西野神社 社務日誌

札幌市西区の西野・平和・福井の三地区の鎮守(氏神様)であり、縁結び・安産・勝運上昇等の御神徳でも知られる西野神社の、公式ブログです。

神職と霊能力

祝詞奏上

今日参拝者の方から、「神主さんも霊能力があるんですか」という質問をされました。「テレビなどでよく霊能者が霊視したり除霊したりするのを見ますが、ああいったことは本当にあることのでしょうか」という質問に続いてこのように質問されたのですが、果たして神職に霊能力はあるものなのでしょうか。

結論を言えば、それは個人の資質によるものなので「ある」とも「ない」とも断言できません。それは恐らく、神職に限ったことではなく、僧侶なども同様です。神職や僧侶(あるいは神父や牧師)の中には、強い霊能力を持っている人もいるでしょうし、逆に、そういった能力とは無縁の人もいます。私自身についていえば、霊視したり除霊したりすることを霊能力と定義付けるのであれば、そういった能力はありません。ときどきインスピレーションで “何か” を感じる事が無いでもありませんが、しかしそれは、恐らく人間であれば誰もが持っている本能的な感覚(所謂 “第六感” )であって、「霊能力」と称されるものとは異なるものです。しかし、そういった特殊な能力が無いからといって、私は神職としてそれで困ったことは今まで一度もありません。この点を勘違いしておられる方が少なくないのではっきりと言いますが、神職は、霊能者や拝み屋さんとはその役割が違います。

霊能者や拝み屋さんと称される人たちが、神仏の意思を人々に伝えたり、神仏の持つ力を人々に示そうとするなど、その方向性が「神仏→人」という流れであるのに対し、神職は、神の “みこともち” として只管祭祀を厳修し(まつり事を行い)、国家や皇室の安泰を願ったり個人の願意を神様へ取次ぐという役目を担っており、その方向性は「人→神」という流れを示しています。神様に仕え、人々の願いを神様に取り次ぐ以上、それに相応しい状態(神様に対する礼節)を常に保つ事、例えば潔斎(心身を清める)をしたり神学的な勉強をしたりするといった事などは欠かせませんが、現代の神職は神託(神様の言葉を伝える)や帰神(神霊が憑依する)といった役割は担っていないので、世間一般で霊能力と称されるような特殊な能力は別段必要ないのです。霊能力があっても困る事はないでしょうが、しかし、そういった能力を発揮するのは神職本来の役割ではないということです。

では、神職祝詞や祭詞を奏上する事にはどういう意味があるのでしょう。例えば神葬祭霊祭などでは、亡くなった人間に対して祭詞が奏上されますが、私は昔、故人に対して祭詞を奏上することの意味がよく理解できていませんでした。祝詞も祭詞も、その内容は普通現代語では書かれておらず、大和詞(やまとことば)といわれる、現代人にとってはかなり難解な古語で書かれています。記紀に登場する神話上の神様や、古代の人物であれば、そういった祝詞を奏上されても難なくその内容を理解して下さるのでしょうが、しかし、普段祝詞を書く事も読む事もない一般の現代人に対して古語で書かれた祭詞を奏上しても、その故人は本当にその内容を理解してくれるのか、生きている時にわからなかった言葉が死んだ途端に急に理解できるようになるものなのか、と疑問に感じていたのです。

もっと極端な例を挙げると、獣魂慰霊祭などでは動物の霊に対して祭詞が奏上されますが、その場合は、祭詞が古語であるかどうかの以前に、その祭詞の奏上対象とされる動物が、そもそも日本語を理解できるのか、この場合は仮に現代語で奏上したとしても、動物がその内容を理解する事は不可能なのではないか、という事です。

例えば獣魂慰霊祭などで、牛や馬の霊に対して「汝等(いましら)は世のため人のために其の命を捨て身を捧げて人々の比類(たぐい)無き味物(ためつもの)として栄養(やしない)の糧(かて)となり給ひぬ。故(かれ)汝等が一世(ひとよ)の限りと命を捧げて犠牲(いきにえ)と成りしを哀れと思い偲びつつ獣魂(みたま)慰(なご)めの御祭(みまつり)仕奉(つかえまつ)らくと…」と祭詞を奏上した場合、馬や牛の霊はその文言を理解してくれるのでしょうか。

この点について今の私の考えをいえば、勿論、故人や動物に対して祭詞を奏上する事に意味はあります。なぜなら、祝詞や祭詞は言霊(ことだま)の発動を願って奏上されるものであり、その言霊の発動こそが最も重要な事で、祝詞や祭詞に書かれた個々の字面を、奏上される対象がどう理解されるかは(私の個人的な解釈では)あまり重要な事ではないからです。言霊というのは、物凄く簡単にいうと、「明日は晴れる」と言葉に出して言うと明日は晴れ「明日は嵐になる」と言葉に出して言うと明日は嵐になる、あるいは、「今年は豊作になる」と言葉に出して言うと本当に今年は豊作になる、と信じる信仰(言葉に一種の霊的威力を認め、それを口にする事によってその霊力を発動させるという考え)のことです。

つまり、故人に対して「惟神(かんながら)の道の隨(まにま)に尊き神々の御列(おんつら)に帰り鎮まり給へと恐(かしこ)み恐みも白(もう)す」といった言葉(仏教的にいえば「成仏して下さい」というような内容)を奏上すると、それが言挙げ(言霊を生かすためにそれを口に出す行為)されて、故人がその古語の意味を明確に理解できたかどうかに拘わらず、言霊の発動によってそれが実現される、という事です(これはあくまでも私の個人的な解釈です)。

(田頭)