西野神社 社務日誌

札幌市西区の西野・平和・福井の三地区の鎮守(氏神様)であり、縁結び・安産・勝運上昇等の御神徳でも知られる西野神社の、公式ブログです。

神仏習合

弘法大師・丹生高野両明神像

今日は、北海道立近代美術館で開催中の「空海マンダラ − 弘法大師高野山」展を見学して来ました。私は、京都の神職養成機関に在学していた時も、休みを利用して同期の仲間と一緒に、当時京都国立博物館で開催されていた「空海高野山」展を見学して来た事がありましたが、私にとって高野山展を見学するのはそれ以来4年ぶりで、神主のくせに(笑)神仏習合仏教美術に興味のある私は、今日の高野山展ではわざわざ別料金を払い音声ガイドまで利用して、ヘッドホンを装着しながら同展を堪能してきました(笑)。

今回札幌で開催されている高野山展では、多数の貴重な文化財を有する事から「山の正倉院」とも称されている高野山和歌山県高野町)の諸寺に伝わる様々な名品(国宝18点、重要文化財56点を含む総計100展)が、4月24日から6月3日までの約1ヶ月強に亘って一同に展示されます(但し会期中の前期と後期とで一部展示品が入れ替わるようですが)。同展は、北海道では最初で最後とも称される規模の高野山展で、開催初日には、展示品の一つである「萬日大師像」の前で、北海道出身の資延敏雄(すけのぶびんゆう)前高野山真言宗管長・前総本山金剛峰寺座主が導師を務めて開眼法要が執り行われたとの事なので、宗門としても、同展にはかなりの意気込みを懸けているものと思われます。

私が今日、同展を見学して特に注目したのは、神職という立場から、やはり神仏習合に関する展示品でした。それらの神仏習合色の濃い品々を見て、私は改めて空海及び真言密教と、神道との深い関わりを実感しました。そして、それらの展示品の中でも最も神仏習合を象徴していたと言えるのが、重要文化財弘法大師・丹生高野両明神像」(写真参照)でした。

これは高野山天野社(丹生都比売神社)で正応4年(1291年)に始行された問答講の本尊像で、画面中央に弘法大師空海)像が描かれ、その下方右には唐装の女人姿で描かれた丹生明神像、下方左には束帯姿の高野明神像が配されています。画面の上下には別絹を継いで風景も描写されており、上方には、大師廟周辺の高野山奥之院(弘法大師が今も生身のまま永劫の禅定に入っているとされる、高野山最大の聖地)の景観が描かれ、下方には、両明神の鎮まる山麓の天野社の社頭景観が描かれています。空海を頂点として左右に神々が描かれているこの三尊形式の画像は、土地毎に祀られていた神に仏教の守護神としての役割を与えた真言密教のあり方を表現しており、優しいタッチで描かれながらも、明らかに本地垂迹(ほんじすいじゃく)、つまり仏が「主」で神が「従」という立場で描かれています。

明治の神仏分離以前の神仏習合とは、この図に示されるように、やはり仏が上位で神が下位だったのでしょうか?だとしたら、人々にとっては神よりも仏の方が大切だったという事なのでしょうか? ― 今日は、神仏習合の歴史を語る上では欠くことのできない「本地垂迹説」と「反本地垂迹説」という説についてお話させて頂きます。


◆本地垂迹説

「神」と「仏」を比較した場合、「当然神の方が上位であり、仏の方が下位である」と主張する神職や氏子さんはいるでしょうし、逆に、「当然仏の方が上位であり、神の方が下位である」と主張する僧侶や檀家さんもいる事でしょう。この論理を更に推し進めて、「上位下位の問題ではない。そもそも信仰すべき対象は神(もしくは仏)だけであって、仏(もしくは神)などは信仰すべきではない」という極論に達する方もいるでしょう。実際、仏のみへの信仰を主張して、家庭から神棚を撤去するよう呼びかけている伝統仏教教団もありますし(この件については昨年11月2日付の記事「神棚と仏壇」を御参照下さい)。

しかし、私の個人的な見解を述べさせて頂きますと、本来神と仏は、どちらかが上位でもう一方が下位、というものではありません。序列をつけたり、優劣を比較すべきものでもありません。神と仏のどちらが上位か、どちらが大切か、などという質問は、例えていうならそれは、人間が生きていく上で水と空気のどちらが大切か、というのと同じくらい、答えようのない意味のない質問です。しかし、そうは言っても日本の長い神仏習合の歴史の中では、「本地垂迹説」という、仏が「主」で神が「従」という考え方が主流だったのは確かです。

