西野神社 社務日誌

札幌市西区の西野・平和・福井の三地区の鎮守(氏神様)であり、縁結び・安産・勝運上昇等の御神徳でも知られる西野神社の、公式ブログです。

神社の社格

神社には、その神社の等級(ランク)を示す「社格」というものがありました。“ありました”ということは、現在はないということです。社格の制度は平安時代に確立されて以降、いろいろな変遷を経ながら昭和に入ってからも存在・機能していましたが、神社と国家が完全に切り離された昭和20年を以って全て廃止されました。今回の記事では、社格に類する制度として現在唯一機能している別表神社の制度も取り上げていますが、この別表神社の制度も厳密には社格ではなく、現在の神社界には、社格制度はありません。

しかし、神社関係者にとっては、あるいは神社に少しでも興味・関心のある人たちにとっては、社格とは、既に廃止されてしまった昔の制度だからといって無視するわけにはいかないものです。というのも、各神社の由緒略記や紹介文などを読めばわかりますが、歴史のある大社の場合大抵、「当社は式内社です」とか「当社は○年に官幣大社に列せられました」などとかつての社格が記されていますし、大社ではなく一般の民社でも、鳥居の横に立つ社号標には、社名の上に当時の社格が彫られたまま残っていることが多いです。

勿論、そういった社号標は、あえて当時のまま残しているものです。既に社格は廃止され無効になったものですから、社号標の社格の文字の部分だけはコンクリートを流し込んで埋めてしまっている場合もありますが、その場合でもほとんどの場合は、わざと社号標とは色が違うコンクリートを流し込んで、社格の文字がはっきりと認識できるように埋められています。あまり歴史が深いとはいえない道内の神社でも、各神社の由緒を読むと「郷社」とか「村社」などというかつての社格が記されています。ちなみに、当社の社格は「村社」でした。

つまり社格は、廃止されたとはいっても、現実には、かつての社格を誇って「○の国の一の宮」、「旧官幣大社」、「旧村社」などという言い方は今でも神社界では当たり前に使われており、制度上は消滅したものの、社格は一種のステイタスとして今でも根強く生き残っているのです。

しかし社格の制度というのは複雑で、馴染みのない人たちにとっては分かり辛いものであることも確かです。例えば、「郷社」と「村社」ではどちらが“上”でしょうか。正解は「郷社」です。では、「官幣大社」と「一の宮」はどちらが“上”でしょうか。正解は「どちらでもありません。そもそも官幣大社一の宮を比べること自体が間違い」です。官幣大社官幣中社とでは官幣大社の方が“上”ですし、一の宮と二の宮とでは一の宮の方が“上”ですが、官幣大社一の宮は、それぞれ別個の社格制度に基づく社格なので、比較すること自体意味がないのです(もっとも現実には、官幣大社一の宮の両方を兼ねているという神社もありますし、また、国幣大社である一の宮の場合は、当然官幣大社よりも下位とされます)。

というわけで、以下に代表的な神社の社格制度をまとめてみました。ただし、実際にはこれ以外にもいくつかの社格や分類法(天社・国社、総社、勅祭社など)があります。

■式内社・式外社(平安時代)

延喜式」の神名帳(官社を記載登録した名簿)にその名が記載されている神社を「式内社」(しきないしゃ)といい、延喜式撰修前後に存在しながら神名帳にその名が記載されていない神社(記載に漏れた神社)を「式外社」(しきげしゃ)といいます。つまり、延喜式撰修当時(平安時代前期)から存在していた神社は、式内社式外社とに分けることができ、そのなかでも式内社は、特に由緒のある神社とされ、毎年の祈年祭に幣帛がお供えされ、災害や全国的な疫病蔓延などに際しては公の祈願が行われました。

ただし、式外社とされた神社のなかにも、石清水八幡宮大原野神社香椎宮、八坂神社、北野天満宮などの有力な神社が含まれており、また、中臣氏と共に宮中祭祀を掌ってきた忌部氏の裔・忌部広成が「古語拾遺」の中で「官社は中臣氏がほしいままに選定した」と述べていることから、式内社の選定には当時の政治状況なども反映されていたようです。

式内社は、官社制の形骸化と共に中世には実態が失われましたが、名称自体は、歴史の古い神社であることを示す社格の一種(千年以上の歴史と伝統がある証明)として残りました。式内社として認定されていた神社は2861社でした。

■延喜式の官国幣社の制(平安時代)

