西野神社 社務日誌

札幌市西区の西野・平和・福井の三地区の鎮守(氏神様)であり、縁結び・安産・勝運上昇等の御神徳でも知られる西野神社の、公式ブログです。

戊辰戦争の遺恨と、和解への動き

明治天皇

今日は「文化の日」です。
現在は、日本国憲法の公布日として、文化の日という名で祝日に定められていますが、本来この日(11月3日)は、明治天皇の御聖徳を記念する「明治節」という奉祝日でした。
明治節文化の日それぞれの由来や両者の関係については、丁度3年前にアップした以下の記事にまとめていますので、興味のある方はこちらを御一読下さい。
http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20141103

特に本年は、鎌倉時代平氏政権も含める場合は平安時代末期からになりますが)から700年近くも続いた武家政権が終わりを告げ、現代に続く「明治」という新しい国づくりへの転換点となった慶応3年の「大政奉還」から丁度150年を迎え、そして来年は、日本史に於ける時代区分が近世から近代へと代わった「明治元年」から丁度150年という、非常に大きな節目を迎えます。

近代国家日本の礎をお築きになられた明治天皇の御偉業を讃え、その御遺徳を偲び、そして、我が国の基本的な形を築き上げた「明治以降の歩み」(立憲政治や議会政治の導入、国際社会への対応、技術革新と産業化の推進、教育の充実など)を次世代に遺す事に思いを致し、更に、明治期の人々の拠り所となった「明治の精神」(チャレンジ精神や和魂洋才など)を後世に伝えるべく、現代を生きる私達もこの日は特別な日として奉祝し、国旗を掲げるようにしましょう。
ちなみに、上の写真は、宝算22歳の明治天皇です。


ところで、日本が明治という近代国家に生まれ変わる過程に於いて、どうしても避ける事が出来なかった不幸な出来事として、「戊辰戦争」という内乱がありました。そして、鳥羽・伏見の戦いから箱館戦争に至るまでの、その戊辰戦争の中でも特に激戦のひとつであった会津戦争で、敵同士として戦火を交えた会津と長州の冷え切った関係は、戊辰戦争から百年以上経った現代に於いても、度々話題になってきました。

昭和61年、かつて長州藩の首府であった山口県萩市が、会津藩の首府であった福島県会津若松市に対して、「戊辰戦争からもう120年も経ったので、これを機に私達も和解しましょう」と友好都市締結を申し入れましたが、それに対して会津若松市側は、「あなた方にとっては“もう120年”かもしれませんが、私達にとっては“まだ120年”しか経っていません」として、これを拒絶した事が話題になりました。

これは、幕末から明治期にかけての会津と長州の関係についてあまり詳しくない人には理解し難い事かもしれないので、会津側の視点で簡単に解説すると、戊辰戦争が起こる前に京都守護職(京都の治安維持や、御所・二条城の警備などを担う、幕府の要職)として会津藩が幕政の中枢にいた頃、時の会津藩主・松平容保は、孝明天皇明治天皇の御尊父)からの信頼がとても厚く、当時の会津藩は幕府と共に官軍の側の立場であり(そもそもその当時はまだ、佐幕と勤皇は、何ら対立・矛盾する概念ではありませんでした)、それに対して、御所に大砲を撃ち込んで攻めてきた長州藩は賊軍の扱いを受けていたという事実がありました。実際、朝廷は長州藩を朝敵と認めて幕府に対して追討令を下し、第一次長州征伐も行われました。
しかし、薩長の謀略によっていつの間にか立場が逆転し、戊辰戦争が始まると長州は官軍となり、一度もブレる事無く勤皇を貫いていた会津が朝敵の烙印を押されてしまい、結果的に敗者となり、しかも多大な被害や犠牲も出るという不条理と屈辱を、会津人達は味わいました。
かなり主観的で感情的な言い方にはなりますが、会津のこういった歴史観に立脚すると、「会津藩は、就任すると極めて困難な立場に立たされる事が容易に想像出来た京都守護職の任を、徳川家に対する忠義からあえて引き受けて火中の栗を拾い、愚直なまでに正義を貫き朝廷と幕府のために懸命に働いたものの、最終的には、薩長らの卑劣な権謀術数の前に敗れた」「薩長は断じて官軍ではない。薩長こそが賊軍である」という事になるのです。

そして、会津戦争で敗北した結果、旧会津藩士やその家族達は、勝者から敗者に対する仕打ちとして、会津から厳寒不毛の地である下北半島の斗南へ移封させられ、そこで「これが人間の生活か」という程の悲惨な生活を強いられました。
それだけでなく、長州閥の新政府高官達は、会津出身者の登用を妨害するなど、会津人達を冷遇し続けました。
そういった諸々が積み重なり、しかもそれらは恨みとして子孫へと口伝されていき、会津の一部の人達の中では長州に対しての怨讐の念がなかなか消えなかったようです。

平成8年には、萩市長が初めて会津若松市を「非公式」に訪れ、翌年、会津若松市長は「答礼」として萩市を訪問し、この時、出迎えの場面で両市長は握手を交わしましたが、記者会見の場で改めて握手を求められると、会津若松市長は「(和解として)ニュースで流れるには時間が必要だ」と応じず、戊辰戦争の怨恨が今も消えていないとしてこれも話題になりました。
平成19年には、参院福島補選の応援演説のため会津若松市を訪れた、山口県出身の安倍晋三首相(生まれ育った地は東京ですが、本籍地と衆議院議員としての選挙区は山口県)が、同市内で「先輩が御迷惑をおかけした事をお詫びしなければいけない」と発言し、長州に対する恨みが今も生き続ける土地柄ならではの挨拶として、これも話題になりました。


