先日、京都市に在住のある方から、「H木K子さんが、女性は拍手の音を立てるべきではないなど誤った神社参拝方法をTVで喋り、その弊害が発生しているとの話を聞きました。ブログで一度取り上げてみられてはいかがでしょうか」とのメールを戴きました。
H木K子さんとは、TVや雑誌等で広範に活躍されている売れっ子の六占星術家(作家、タレント、実業家なども兼ねておられます)で、そのH木さんが以前から「男性は拍手しても構わないが、女性は神社では柏手を打ってはいけない」と言っているということは私も聞いて知っており、やはり気にはなっていました。幸い、当社ではまだそのような参拝者は見かけたことはないのですが、神社によっては、神職が二礼二拍手一礼の参拝方法を説明しても、「それは間違った作法です。H木先生は、神社では女性は拍手をしないのが正しい作法と仰っています」と神職に食って掛る参拝者もいると聞いていたからです。
そのため、この件については昨年4月9日付の記事「拍手(かしわで)」で、二礼二拍手一礼(二拝二拍手一拝)こそが正式な神社の参拝作法であるということを書かせて戴き、説得力があったかどうかは分かりませんが、私なりにH木さんの主張に反論を試みてみました。その記事の文末では、「占い師、霊能者、拝み屋さん、その他一部の宗教家たちが何と言おうと、神社の御神前では(勿論性別に関係なく)柏手を打つのが、歴史的にも儀礼的にも正しい作法であり、それをしない作法こそが、神社神道においては誤った作法なのです」とまで断言させて戴きました。
しかし、その記事を書いた当時は知らなかったのですが、最近聞いた話によると、H木さん曰く女性が拍手をすべきでない理由は皇族の女性も拍手はしないから、とのことらしく、また、前出の記事「拍手(かしわで)」では拍手がなぜ必要なのかという理由やその根拠は詳しく書かせて戴いたものの、拍手の回数はなぜ2回なのか、ということについては触れておりませんでしたので、そういったことを踏まえて今日は、「女性の皇族は本当に柏手は打たないのか」ということと、「拍手はなぜ2回打つのか」という2点を中心に、改めてこの件についてまとめさせて頂きたいと思います(但しこの2点以外にも「拍手はなぜ2回打つのか」という話題から派生して、二拝二拍手一拝という作法が定着するまでの経緯も併せてまとめさせて頂きます)。前出の記事「拍手(かしわで)」と併せてお読み戴ければ幸いです。
なお、今日の記事では、「拝」(はい)「揖」(ゆう)「礼」(れい)などといった神社祭式特有の専門用語が多く出てくるため、一応それらの違いもここで簡単に説明させて頂きます。「拝」とは腰を90度折り曲げる最も丁寧なお辞儀のことで、「揖」とはそれに次ぐ丁寧なお辞儀で、腰を凡そ45度の角度で曲げる「深揖」(しんゆう)と、腰を凡そ15度の角度で曲げる「小揖」(しょうゆう)との二種があります。つまり、腰を曲げる角度の度合いから「拝>深揖>小揖」になるということです。「礼」とは、「拝」や「揖」の総称です。
●女性皇族は柏手を打たないのか
まず「女性の皇族は本当に柏手は打たないのか」という件についてですが、私は宮中祭祀については詳しくありませんので、この件については、京都府八幡市に鎮座する石清水八幡宮のN禰宜に直接電話をして確認させて戴きました。N禰宜は篤い信仰心と膨大な知識、そして豊富な神職経歴を持ち、まさに“神職とはこうあるべき”という理想を具現化したような方で、石清水で実習をしていた当時、私は神道に関して分からないことがあったときには社務所のN禰宜を訪ねてお話しを伺ったことがあるのですが、そういった時もN禰宜は嫌な顔一つせず熱心に解説をして下さり(特に神仏習合については1時間以上も熱く語って下さいました)、N禰宜は私にとって、目標とすべき神職の一人です。
今上陛下の大嘗祭の前後、宮中では人手が足りなかったことから神社界に応援を要請し、これを受けて神社本庁では伊勢の神宮、熱田神宮、石清水八幡宮など全国の勅祭社から7人の神職を宮中に派遣したのですが、N禰宜はその7人のうちの一人として「臨時掌典補」の肩書きで2年弱、宮中で奉仕された経験も持っており、私の知る神職の中では最も宮中祭祀に詳しい方なので、御多忙の中大変申し訳なかったのですが、先日、図々しくもN禰宜に直接電話をしてこの件について質問をさせて頂きました。
H木さんが言う「女性の皇族は柏手は打たない」ということについては、N禰宜は、「そういうことはあり得る。そもそも宮中祭祀においては拍手はほとんど行われていない」との見解を示されました。神社祭祀と宮中祭祀は“全くの別物”とまで言い切ってしまうと言い過ぎなのですが、例えば神社では神職が必ず手にする笏(しゃく)を宮中での神職に当たる掌典は用いないなど、両者ではかなり異なっている部分があるのも事実で、神社祭祀においては日常的に行われている拍手という作法も、現在の宮中祭祀ではほとんど行われていないのだそうです。
