西野神社 社務日誌

札幌市西区の西野・平和・福井の三地区の鎮守(氏神様)であり、縁結び・安産・勝運上昇等の御神徳でも知られる西野神社の、公式ブログです。

斂葬の儀・大喪の礼

昭和64年1月7日午前6時33分、昭和天皇皇居内の吹上御所崩御あらせられ、直ちに皇太子明仁親王殿下(今上天皇)が神武天皇から数えて第125代の天皇の御位に即(つ)かれました。政府は、皇位継承に伴い、陛下崩御と新天皇即位を直ちに告示すると共に、新元号を「平成」と決定して翌8日から施行し、同日、昭和天皇国葬となる「大喪(たいそう)の礼」を2月24日に東京・新宿御苑で執り行う事を正式に決定・発表しました。そして丁度21年前の今日、平成元年2月24日に「大喪の礼」が執り行われたのです。今日は、今から21年前、国民が見守る中、厳かに執り行われた昭和天皇国葬大喪の礼」と、同日、神道儀礼に乗っ取って斎行された「斂葬(れんそう)の儀」を振り返ってみたいと思います。

昭和天皇崩御翌日の1月8日に政府(当時の内閣は「竹下登改造内閣」)が、「大喪の礼」を2月24日に執り行うと発表した後、1月12日には、大喪儀の諸日程が宮内庁から以下のように発表されました(但し以下では一部省略しています)。

1月17日、陵所地鎮祭(昭和天皇が安らけく神鎮まり坐す新陵墓の造営に先立つ儀)。19日、殯宮移御の儀(吹上御所から皇居正殿に御棺をお遷し申し上げる儀)。20日〜2月23日、殯宮日供の儀。20日、殯宮移御後一日祭の儀。21日、殯宮拝礼の儀。22日〜24日、殯宮一般拝礼(国民が宮殿東庭から昭和天皇に最後のお別れを申し上げる儀)。25日、外交団殯宮拝礼。26日、殯宮二十日祭の儀。31日、追号奉告の儀(先帝の御追号を「昭和天皇」とお称えする旨を天皇陛下が先帝に御奉告する儀)。2月5日、殯宮三十日祭の儀。15日、殯宮四十日祭の儀。23日、陵所祓除の儀、霊代奉安の儀。24日、斂葬当日殯宮祭の儀、葬場殿の儀、大喪の礼、陵所の儀。25日〜翌年1月6日、山陵日供の儀。25日、斂葬後一日権殿祭。27日〜30日、山陵一般参拝。

こうして平成元年2月24日、天皇・皇后両陛下や各皇族方を始め、竹下首相ら三権の長、国会議員、都道府県知事、各界の代表者、世界164ヶ国の元首や代表など、約1万人が参列する中、新宿御苑に建設された葬場殿での「斂葬の儀 葬場殿の儀」「大喪の礼」を中心に、氷雨に包まれながら御大喪の諸儀式が執り行われたのです。以下に、当日の主要な次第をまとめさせて頂きます。

午前9時半、陸上自衛隊による21発の弔砲海上自衛隊捧げ銃(つつ)のお見送りを受けて、霊柩が奉安された轜車(じしゃ)を中心とする全61台・全長約800mに及ぶ車列が、皇居正門から新宿御苑へと出発しました。車列の御葬列は、57万人余りが御道筋で悲しみの雨に濡れながら手を合わせてお見送り申上げる中を粛々と進み、午前10時半過ぎ、新宿御苑に到着しました。そして、葬場の入口で霊柩が轜車から葱華輦(そうかれん)にお遷しされ、「斂葬の儀 葬場殿の儀」が始まりました。葱華輦は鈍色の古色床しい伝統装束を著けた51名の皇宮護衛官に担がれて葬場殿へと進みました。下の写真がその時の様子で、この御列には天皇・皇后両陛下を始め、各皇族方や衣冠単姿の祭官らも従いました。

平成元年2月24日 大喪の礼

葱華輦が、高さ12m・奥行き12m・幅20mの、総檜・切妻造りの荘厳な葬場殿に奉安され、大真榊(おおまさかき)が整えられてから、日本武尊がお亡くなりになった時に詠まれた悲しみの誄歌(るいか)が奏され、祭官により御饌21台と幣物6合がお供えされました。続いて、祭官長が祭詞を奏上した後、天皇陛下が玉串を捧げて拝礼され、弔辞に当たる御誄(おんるい)を奏上せられました。以下が、その時陛下が奏上せられた御誄の全文です。

