西野神社 社務日誌

札幌市西区の西野・平和・福井の三地区の鎮守(氏神様)であり、縁結び・安産・勝運上昇等の御神徳でも知られる西野神社の、公式ブログです。

見真大師号と見真額

見真額

「大師は空海にとられ、太閤は秀吉にとられ」もしくは「大師は弘法に奪われ、太閤は秀吉に奪わる」という格言を御存じでしょうか。

「大師」とは、中国や日本において、高徳な僧に朝廷から勅賜の形で贈られる尊称の一種(大抵は死後に贈られる諡号)で、日本の歴史上、大師号を贈られた高僧は何人もおり、例えば伝教大師最澄)、慈覚大師(円仁)、興教大師(覚鑁)など知名度の高い大師も少なくはないのですが、しかしほとんどの場合、単に大師といえば弘法大師空海の事を指すのが慣例となっています。親しみを込めて「お大師さん」と称される事もありますが、この場合のお大師さんとは、ほぼ例外なく弘法大師を指します。
一方、「太閤」は、摂政または関白の職を子弟に譲った人物の事をいい、大師と同じように日本の歴史上、太閤と呼ばれた人物は何人もいるのですが、近世以降、単に太閤といえば例外なく秀吉一人のみを指すようになり、秀吉が大坂城を築いて天下に号令をした大阪では、今日でも、親しみを込めて秀吉の事を「太閤はん」と呼ぶ人がいる程です。
こういった現状を踏まえ、事実上、大師という尊称が空海の、太閤という尊称が秀吉のそれぞれ専売特許になっている事を、「大師は空海にとられ、太閤は秀吉にとられ」というのです。

このように歴代の「大師」の中では、今も昔も空海が突出して有名であり、そのため一般にはあまり知られていないのですが、実は空海以外の伝統仏教各宗派の開祖達も、全員ではないもののその多くは、朝廷から大師号を贈られています(大師号ではなく、国師号や禅師号を贈られている開祖・高僧も多数いますが)。
例えば、融通念仏宗開祖の良忍は聖応大師、浄土宗開祖の法然は円光大師、曹洞宗開祖の道元は承陽大師、日蓮宗開祖の日蓮立正大師黄檗宗開祖の隠元は真空大師、といった大師号の宣下をそれぞれ受けています。


さて、今回特に注目したいのは「見真(けんしん)大師」という大師号です。
皆さんは、見真大師が一体誰の事を指しているか、御存知でしょうか。すぐに分かった方は、かなりの歴史通もしくは仏教通です(笑)。しかし、見真大師という名は聞いた事がなくても、親鸞(しんらん)と聞けば、大抵の方は「知っている」と答えると思います。そうです、見真大師とは、浄土真宗の開祖である親鸞の事です。
この見真大師という大師号は、明治9年に明治天皇から東西両本願寺を始めとする真宗各派に宣下されたものですから、大師号としては、かなり新しいものといえます。
なぜ明治時代になって突然、親鸞に大師号が贈られたのかというと、それは、贈る側(皇室や国など)の都合ではなく、贈られる側、即ち真宗サイド、特に東本願寺の事情によります。

東西両本願寺分立の経緯については、かなり長くなってしまうのでここではその詳細は割愛しますが、両本願寺分立時の事情から、江戸時代、東本願寺(現在の真宗大谷派)は「神君(家康)お引き立て」の教団として、幕府から何かと特別の恩恵を被ってきました。東本願寺は、徳川家本来の宗旨である浄土宗の増上寺知恩院などと同等以上の特権的な待遇を与えられ、幕末期には本山内に東照宮を勧請までしていました。
それに対して西本願寺(現在の浄土真宗本願寺派)は、浄土真宗の本家本元として、朝廷の定めた格式では東本願寺よりも上とされていたものの、実際には常に東本願寺の後塵を拝し、肩身の狭い思いを味わってきました。