この「官幣社国幣社」の制は、前述の「式内社式外社」と別個の制度ではなく、式内社をさらに四等に分類した制度です。式内社は全て、陰暦2月の祈年祭において幣帛を受けますが、その際に神祇官(国家)から幣帛を受ける神社を「官幣社」、その神社の鎮座する国の国司から幣帛を受ける神社を「国幣社」とし、さらに大社と小社とに分類したため、式内社は全て、官幣大社官幣小社国幣大社国幣小社の4種のいずれかに分類されました。

式内社官幣社国幣社とに分けたのは、遠隔地に鎮座する神社の祝部(はふりべ)の上京困難による措置で、実際、官幣社は中央(京畿内)に集中し、国幣社は地方に多かったのですが、その背景には律令体制の変質、官社制そのものの動揺という事態もあったと云われています。また、大社と小社に分けたのは、形式の上では、祈年祭の際に幣帛を(物を載せる台)の上に置くかどうかにあったとされていますが(案の上に置かれる神社が大社、下に置かれる神社が小社)、その別が定められるに当たっては、その神社の社勢が考慮されたとも云われています。

なお、別項で後述する「近代の官国幣社の制」(明治時代に成立)にも、官幣大社官幣小社国幣大社国幣小社という同名の社格が登場しますが、この項で述べた延喜式における官国幣社の制と、明治期に制定された官国幣社の制は全く別のものです。一般に「官幣○社」、「国幣○社」という場合は、実際には明治に制定された官国幣社社格を指すことが多く、式内社は、特に分類はせずに単に「式内社」とのみいわれることが多いです。

ちなみに、式内社のうち特に霊験の著しい神とされた名神をお祀りしている神社には「名神大社」という社格も与えられました。名神大社とされた神社は、全部で224社ありました。

■三社(平安時代)

伊勢の神宮石清水八幡宮、賀茂明神のことを「三社」といい、この三社は朝廷から特に尊く尊崇され、特別な奉幣使が遣わされました。伊勢の神宮は皇祖の神宮であり、石清水八幡宮は朝廷において大祖、宗廟の扱いを受け、賀茂神社(現在の上賀茂神社下鴨神社)は皇女や皇女孫が斎院として奉仕し、御歴代の行幸もしばしば行われることなどから、この三社は特に尊い神社とされたのです。

なお、ここでいう三社は、三社託宣(天照皇大神宮八幡大菩薩、春日大明神)の三社とは別です。

■十六社(平安時代)

「十六社」とは、後述する「二十二社」の前身で、朝廷奉幣のために10世紀前葉に定められました。具体的には、伊勢、石清水、賀茂(上下)、松尾、平野、稲荷、春日、大原野、石上、大和、大神、廣瀬、龍田、住吉、丹生、貴布禰の十六社を指し、この十六社に対しては朝廷より格別の崇敬がありました。

■二十二社(平安時代)

二十二社」は、朝廷奉幣のために11世紀初頭に定められたもので、祈雨・祈晴や国家的大事に際しては特別に奉幣の対象になり、「二十二社」という名で特別な社格の神社として、他の神社よりも優越の地位を占めました。

二十二社は、上七社(伊勢、石清水、賀茂、松尾、平野、稲荷、春日)、中七社(大原野、大神、石上、大和、廣瀬、龍田、住吉)、下八社(日吉、梅宮、吉田、廣田、八坂、北野、丹生、貴布禰)に大別され、二十二社奉幣の慣例は平安時代以降も長く保たれ、宝徳年間頃(足利義政の治世)まで行われていたようですが、応仁の乱により廃絶されました。明治以降は、何れの神社も官幣大社もしくは官幣中社に列格されました。

■一の宮(平安時代中期以降)

諸国の国内で第一の地位を占めた神社を「一の宮」といい、以下「二の宮」、「三の宮」という序列があり、この制度は平安時代中期から鎌倉時代にかけて成立したとみられています。平安時代国司は、任国の国内にある主要神社を参拝することが慣例となっていましたが、その際に、まず最初に国司が参拝する神社が「一の宮」とされ、以下、国司の参拝する順序に基づき「二の宮」、「三の宮」が制定されていました。ちなみに、今回の記事では便宜上「一の宮」という表記で統一していますが、実際には「一宮」、「一之宮」、「一ノ宮」など複数の表記があります。

一般には、今述べたように国司の参拝や任務の執行に伴い便宜上行われた国内神社の序列化が一の宮の起源と考えられていますが、そのような国司の側の主導によるものではなく、国内において自然的に発生した神社の序列を国司の側が公認したのではないか、という全く逆の見方もあるようです。

