西野神社 社務日誌

札幌市西区の西野・平和・福井の三地区の鎮守(氏神様)であり、縁結び・安産・勝運上昇等の御神徳でも知られる西野神社の、公式ブログです。

神道と水子供養

たまに、電話等で水子供養についてのお問い合わせを受ける事がありますが、水子供養というのは、厳密にいえば古来からの神社神道の信仰や考え方に基く宗教行為ではないので(そもそも供養という言葉は仏教用語ですし)、神社によっては、ウチでは水子供養は一切行わない、という所も少なくはありません。

当社も、水子供養のお問い合わせがあった場合(とはいっても年に数件程度ですから、お問い合わせがある事自体稀ですが)、だいたいはお断りする事のほうが多いです。但し、少ないながらも、場合によってはお受けする、つまり当社の祖霊殿水子供養の神事(水子慰霊祭)を実際に執り行う事もあります。下の写真は、当社で水子供養を行った際、その直前に撮影された、祖霊殿の御霊舎(みたまや)です。

水子供養祭

水子供養の依頼に対して、実際に水子供養を行う場合と、お断りして行わない場合とがあるのは、結論から言うと、依頼する方の家の宗旨によります。当社は神社であってお寺ではないのですから、所謂水子供養を行う場合、当然仏式ではなく神社神道に基く信仰と祭式を以て執行する事となり、具体的には、霊璽(れいじ)を作って水子の御霊(みたま)を遷霊し、神事を終えた後はその霊璽を依頼者にお渡しして、御自宅の御霊舎でお祀りして戴きます。しかし、その家の宗旨が神社神道ではない場合、家に仏壇はあっても御霊舎は無いので、その霊璽をお祀りして戴く事が困難となり(霊璽は位牌ではないので仏壇にはお祀りできません)、結果的に霊璽を粗末に扱ってしまう事になりかねず、そのため家の宗旨が神社神道ではない方に対しては、当社で水子供養を行う事はお断りしているのです。

ところで、世の中には、「水子の祟りや霊障はとても恐ろしい!」と主張する宗教団体や宗教家が意外と少なくありません。例えば、仏教系の某教団の管長は自著の中で、「水子をつくったならば、解脱供養して成仏させ、霊界に送りとどけてやらなければ、不成仏霊として、その怨念はいつまでも消滅しない。霊障を生じて、その家系の幼少児にひどい障りをあたえる。精薄児童、身体障害児を生じたり、異常に親に反抗する子をつくる。子供が親をまるで仇敵のように憎悪して反抗するのは、だいたい水子の霊障とみてよい」なんて事を言っています。

はっきり言いますが、本当の“正しい宗教”は、このような事は言いません。やや辛辣な言い方になりますが、このように「因縁」や「霊障」を前面に押し出し、人の弱みや罪悪感につけ込んでお金を得ようとするのは、「商売」であって「宗教」ではありません。そもそも、水子供養を伝統的な宗教行為であると誤解している人が結構多いのですが、水子供養は、新興の宗教団体や一部の寺院・石材業者などの主導により昭和50年頃からまるで“ブーム”のように全国的に一斉に始まったものであり、昔から連綿と続いてきた伝統的な宗教行為ではありません。それ以前、例えば江戸時代にも、水子地蔵をお祀りするという風習は一部にありましたが、今のように水子が“祟る”という考え方は全くありませんでした。

第八十六世知恩院門跡、浄土門主、全日本仏教会会長などを務めた浄土宗の高僧・中村康隆氏は、次のように述べておられますが、私は、これこそ正しい宗教家の見識だと思います。「考えても下さい。孫は子よりも可愛いといいます。まして子孫の安泰をこそ祈れ、子孫に祟る先祖などありようはないのです。水子にしてもそうです。不遇のわが身を悲しむにしても、親を恋い慕いこそすれ仇をするなどあり得ないことです。水子を哀れみ霊を弔うことと、“たたり”とは全く違うことです。

だいたい、もし自分が死んだ場合、愛情をもって育ててくれた自分の親を、あるいは、愛情を持って育てた我が子を、自分は祟るであろうか、と考えれば誰にでもすぐに分かる事ですが、死んだ者(この世に生まれる事のなかった水子の御霊も含めて)は、残された者の幸せを願いこそすれ、親・子・子孫を祟ったりはしません。祟らなくてはならない必然も理由もありません。

第六十四世総本山智積院化主、真言宗智山派管長などを務めた同派高僧の小峰順誉氏も、先祖や水子などの祟りを気にする人に対して次のような卓見を述べておられます。「もしかすると、自分の身体の不調や家庭の不幸の本当の原因をよく考えもせず、『ご先祖様の霊のたたり』だなどと軽々しく、そう思い込んでしまったのではないか。そして、それらの不調や不幸を取り除くために、自分自身をしっかりと見つめ、偏見をすててものごとを深く考える努力をせずに、ただ単に金銭だけを支払って心の苦痛を排除しようと、虫のいいことを考えはしなかったか。そしていずれにしろ、その方が楽だと思ったのではなかったか。

勿論、私は水子供養そのものを否定している訳では決してありません。例えば、神職として私の大先輩でもある、國學院大學神道文化学部講師の金子善光先生は、自著『祝詞作文事典』(戎光祥出版)の中で、「水子供養を頼まれましたが、(神職として)どう対処すべきか迷っています」という質問に対して次のように回答されており、私もこの回答には大いに賛同・納得する所であります。「心理学者は、堕胎は女性に強い罪悪感を与えると指摘しています。ひとつの命を絶ったことへの罪の意識が拭われ、しかも立ち直りの機会が与えられるのであれば、関わることは間違いではありません。原則的には古来の霊祭の精神に則って行うべきでしょう。

当人(罪悪感を感じている親)が望むのであれば、僧侶であるか神職であるかを問わず、ひとりの宗教家として、水子供養の法要なり神事なりを執行・奉仕するのは当然な事だと思います。問題なのは、そこに“たたり”が絡んでくると、話が途端に胡散臭くなってくる、という事です。そして、その“たたり”なるものを祓うために多額のお金が必要となったら、はっきり言ってしまいますが、その宗教・教団・宗教家は、インチキ確定です。

故人の御霊に対してお経や祭詞などを奏上する事は勿論大切な事ですし、それは確かに、供養という宗教行為の分かりやすい“ひとつの形”ではありますが、しかし私としては、まず何よりも、大切な方に先立たれた遺族の方が悲嘆に暮れる日々から早く立ち直り、残りの自分の人生を故人の分まで精一杯懸命に生きるという事が、生き残った者の責務であり故人への最大の供養になると考えています。水子供養についても全く同様で、心ならずも水子をつくってしまった親御さんは、この世に生まれる事のなかった我が子の分まで精一杯前向きに生きる事が、その水子に対して、最大の供養になると思っています。

今回の記事の結論。「霊」は存在します。「祟り」という霊的な現象も否定はできません。しかし、「水子の祟り」などというものは存在しません。

(田頭)

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