しかし、江戸幕府の崩壊と明治新政府の成立が、それまでの両者の立場を一気に逆転させました。
戦国時代末期に十年に亘り続いた、信長と石山本願寺一向一揆)が戦った石山合戦では、長州の毛利水軍門徒勢力を支援し、瀬戸内海から運んだ弾薬や食料を石山本願寺に陸揚げするなどしたのですが、西本願寺では苦しい戦いの時に助けて貰ったその時の恩を忘れず、江戸時代、外様大名として幕府から冷遇されていた長州藩を何かと助け、幕末期に、禁門の変に敗れた品川弥二郎ら十数名の長州藩兵が西本願寺に逃げ込んできた時には、一旦かくまった上で僧衣を着せるなどして落ち延びさせました。
そういった経緯から、薩長を始めとする勤皇派と深い関係を確立するようになっていた西本願寺は、いち早く勤皇派に十数万両を献金し、明治新政府の成立後は、直ちに親政府教団としての地位を確立させたのです。

それに対して東本願寺は、幕府との長年の密接な関係から、徳川慶喜大政奉還し幕府が事実上消滅した後も、「御恩返しとして、門徒や僧侶で軍隊を編成し、幕府軍の指揮下に入らせて貰いたい」と願い出るなど、親幕府の態度を取り続けました。
東本願寺薩長勢力と戦わない事を決めたのは戊辰戦争が始まってからで、このため東本願寺は、新政府への忠誠の証に2万両の軍資金や5千俵の兵糧米を供出させられる事となり、戊辰戦争の後は、極めて困難な事業となる事が明白であった北海道開拓を命じられるなどし(政府の命令で開拓させるのはさすがに露骨過ぎたので、表向きは東本願寺側から「北海道の開拓に従事したいので許可して下さい」と願い出る形が取られました)、結果的に、時流に乗り遅れた代償は高くついてしまったのです。

明治初年は、全国的に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたため、真宗のみならず仏教界にとって受難の年となりましたが、その廃仏毀釈の嵐が収束すると、明治新政府と親しい関係にある西本願寺に対して遅れを取りがちな事に焦りを抱いていた東本願寺は、その遅れを取り戻すための手段のひとつとして、宗祖親鸞への大師号奏請運動を、熱心に始めるようになりました。
元々、真宗各派にとって宗祖である親鸞に大師号の宣下を受ける事は、江戸時代以来の懸案であり、1761(宝暦11)年の親鸞聖人五百回遠忌法要に際しては、当時の東西両本願寺が競って朝廷に宣下を奏請したため、その時は一時、実現に向けて動き始めたのですが、結局、諸般の事情で沙汰やみになりました。
その後、この問題が格別に大きくクローズアップされる事はなく、明治時代に入ってからも、西本願寺21世法主の大谷光尊(明如上人)は「宗祖に大師号は無いほうが良い」と考えていたそうですが、前述の理由から当時苦境に陥っていた東本願寺は、「宗門の社会的な地位を確固としたものにするために、是非大師号が欲しい。宣下で門徒が沸き立てば、財政の窮迫を切り抜ける突破口にもなるはず」と考え、熱心に大師号宣下の運動を始めたのです。
そして、その熱心な運動が実り、明治9年、明治天皇から「見真大師」の号が、東西本願寺など真宗各派に宣下されたのでした。


私の手元にある、西本願寺の教学振興委員会が編集し本願寺出版社が発行した「浄土真宗必携」という本(平成19年・第2版18刷発行)には、「見真大師」号と、下賜された「見真」の勅額(扁額)について、以下のように説明されています。この説明を読むと、大師号奏請にあまり熱心ではなかったとされる西本願寺も、少なくとも表向きは、「見真大師」号については「大変ありがたいもの」と認識しているようです。
聖人を見真大師とよぶのは、一生をかけて、真実に生きる道を見出すために、ひとすじに生きぬかれた聖人の全人格と、幾千万の人びとに、まことの救いの光りを恵まれた功績をたたえて、明治天皇からおくられたものであり、わたくしたちが報恩のあゆみをはこんで御影堂にぬかずくとき、正面頭上にかかげられている巨大な額がそれであります、まことに親鸞聖人こと、見真の聖者でありました。

