことに忠孝の道を全うした、りつぱな人といふべきである。

主君に対する忠誠を貫こうとすれば親の言う事に逆らわなければならず、しかし親に孝行しようとすれば主君に対する忠誠心を捨てなければならない、そのような二律背反の葛藤の中で、重盛は涙を流して「自分を斬ってから出陣されよ」と言う事で清盛を強く諌め、重盛のこの言動によって法皇の逮捕・幽閉は阻止されたのです。

もしもこのエピソードがNHKの歴史情報番組「その時歴史が動いた」で取り上げられるとすれば、松平定知アナウンサーが「そして皆さん、いよいよ今日の“その時”がやってまいります」と決め台詞を言った直後に、重盛の「忠ならんと欲すれば孝ならず。孝ならんと欲すれな忠ならず。重盛の進退ここに谷まれり」という台詞がきっと紹介されるのではないでしょうか(笑)。

また、日本の通史を一人で書いた最初の日本人である頼山陽(江戸時代後期の歴史家・漢詩人・陽明学者)は、古代から織豊時代までの歴史事件を歌謡風に詠じたその通史「日本楽府」(にほんがふ)の中で、この場面を以下のように描いています(但し原文は漢文体であり、以下は書き下し文です)。

八條の第中(ていちゅう)に旗幟(きし)翻る。相国(しょうこく)は鎧をまとひ馬は鞍を装す。烏帽子(えぼし)。来るものは誰氏(たれ)ぞ。何ぞ冑せざる。国に寇(あだ)無し。能(よ)く阿爺(あや)をして起ちて緇(し)を襲(かさ)ねしむ。襟は鱗甲を吐きて我が児に愧(は)づ。公に随はむと欲する者は。吾が頭(こうべ)の墜つるを待て。烏帽子の上に青天あり。帽子猶(なお)在れば天墜ちず。

「衣の下に鎧がちらつく」という諺まで生んだ、有名な父子対面のシーンで、これを現代語に意訳するとだいたい以下のようになります。

清盛の八條の屋敷の邸内には戦旗が翻っており、すっかり出陣の準備が整っていた。入道相国(太政大臣だった人が出家して仏門に入っている事)の清盛も鎧を着込み、清盛の馬にも鞍が置かれている。今まさに出陣という、そんな緊迫した所に、平時の烏帽子姿でやってきた人がいた。それは誰であろう、左近衛大将の平重盛であった。重盛の異母弟の平宗盛が「何ゆえ武装めされぬ?」と重盛を咎めた。重盛は「兵権は近衛大将の地位にある自分が持つ事になっているが、その自分が武装するとは由々しき事である。どこに自分が武装して向かわねばならぬ朝敵がいるのか」と答えた。

鹿ケ谷での謀議に対する激怒の余り冷静さを失っていた清盛は、重盛のその言葉に正気を取り戻して、自らが武装しているのを恥じ、着ていた鎧の上に慌てて黒い僧衣を重ね、その僧衣で鎧を隠した。しかし、慌てて僧衣を着たため襟元から鎧の一部が見えてしまい、清盛は重盛に対してそれが更に恥かしく思えた。

重盛は行った。「父上に従って法皇を捕らえに行こうと思う者は、まずこの私の首が落ちるのを待ってからにしろ」と。そう言い放った重盛の烏帽子の上には、青い天に例えられる皇室があった。そして、重盛の烏帽子が健在なうちは(重盛が没するまでは)、青天にも例えられる皇室の権威も落ちる事はなかったのである。

重盛はこの時に、かの有名な「忠ならんと欲すれば孝ならず。孝ならんと欲すれな忠ならず…」という言葉を述べ、私の首を斬ってから出陣されよ、と言ったのです。清盛に慌てて僧衣を着させるだけの迫力が、この時の重盛にはあったという事です。そして、平家物語によると、重盛のその言葉に対して清盛は「自分はもう老人だから子孫の事を考えただけの話である。後はお前の好きやようにやるが良い」と言って、ばつが悪そうに引っ込んだそうです。

重盛は、「平家に非(あら)ざれば人に非ず」とまで云われる程隆盛を極めた平家の最盛期に、少しもたかぶらず、公卿に無礼を働いた一族の者を抑え、皇室の権威を立て、しかも戦場では武勇第一等の武将であったため(保元の乱に於ける源氏側の英雄は源為朝平治の乱に於ける源氏側の英雄は源義平ですが、両乱に於ける平家側の英雄は実質的には重盛一人だけで、特に平治の乱は重盛の武人としての決断と勇戦によって平家が勝者となりました)、傲岸不遜で荒い気性の清盛も、重盛にだけは一目も二目も置いていたのです。

ですから、重盛がもう少し長く生きていれば、その後の平家の運命は異なっていた可能性がかなり高いのですが、しかし平家にとっては不幸な事に(源氏にとっては幸いな事に)、この「鹿ケ谷の陰謀」の僅か2年後、42歳という若さで重盛は清盛に先立って病没してしまいました。

そして、後白河法皇と清盛との間に立って両勢力のバランスを保っていた重盛の死により、従来からギクシャクはしていたものの表面的には辛うじて良好な関係を演出していた後白河法皇と清盛の関係は完全に破綻し、清盛によって法皇院政は停止され、世は戦乱の時代へと突入していくのです。現代を生きる私達も、重盛が示した忠孝の精神から学ぶべき事は少なくはないでしょう。

なお、今日紹介させて頂いた重盛のエピソード以外にも、戦前・戦中は常識として誰もが知っていたものの、現在では、学校で教えていないためむしろ知らない人の方が多いのではないかと思われる日本史のエピソードとしては、6月23日付の記事で紹介させて頂いた「桜井の別れ」が特に有名ですが、それ以外にも、以下のエピソードが代表的なものとして挙げられます。

神武天皇の東征伝説、日本武尊熊襲征伐と純愛物語、神功皇后三韓征討、仁徳天皇の仁政、隋に対して独立国としての日本の立場を明確に示した聖徳太子の気概、光明皇后奈良の大仏を建立した事で有名な聖武天皇の皇后)の行われた貧民救済、菅原道真の文化人としての功績、熊谷直実平敦盛の哀しい交流、自ら障子の切り貼りをする事で北条時頼に倹約の大切さを教えた松下禅尼の心、当時世界最大の帝国であった元の野望を打ち砕いた北条時宗の鉄の意思、児島高徳が歌に凝縮した忠誠心、「敵に塩を送る」という諺に象徴される上杉謙信の義と美学、「願はくは我に七難八苦を与へ給へ」の名文句で知られる悲運の武将・山中鹿之助の生き様、新井白石の清廉潔白な政治、二宮尊徳の報徳精神、世界史の中における明治維新の意義、旅順閉塞作戦で広瀬武夫が示した自己犠牲心、東郷平八郎や乃木希典ら名将の日露戦争での活躍、等々。

これらのエピソードも、今後このブログで順次取り上げていければいいなと思っています。

(田頭)

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