いずれにしても、一の宮、二の宮、三の宮といった序列は準公的な社格として機能しました。ただし、これは必ずしも固定的なものではなく、神社の勢力の変化に伴い入れ替わることもあったようです。また、実質的にその国を代表する神社が必ずしも一の宮とはされていない例もあり、例えば名古屋の熱田神宮は国家を代表する神社の一社ですが、尾張国一の宮には別の神社が指定されています。また地域によっては、一の宮とされた神社が、その国の他の神社を圧倒し、二の宮以下の序列が定められなかった所もありました。

なお、全国には「一宮」という地名(自治体など)が複数ありますが、そういった所は大抵、かつて「一の宮」とされた神社が今でも鎮座している所です。ちなみに、北海道や沖縄など、当時まだ国司が置かれていなかった地域(律令体制化においては日本国内とされなかった地域)には、一の宮はありません。

■近代の官国幣社の制(明治時代〜終戦)

近代の「官国弊社の制」は、明治4年に定められた社格制度です。官国弊社の制を簡単にいうと、例祭に当たり皇室より神饌・幣帛を供される神社を「官幣社」、国家(国庫)から神饌・幣帛を供される神社を「国幣社」、府や県から神饌・幣帛を供される神社を「府社」・「県社」、郡や市から神饌・幣帛を供される神社を「郷社」、町村から神饌・幣帛を供される神社を「村社」、社格のない神社(地方団体から幣帛や神饌料供進の特典がない神社)を「無格社」といい、官幣社と國幣社は更にそれぞれ大社・中社・小社に区分され、また官幣社のなかでも特に人物神をお祀りしている神社(楠正成を祀る湊川神社徳川家康を祀る東照宮など)は別格社とされました。ちなみに、幣帛とは何なのか、ということについては、先月24日付の記事を御参照下さい。

今述べたこれらの社格を上位から下位の順に並べると、官幣大社官幣中社官幣小社別格官幣社国幣大社国幣中社国幣小社>府社・県社>郷社>村社>無格社の順となります(府社と県社は同格です)。官国幣社を「官社」、府県社以下を「民社」とも云いました。

列格後に、県社から国幣社に昇格したり、国幣社から官幣社に昇格するなどの例もありましたが、官国幣社の制度が制定された当初は、官幣社には主に平安時代の「二十二社」など朝廷に所縁の深い神社が列格され、国幣社には、主に諸国の「一の宮」が列格されました。

無格社は、「雑社」とも呼ばれ、終戦当時の数は59.997社で、全国の神社の半数近くを占めていました。ちなみに、伊勢の神宮には社格はありませんでしたが、これは神宮が尊貴無上であることから社格を与えられなかったのであり、無格社とは事情を異にしています。

また、制度上は「藩社」という社格もありましたが、明治4年、廃藩置県により藩が消滅したため、実際に藩社に列格された神社はありません。戦後はこの官国幣社の制は廃止されましたが、現在でも、天皇陛下が各地に行幸される際には、その地の旧官国幣社に幣饌料をお供え遊ばされます。

■別表神社・諸社(戦後)

現在、神社本庁の包括下にある神社は、事務的な諸手続きや待遇などの面における扱い上、「別表神社」と「諸社」の2種に大別されています。別表神社は、正確には「別表に掲げる神社」といい、通常は「別表神社」もしくは単に「別表」と称されています。

別表神社に指定されると、職員の任用や身分に関して、諸社の職員とは異なる扱いを受け、間接的にその神社が重視されようになっています。「権宮司」という職階を置くことができるのも別表神社(の中でも特に一定の基準に達した神社)だけです。

平成16年末のデータでは、本庁包括下の神社は全国に79,057社あり、そのうち別表神社に指定されている神社は346社となっていますから、別表神社に指定されている神社は、全国の神社のうち1%にも満たないことになります。ちなみに、道内にある本庁包括下の神社数は602社(平成18年3月現在)ですが、そのうち別表神社に指定されている神社は6社で、内、札幌市内に鎮座する別表神社は1社のみです(北海道神宮)。

現在は社格の制度はなく、この「別表神社」という呼称も、前述の「官國幣社の制」等の社格とは異なりあくまでも便宜的な分け方に過ぎず、法的には各神社は一律平等です。別表神社は、その神社の信仰的・社会的現状から、他の一般の神社と同様に扱うことは適当ではないという区別に過ぎないのですが、しかし現実には、別表神社とされている神社は全国的にみても社殿・境内地・神職数・予算等が一定標準以上の神社であり、その意味においては、「別表神社」という呼称が社格のように一種の等級的な感覚を与えている感は否定できません。

なお、別表神社はあくまでも神社本庁の制度なので、神社の規模が大きく全国的に名の知られた神社であっても、本庁の包括下にはない単立の神社は当然、別表神社には指定されていません(伏見稲荷大社日光東照宮靖國神社明治神宮など)。

(田頭)