ところが、東本願寺の側が強く望んで宣下を受けたはずの「見真大師」号に対して、戦後、東本願寺の教団(真宗大谷派)内部では、一部の僧侶を中心に(決して門徒全体の兆候ではありません)、かなり冷ややかな見方をする傾向が見られるようになってきました。
戦後、急速に左傾化してきた東本願寺では、靖國神社問題(靖國神社侵略戦争を美化する施設、靖國神社政教分離に違反している、信教の自由を守れ等の主張から、真宗は“反靖國”の運動を積極的に推し進めています)への取り組みをきっかけに、宗門の近代史の再検証が進められるようになり、その過程で、戦前や戦時中の自らの教団の姿勢について「時局に迎合して、天皇や国家を絶対とし、戦いを“聖戦”と賛美し、戦争に協力した宗門のあり方を反省する」と評する気運が高まってきました。
そして、こういった気運に同調して、一部の真宗大谷派僧侶から「朝廷の弾圧によって流罪にされながら、念仏一筋の信仰を貫いた親鸞聖人の遺徳を偲び、顕彰するのに、天皇から与えられる大師号は相応しくない」「そもそも門信徒達は親鸞聖人のことを御開山と呼びならわし、見真大師という呼び方は全く定着していない」との声があがるようになり、真宗本廟(本山東本願寺)の御影堂正面の軒下に掲げられている「見真」勅額は下ろすべきである、という意見まで堂々と主張されるようになってきたのです。

少し前の資料になりますが、今私の手元に、平成22年5〜6月当時の真宗大谷派宗政に関する資料があるので、それらを元に、見真大師号と見真額に関しての真宗大谷派内部の動向を以下にまとめてみます。
なお、以下に登場する宗議会、内局、宗務総長など宗政に関する各用語の意味については、平成19年4月8日付の記事の「宗政について」の項で解説させて頂きましたので、興味のある方はそちらを御参照下さい。


【平成22年5月】 天皇制国家に従順であった歴史の証拠として見真額の撤去を求める

第53回宗議会・常会に向けて多数の教区から、御影堂に掲げる「見真」額を撤去する請願が出されました。
久留米教区の有志は12名の連名で、5月25日、安原宗務総長に宛てて「『見真』勅額について宗門の信仰課題として取り組むことを求める要望書」を提出しました。

同要望書は、提案として「『見真』勅額が、真宗本廟において、どのようなはたらきをしてきたのかを『同朋新聞』に掲載する」「それについての賛成の立場、反対の立場それぞれから各人記名の上で、意見を『同朋新聞』に募る」「これらの手順を踏んだ上で、宗議会および参議会で『見真』勅額の扱いについて議決をとる。これを早急に宗門内外に表明する」という手順を挙げています。
同要望書の立場は明確で「御影堂の勅額は、本願念仏の教えよりも天皇制国家に従順であろうとした歴史の証拠」であるとし、「(修復後に)改めて掲げ直すことは『本願念仏の教えも国家を補完するものとして働くに過ぎない』という信仰姿勢を表明すること」としています。


【平成22年5月】 野党が見真額を降ろすよう主張、内局側は不撤去の意向

真宗大谷派の第53回宗議会で5月31日、代表質問がありました。
与野党の双方から御影堂の「見真」額をめぐる発言があり、撤去推進の立場から野党・恒沙の会の藤内代表は、このままでは『親鸞聖人御遠忌』ではなく『見真大師御遠忌』になると主張し、それに対して内局側は、「宗門で課題を共有するのが先決」とし、現時点で不撤去の意向を示しました。

「見真」額について、藤内代表は「昨年の常会で、安原総長は『下ろすにせよ、掲げ続けるにせよ、教学的意味はない』と答弁したが、見真額が持つ教学的意味は極めて大きい。真俗二諦教学を布教し、天皇という絶対的な世俗権力を利用し、宗門権威の高揚を図ったのが見真額。掲げ続ける理由とは何か」と質問しました。
それに対して、与党・真宗興法議員団の調幹事長は「今年から始まった教団の近代史を学ぶ議員学習会が大きな意味を持つ。歴史的事実を僧侶、門徒が十分に語り合える環境を整えてから、見真額の扱いを決めればいい」と述べました。
また、安原宗務総長は、「見真額は当時の国家から戴いたが、その経緯を見ると、こちらから望んだ。その歴史の上に教団が成立している事実を受け止め、当時教団を護持した人の願いも含め、歴史を検証し、宗門で課題を共有することが必要。現時点で下ろすと課題の共有にならない」と答えました。


【平成22年6月】 野党が重ねて見真額の撤去を主張、内局は従来の姿勢を崩さず

真宗大谷派の第53回宗議会常会は6月2日、一般質問が行われ、野党議員からは重ねて御影堂の見真額撤去を求める意見が出されました。また、見真額の撤去については7教区から請願が出され、請願委員会に付託されました。