「祭式大成 男女神職作法編」(和光社刊)によると、現在の宮中祭祀で拍手が打たれるのは、鎮魂祭において掌典長以下が八開手を四段打つくらいで、しかも、この神事においても祝詞奏上は「再拝→祝詞奏上→再拝」という作法で行われるため、祝詞奏上時に拍手は伴わないそうです。陛下の御親祭における御告文も、起拝の両段再拝で柏手が打たれることはなく、諸社への御親拝でも、玉串を神前へ立てられた後に一拝なさるだけだそうです。
つまり、「女性の皇族は柏手は打たない」というよりも「皇族の性別に関わらず、そもそも現在の宮中では拍手はほとんど行われていない」というのが実態の様です。もっとも、古い記録によると、過去には宮中でも拝礼時に拍手は行われていたようですが。ただ、過去のことはともかく少なくとも現在の宮中で拍手がほとんど行われていないのは事実なので、それを理由として、「女性は柏手を打たなくてよい」という細Kさんの主張は、かなり突飛ではあるものの、全く荒唐無稽な主張とまでは言えないということになります。
しかし、だからといってそれを理由に「神社で女性は柏手を打たなくてよい」という主張は勿論認められません。皇族がそうだから、宮中における祭祀がそうだから、自分もそれが許される、などと考えるのは、私に言わせれば著しい不敬です。“一社の故実”により一部で異なる神社もありますが、大部分の神社が主張する参拝作法は「二礼二拍手一礼」であり、皇族であったり宮中祭祀に関わる者(掌典など)でない以上、参拝者はその神社が主張する作法に従うべきで、それがその神社にお祀りされている神様への礼儀です。
H木さんの主張を正しいと信じる方でも、例えば教会の十字架の前で柏手を打ったり、焼香をしたり、あるいは、寺院の御本尊の前で「アーメン」などと唱えることは、その神様や仏様に対して失礼なことと理解できるのではないでしょうか。
●拍手の回数
次に、拍手の回数についてですが、これは意外と説明するのが難しい問題です。回数に関係なく拍手という行為が必要であるということは、前出の記事「拍手(かしわで)」で説明させて戴いた通りなのですが、拍手を何回打つのか、ということは現在でも神社によって異なっており、「二礼二拍手一礼」が最も標準的は拝礼作法とはいえ、全ての神社がその作法を採っている訳ではないのです。
例えば、出雲大社、宇佐神宮、弥彦神社などでは四拍手による拝礼が正式な作法とされており、また、これはあくまでも神職の作法であり一般の参拝者の作法ではありませんが、伊勢の神宮の祭祀では四拍手を2回繰り返す八開手(やひらで)という拍手が行われています。大嘗祭でも皇太子以下は八開手を行うとされており、神道系の教団でも四拍手を正式な作法として採り入れている所は少なくありません(天理教、大本、大和山など)。なかには、五拍手を行う神社もあると聞いたことがあります。
しかし、全体からみると拍手の回数は2回というのがやはり最も標準で、それ以外の回数の拍手は“一社の故実”もしくは“その教団特有の事情”として例外的な作法と考えるのが妥当です。では、最も標準的な作法であるその「二礼二拍手一礼」の根拠とされているのは何なのでしょうか。その一つの根拠と考えられているのは、明治8年に式部寮から頒布された「神社祭式」です。この中に、官国幣社祈年祭の祝詞奏上や拝礼等についての作法は「再拝拍手」と記されている記述があり、これが、現行の「二礼二拍手一礼」という作法の一つの根拠と考えられています。
この「再拝拍手」は、我が国の伝統的な作法である「両段再拝」に基くもので、「両段再拝」とは再拝(2度深くお辞儀する)を2回行うことをいいます。その後、この両段再拝の作法は各流派や神社によって多少の違いを生じましたが、明治8年に編まれた「神社祭式」において「再拝拍手」という形で制定され、これが基本となって、長い時間をかけて「二礼二拍手一礼」という現行の参拝作法が慣例化していったのです。
●二拝二拍手一拝が定着するまでの経緯
「二礼二拍手一礼」は、厳密には「二拝二拍手一拝」もしくは「再拝二拍手一拝」というのですが、この「二拝二拍手一拝」という拝礼方法が標準的な作法とされるまでには、実はかなりの紆余曲折がありました。というのも、明治8年に編まれた「神社祭式」にただ一言記された「再拝拍手」という言葉だけでは、具体的にどのような作法をすればよいのか、当の神職達も明確には判断ができなかったからです。かなり専門的な話になってしまいますが、以下に、「二拝二拍手一拝」が標準的な作法とされるまでの、その紆余曲折の歴史をザッとまとめさせて頂きます。
「神社祭式」に記された「再拝拍手」とは、一拝して祝詞を奏上してから再拝拍手なのか、それとも祝詞奏上の前後に再拝拍手なのか、明治8年に「神社祭式」が制定された当時はその当たり明確ではなく、また、当時内務卿であった伊藤博文は「一揖、再拝、二拍手、一揖」が正式な作法と言っていたことからも、とりあえずこの時点で二拍手が定着していたのは間違いない様なのですが(拍手が2回とされた理由は前述の様に両段再拝が基になっているためです)、現行の「二拝二拍手一拝」のうちの最後の拝はまだ定着していませんでした。