しかし近年、こういった“対立”は、徐々に良い方向へと変わりつつあります。
長州側の歴史研究家の中にも、「史実を共有して互いに尊敬し、悼み合うのが大切ではないか」「戦場になり、死傷者が圧倒的に多かった会津の人達に、我々も思いを馳せる必要がある」などと歩み寄って和解を実現すべく活動を始める人が出ており、一方、会津側の歴史研究家の中にも、最近になって、戦死した会津藩士の埋葬を新政府軍が許さなかったという従来の定説を否定する新史料を明らかにする人などが出ており、それだけではなく、会津側にも今までのような一方的な被害者観とは異なる、以下のような主張をする人も現れてきました。

会津藩が京都で幕政の中枢にいた頃、会津藩長州藩に対して、敵対的・挑発的な行動を繰り返し、結果的に長州藩を追い詰めていたのではないか。例えば、八月十八日の政変長州藩を主とする尊皇攘夷派と急進派公卿を京都から追放した事件)の後、追い出された側の長州藩は、自藩の主張を説明するために“嘆願”と称して家老を何度も派遣したが、いつも大阪藩邸止まりで、当時朝廷を実質掌握していた会津藩が、長州藩の家老らが京都に入って説明する事を決して許さなかった」
会津藩の降伏後、斗南の地を移住先として選んだのは旧会津藩士の山川浩と広沢安任だった。少ない選択肢ながら、猪苗代付近も選ぶ事が出来たのに、あえてそれはせずに斗南を選んだのだから、斗南での残酷な生活を全て新政府のせいにするのは妥当性を欠くのではないか」
戊辰戦争後、会津は確かに薩長を主体とする新政府から冷遇されたが、それらが長州閥のみによって為されたとなぜ言い切れるのか。言い換えるなら、長州と共に新政府の中核を担った薩摩の事はなぜ恨まないのか。西南戦争会津出身者達が薩摩に復讐を果たしたからという事で済む問題なのか」

このような、改めて歴史を冷静に見つめ直そうという風潮が徐々に高まりつつあった流れも受けて、平成23年に発生した東日本大震災の後は、萩市が市民達から集めた義援金計約2400万円を会津若松市に送り、その後、当時の会津若松市長が萩市を訪れるなどもしており、両者の和解ムードはかなり高まってきているようです。
来年は、慶応4年・明治元年から丁度150年目、つまり、戊辰戦争の勃発から150年、明治維新が始まってからは150年という節目であり、これを機に、今も各地に残る、こういった感情的な対立や恩讐が和解へと進む事を、私も切に望みます。


鶴ヶ城(会津若松城)

上の写真は、5年程前に私が会津若松市内で撮影してきた、鶴ヶ城会津若松城)です。
寛永20年に江戸幕府第3代将軍・徳川家光の庶弟である保科正之が23万石で入封して以後、会津戦争で敗北するまで、会津藩の藩主を世襲した会津松平家(保科氏から改名)の居城となったお城で、会津戦争の際にはここで一ヶ月にも及ぶ壮絶な籠城戦が行われました。
なお、明治7年に、市内の阿弥陀寺に移築された「御三階」という櫓を除く城内全ての建物が一度取り壊されており、現在の天守閣(上の写真)は、昭和40年に再建された鉄筋コンクリート造りの建物です。平成22年から翌23年にかけては、黒瓦だった天守の屋根瓦を、解体される以前の赤瓦葺に復元する工事も行われました。

萩城

上の写真は、かつて山口県萩市にあった萩城です。
本丸御殿は、長州藩の藩主を世襲した毛利家の居館と藩の政庁を兼ねており、約250年間、ここが長州藩の拠点でしたが、明治7年、前年に発布された廃城令によって櫓など他の建物と共に破却され、現在は、石垣や堀が現存しているのみです。萩城は、鶴ヶ城のように再建はされておらず、この写真は解体前に撮影された、現存していた頃の萩城の姿です。


今から9年程前にアップした古い記事ですが、明治という国家については以下の記事でも触れさせて頂きましたので、もし宜しければこちらの記事も御一読下さい。
http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20080919

私が会津を旅行した時に見学してきたスポットについては、以下の記事で紹介させて頂きました。こちらは5年程前にアップした記事ですが、会津に興味のある方はこちらも御一読下さい。
http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20120615


ちなみに、先日たまたま読んだ、今年6月に出版された『別冊宝島 日本史再検証 名家の「その後」』という本の中で、長年米沢の人達と親密な交流を続け現在も上杉家旧家臣の子孫達からは親しみを込めて「トノ」と呼ばれている、上杉家現当主である上杉邦憲さん(義に篤い戦国武将として名高い上杉謙信や、江戸時代屈指の名君として今も語り継がれている米沢藩第9代藩主・上杉鷹山などを輩出した武家の名門・上杉家の、第17代目)が、「米沢の人達は戊辰戦争を昨日の事のように話します」と語っておられました。
米沢藩は、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加わって新政府軍と戦った経緯があり、やはり、敗者となった側の立場(特に東北諸藩に多いようですが)の人達にとっては、戊辰戦争は今も決して“過ぎ去った遠い過去の出来事”というわけではないようです…。


(田頭)

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