野党・無所属クラブの本多議員は一般質問で、「昨年の常会で、安原総長は『今後しかるべき機関で判断すべき』と答弁したが、その機関とはどこか。また還座式の後、亀山天皇の御厨子阿弥陀堂から撤去したが、見真額はなぜ躊躇するのか」と質問しました。
安原宗務総長は、「御厨子は閉扉した状態だったが、動座式を機に下ろし、還座式で戻す必要がなかった。見真額の件は課題の共有が緊要。現時点で下ろす状況にない。しかるべき機関は現在検討中」と答弁しました。

恒沙の会の田澤議員は、「課題の共有と言っている場合ではない。むしろ日々『親鸞』ではなく『見真』を選び、毎日掲げる決断をしている状況だ。このままでは親鸞聖人に背き、門徒を裏切り、自己を失う御遠忌になる」と主張し、「安原総長は、見真額の掲示を『教学的意味はない』と答弁したが、“教学”と“宗政”の分離を看過できない。竹中智秀先生は『念仏者は、いつも外と内から法難にさらされる』と言われた。掲げ続ければ、外からの法難には遭わないだろうが、真宗の衰退だ」と迫りました。
これに対しては、江尻参務が「見真額を掲げた当時、教団を護持しようとした人々の願いも含め、まず歴史を検証すべき」と従来の姿勢を繰り返しました。


【平成22年6月】 宗議会同様、参議会でも撤去を求める意見が出される

第52回参議会常会で6月6日、代表・一般質問が行われました。
白坂議員は、宗門は新宗憲の発布以来、本山の「大師堂」を「御影堂」と改称し、「見真大師」の称号もやめ、「親鸞聖人」「宗祖聖人」を使ってきたという経緯に触れながら、「私達門徒はその過程の中で、見真大師号に対する宗門の姿勢と、そこにある課題を知った。我々は見真大師号を必要としない。御遠忌を機に、真宗本廟浄土真宗の道場として回復されることを願う」と訴え、見真額の撤去を求めました。
これに対しては江尻参務が、「見真額は、時の国家権力と教団との関係を内包し、そのような歴史の上に教団は成り立っている。当時教団を護持した人々の願いも含め、歴史を検証し、さらに宗門で課題を共有することが必要」として、宗議会と同様に「現時点で下ろすのは、課題共有のきっかけに成り得ない」と反論しました。


【平成22年6月】 見真額撤去巡り討議、野党からは戦争責任の問題との声も

第53回宗議会常会は6月8日、内局上程の48議案を原案通り可決しました。
全議員65議席中、39議席を有する与党・真宗興法議員団は全議員が全議案を承認し、14議席の野党・無所属クラブと、10議席の恒沙の会の議員の多くは、特に2011年度予算案に否決の意を表しました。全会一致は17議案でした。
今回の宗議会常会に対しては、御影堂の見真額撤去や宗議会で撤去を決議する要請など11の請願が寄せられ、本会議では11請願を4グループに分けて、賛否双方の立場から討論しましたが、全て賛成少数で不採択となりました。以下に、その討論の一部を掲載します。

◆見真額撤去の宗議会決議を求める請願

◎反対の立場(真宗興法議員団) … 既に安原総長は、御影堂を明治期の再建時の姿に戻して御遠忌を迎えるという基本姿勢を示してきた。また宗議会が始めた宗門近代史に関する学習会の意を体し、課題の共有を図る機関の検討中と明言している。僧侶・門徒が、歴史的事実を充分に語り合える環境を整えてから、見真額の扱いを決めればいい。当局の方針を全面的に支持する。
◎賛成の立場(恒沙の会) … 当局と宗務行政が体力不足の時、最高議決機関の議会は宗門の罪責を検証し、方向を示す責任がある。宗門は今、御遠忌法要の厳修を自己目的化し、同朋会運動が一時休止の状態にある。宗門の戦争責任と戦後責任を確かめ、1995年に満場一致で採択した不戦決議の願いに答えるべきだ。