ところが、明治15年に創立された皇典講究所の祭式の講義では、「再拝、祝詞奏上、再拝、二拍手、一拝」という作法が指導されていたそうで、同所で祭式教授の様子を見聞きしていた木野戸勝隆氏の著した「祭式摘要」にも「再拝、祝詞奏上、再拝、二拍手、一拝」と記されていることから、「二拝二拍手一拝」の最後の拝は、皇典講究所の祭式の講義で指導されたのが初めてであったと考えられます。
山梨の甲斐奈神社の高原光啓権禰宜が「神社新報」の昨年5月1日号に寄稿された「再拝拍手覚書」というタイトルの記事によると、高原権禰宜は皇典講究所が最後の一拝を指導した理由を、「祝詞奏上に関して言えば、式部寮は奏上前後の再拝拍手のみを求めていたわけだが、実際の作法となると、拍手だけで終えるのはなんとも締まらない。故に、終わりの一拝を以って奏上作法の完結とするような指導をしたのかもしれない」と推測されています。
そして、こういった紆余曲折を経て明治40年、「神社祭式行事作法」が告示され、やっと正式な拝礼作法が確定するに至りました。但し、明治40年制定の神社祭式行事作法では、祝詞奏上の作法は「再拝→二拍手→押し合せ→祝詞奏上→押し合せ→二拍手→再拝」とされており、最後の拝は2回とされていたり、現行の祭式にはない「押し合せ」という作法があったりと、現行の拝礼作法とはまだ異なる点もありました。なお、“一社の故実”により、現在でもたまに「再拝→二拍手→祝詞奏上→二拍手→再拝」という作法で祝詞奏上を行っている神社が見受けられますが(札幌市内にもそういった神社があります)、そういった神社は、基本的には明治40年に制定されたこのときの拝礼作法を踏襲しているものと思われます。
ところが、昭和17年に「神社祭式行事作法」が改正され、祝詞奏上の作法からは祝詞奏上前後の二拍手と押し合せが削除され、「再拝→祝詞奏上→再拝」が正式な作法とされました。斎主が祝詞座に着いて深揖・再拝して祝詞奏上にかからんとしている時に、他の作法である二拍手を行うことによって奏上しようとしている気持ちと奏上の作法が中断され、また奏上前に祝詞を手から放すことになり、このため奏上前の二拍手は必要ないのではないか、と議論され、また、拍手を伴わない宮中祭祀に倣うという意味もあり、拍手が規程から削除されることになったのです。
しかし、祝詞奏上に拍手が無くなってしまっては祭典がいかにも寂しくなるということで、同年、神祇院は「日拝・祈願・祈祷当ニ当リ祭典執行ノ場合ニ於ケル作法ニ関スル件」と題した通牒を出し、この中で「先再拝、次祝詞奏上、次再拝、次拍手二」と定めたため、日拝や通常の御祈祷などでは引き続き拍手が行われました。
そして昭和23年、再び「神社祭式行事作法」が改正され、このときに、祝詞奏上の作法は現行の「再拝→祝詞奏上→再拝→二拍手→一拝」と定められました。これは、明治40年制定の作法に復帰したいという全国の神職達からの強い要望を受けて慎重審議を行い、その結果、拍手は祝詞奏上後にのみ行うこととされて復活したのです。
各神社が一般参拝者へ説明・指導している「二拝二拍手一拝」という作法も、この昭和23年改正の神社祭式行事作法に基くものですが、以上の経緯を一般参拝者に説明するのは、はっきり言って至難の業です(笑)。先程「拍手の回数についてですが、これは意外と説明するのが難しい問題です」と記したのはそのためで、以上の経緯を踏まえて拍手が二回となった理由を無理矢理一言でまとめると、「いろいろな経過があってそうなった」としか言い様がないのですが、多分そのような説明では誰も納得しないと思いますので(笑)、もう少し親切な言い方で一言にまとめると、「二拝二拍手一拝は、日本古来の伝統的な作法である両段再拝に基くものです」という言い方が、まぁ無難かな、という気がします。それでも省略し過ぎですが(笑)。
ただ、一般の参拝者であればその程度の認識でも全く問題ありませんが、私達神職は、以上の細かい経緯をしっかりと認識しておく必要があります。なぜなら、「二拝二拍手一拝」という作法には先人達の思いが込められており、そしてその作法は、私達の先輩に当たる先代の神職達が試行錯誤を経ながら営々と築き上げてきたものだからです。それ故、私達神職はその作法と伝統を守らなければならないのです。
最後に、冒頭で述べたH木さんの言う「男性は拍手しても構わないが、女性は神社では柏手を打ってはいけない」という主張に対してはどのように反論すべきか、ということですが、H木さんのこの発言はあくまでも柏手の有無のみを言っており、その回数については何も触れていないようなので、そうであればそれに対しての反論は、前出の記事「拍手(かしわで)」で書かせて戴いたことをそのまま言えば、それで充分事足りると思われます。
(田頭)