明仁謹んで 御父昭和天皇の御霊に申し上げます。

崩御あそばされてより、哀痛は尽きることなく、温容はまのあたりに在ってひとときも忘れることができません。櫬殿に、また殯宮におまつり申し上げ、霊前にぬかづいて涙すること四十余日、無常の時は流れて、はや斂葬の日を迎へ、轜車にしたがって、今ここにまゐりました。

顧みれば、さきに御病あつくなられるや、御平癒を祈るあまたの人々の真心が国の内外から寄せられました。今また葬儀にあたり、国内各界の代表はもとより、世界各国、国際機関を代表する人々が集い、御わかれの悲しみを共にいたしてをります。

皇位にあられること六十有余年、ひたすら国民の幸福と平和を祈念され、未曾有の昭和激動の時代を国民と苦楽を共にしつつ歩まれた御姿は、永く人々の胸に生き続けることと存じます。

こよなく慈しまれた山川に、草木に、春の色はやうやくかへらうとするこのとき、空しく幽明を隔てて、今を思ひ、昔をしのび、追慕の情はいよいよ切なるものがあります。誠にかなしみの極みであります。

天皇陛下により御誄が奏上された後、皇后陛下、皇太后陛下御名代の常陸宮妃殿下、皇太子殿下、皇族方が御正面に進まれ、順次御拝礼をされました。そしてこの後、葬場殿から鳥居と大真榊が撤去され、祭官が退席してから、「大喪の礼」が行われました。なぜここで鳥居や大真榊が撤去されたのかというと、「斂葬の儀 葬場殿の儀」は皇室の儀式として神道儀礼に則って斎行されるのに対し、「大喪の礼」は内閣が主催する国の行事として執り行われるため、憲法政教分離の原則に抵触するのを出来る限り避けるべきとの判断から、「大喪の礼」が始まる直前に神道色の強い祭具等が葬場殿から撤去されたのです…。

正午頃、特定の宗教に拠らないとされる「大喪の礼」が始まり、天皇・皇后両陛下が御正面に進まれてから、参列者が一分間の黙祷を捧げ、竹下首相、原衆院・土屋参院両議長、矢口最高裁長官が拝礼して弔辞を読み上げました。その後、ベルギー国王を筆頭に外国の国家元首55人を含む164カ国、18国際機関の代表らが順次拝礼をし、最後に、国内の参列者も一斉に拝礼をして、昭和天皇にお別れをしました。

大喪の礼の後、霊柩は再び轜車に遷され、午後1時50分、轜車を中心とする御葬列は新宿御苑から八王子市の武蔵陵墓地へと向かい、首都高速や中央高速道路を経て午後3時15分、武蔵陵墓地に到着しました。なお、神社関係者はこの日、一旦神社本庁の庁車に集合してから、正午前に新宿駅南口に整列して御葬列をお待ち申し上げ、お通りの際は静かに黙祷をしました。

武蔵陵墓地では皇室の儀式として「祭場殿の儀」が執り行われ、霊柩が石槨(せっかく)に御埋葬されてから、午後5時40分、天皇・皇后両陛下、皇太后陛下御名代の常陸宮妃殿下、皇太子殿下始め皇族方がお手づから石槨に「お土かけ」を行われました。午後7時40分からは、祭場殿前で「陵所の儀」が斎行され、天皇・皇后両陛下、皇族・親族方、三権の長、各省庁の事務次官都道府県知事、市町村長ら約200人が参列し、篝火(かがりび)が灯され楽師が奏でる誄歌が流れる中、祭官が御饌と幣物をお供えしました。そして、祭官長の祭詞に続いて天皇陛下が拝礼遊ばされ、御告文(おつげぶみ)を奏上せられ、続いて、皇后陛下や各皇族方が御拝礼になり、各参列者も拝礼しました。

こうして、平成元年2月24日の諸祭儀は滞りなく斎行されました。翌25日からは、新宿御苑に設けられた葬場殿が9日間、一般公開され、多くの人々が拝観に訪れて、葱華輦の前に奉安されている大きな御真影に手を合わせたそうです。下の写真は、昭和天皇の霊柩が奉安された轜車と、轜車の前後を警備する車列の様子です。

平成元年2月24日 大喪の礼

ちなみに、この当時私はまだ中学生でしたが、当日は「昭和天皇大喪の礼の行われる日を休日とする法律」により休日となり、テレビでは終日、どのチャンネルでも報道特別番組が編成されていましたら、この日の事は今でも結構印象に残っています。

(田頭)

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