◆御遠忌までに見真額を撤去し宗門史を検証するため同額を常設展示する請願

◎反対の立場(真宗興法議員団) … かつて宗派が大師号を権力者に要求し続けたなど、見真額をめぐる問題は多岐にわたる。それは長い歴史の中で、宗門の伝統を命を懸けて守ってきた証しであり、時代社会にそれを表現してきた証しだ。宗門は数百万の様々な考えを持つ人の集合体。皆様と熟慮し、決定していきたい。
◎賛成の立場(無所属クラブ) … この問題の根底には、菊の紋に象徴される事柄の本質と本山との関わりがある。御影堂という根本道場の欄間中央に掲げ、その最上段に菊の紋を頂く見真額は、参詣者に否が応でも誤解を与え続ける。御遠忌を機に、今まで決断する勇気がなかった体質を克服する歩みを始めれば、次の五十年に向かう姿勢を内外に示せる。

◆御遠忌を機に見真額の降下を求める請願、見真額を下げた御遠忌法要の厳修を求める請願など

◎反対の立場(真宗興法議員団) … 見真額の撤去を前提に議論が始まっているが、多くの人の思いや声を奪いかねない。どんな姿の宗門が我々の本当の願いなのか。全体の声を集約し、検討する中でこそ、宗門も私も育てられる。今はその声を聞き取る場づくりの時だ。
◎賛成の立場(恒沙の会) … 宗門の戦争責任・戦後責任の問題だ。宗門は国家と軌を一にし、内外で皇民化政策と軍事侵略を続けた。五十年前の宮谷法含宗務総長の宗門白書には、その懺悔がなく、その白書を基に七百回御遠忌が厳修され、同朋会運動が始まった。覚悟を持って、果たすべき戦争・戦後責任を実践したい。


以上の資料を読むと、野党側議員はかなり強硬に見真額の撤去を主張しており、また、多数の教区からもそういった請願が出ているらしい事が窺えるので、一見すると、宗団内では見真額撤去の声がかなり根強いかのような印象を受けますが、これらをよく読めばお分かりにように、それら野党議員の請願は、実際には賛成少数により全て不採択とされており、まだ宗団内で主流を占める考えにまでは至っていないのが現状のようです。

では、現在の真宗大谷派では、この問題はどのように進展しているのかというと、結論としては、前出の平成22年当時とあまり状況は変わっていないようです。
先月(平成25年6月)開催された第58回宗議会・常会では、同朋社会を目指す会(野党会派)の田澤議員が、見真額について、「前・安原内局は『歴史の検証と課題の共有を持って、同額を下ろすかどうかを判断する』としたが、現内局はどうするつもりか」と質問し、初めて里雄内局の見解をただしたのですが、内局の木越参務は、「現内局は下ろす、下ろさないの判断をすべき時期には未だ至っていないと判断する」と答え、前内局と同様に課題の共有が先決として性急な判断を避けました。
内局のこの見解に対して、田澤議員は、見真額に関する内局答弁の変遷を振り返り、当初は「国家と宗教に関わる問題であり、教団の負の歴史」としていたものの、徐々に「宗門存続を願う先輩達の純粋な願いの象徴」の面が強調されてきたとし、「靖国問題が空洞化している」と危惧の念を表明しました。
見真額と靖國神社に何の関わりがあるのか、私のような凡夫にはさっぱり分かりませんが(笑)、とりあえず、何でもかんでも強引に靖國神社に結び付けるのは、やめて貰いたいものです。

ちなみに、浄土真宗本願寺派西本願寺派)の靖國神社に関する諸問題に対しての公式見解は、平成18年11月10日付の記事で紹介させて頂きました。また、同派の僧侶を原告団長とする遺族達が、遺族の承諾を得ずに近親者が靖國神社に合祀された事と、合祀が継続された事(それにより精神的苦痛を受けたそうです)から、靖國神社に対して霊璽簿・祭神簿・祭神名票から合祀された近親者の氏名抹消を求めると共に、合祀に協力した国に損害賠償を請求した裁判については、平成21年5月12日付の記事で詳しく紹介させて頂きました(勿論原告の敗訴です)。
これら2本の記事には、真宗大谷派東本願寺)の見解は載っていませんが、基本的に靖國神社に対しての両本願寺の見解は同一なので、これらの記事も併せて御参照下さい。

皇室・神社・日本の伝統を護持する立場の神道人として、“反靖國”を掲げる真宗教団が抱く歴史観・政治観は、私がそれに個人的に興味があるか無いかに関係なく常に的確に把握しておく必要があり、そのためにも、真宗各派の靖國神社に対する対応と、見真額の扱いについての宗団内のやりとりは、今後も注視していこうと思っています。


(田頭)

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