そもそも「本地垂迹説」とは何なのか、という事を一言でまとめると、「仏が衆生を救うために仮に神の姿に変えて現れたとする説」と言えます。この説の根底には、神仏はともに同体不可分の存在であるという考えがあるものの、あくまでも本体(主)は仏であって、その仏が仮(従)の姿として現れたのが神としており、仏が上位で神が下位にあると解釈する、仏教側から見た神仏観念と言えます。

本地垂迹」とは、本来は天台宗において法華経如来寿量品で説かれていた仏教特有の言葉で、これは2種類の仏陀を弁別するための言葉でした。如来寿量品によると、仏陀には2種類あり、一つは、仏教の開祖である釈迦が存在していようとしていまいと関係なく永遠に存在する「真理」という、絶対的・超人的な「仏陀」で、永遠の昔から存在し、未来永劫に渡って存在し続けるものです。そしてもう一つは、シャカ族の王子として生まれ、後に悟りを開いて仏教の開祖となった、現実に存在した歴史的実在としての「仏陀」(お釈迦様)です。しかし、究極の仏である「真理」としての仏陀は、究極であるが故に我々凡夫に直接説法をするような近しい存在ではなく、そのため、現実世界に生きる我々人間を救済するため、本地である「真理」が一人の人間として存在した仏陀(お釈迦様)という姿で現れた(垂迹)、というのが、この如来寿量品で説かれている本来の「本地垂迹」という意味です(ただし真言密教においては、「真理」という仏陀大日如来は直接衆生に教えを説く、それが密教の特色の一つであるとしています)。

そして、この「本地垂迹」という考え方をそのまま神と仏の関係に当てはめたのが、神仏習合説として説かれる「本地垂迹説」なのです。「本地垂迹説」では、本地である仏陀が、人々に利益を与え悟りを得させるために、神の姿に変身して垂迹(降臨)した、という考え方をとっており、この説は平安時代に一気に広がりをみせました。

東大寺の大仏建立の際に、宇佐八幡東大寺境内の鎮守社に勧請されたのは、「神は仏を守るもの」という考えが既に成立していたからであり、つまり、奈良時代から「本地垂迹説」の萌芽は見えていたのですが、本地垂迹説が本格的に広がりを見せるのは平安時代に入ってからで、それは、平安時代初期に空海という傑出した天才僧が登場した事と密接に関わっています。

空海高野山霊場を開く時、民衆が抱く古来の神々への篤い信仰という現実を受け入れて、先に述べた丹生高野両明を高野山鎮守神としてお祀りし、神々に仏の擁護を願う姿勢を見せました。これは、仏法を積極的に広めるためには「神」と対決するよりも、むしろ「人々が神々に寄せる篤い信仰」という現実を受け入れ、その上で、その「神々への信仰」も取り込んでしまった方が密教の布教に有利であるという判断からで、9世紀末までには密教は全国を覆うようになりますが、密教が全国的に広がっていく過程で、神社なのか寺院なのかが判然としない所謂「神宮寺」が各地に出現するようになり、それと共に「本地垂迹説」も広く全国に普及していったのです。

本地垂迹説」が広がり、定着する事によって、神が仏に取り込まれる形で神仏は一体化していき、神宮寺化によって曖昧になっていた神と仏との間の境界線はついに見えなくなり、神仏は完全に習合するようになっていきました。その結果、平安時代の末期になると、各神社に祀られていた神々はほとんど、その本地となる仏が具体的に定められ、例えば伊勢の神宮の本地は大日如来熊野神八幡神の本地は阿弥陀如来春日神の本地は不空羂索観音、賀茂神の本地は聖観音三嶋神の本地は薬師如来、白山神の本地は十一面観音などとされました。

そして、神が仏と同体と見なされると、神社の本殿に仏像や神像が安置されたり、境内に堂塔伽藍を建立する宮寺が出現し、神職と並んで別頭(べっとう)・社僧(しゃそう)などの僧侶が祭祀や社領の管理を行うようになり、そういった神仏習合体制は江戸時代の終わりまで続いたのです。私が2年間実習していた京都の石清水八幡宮も、現在では100%完全な神社ですが、江戸時代まではどちらかというと神社というよりは寺院に近く、あえて色分けすると「寺院8割、神社2割」的なお宮でした。石清水八幡宮は、約1150年の歴史のうちの大半に当たる1000年間は神仏習合で、明治以前は僧侶により神前読経も日常的に行われていたようです。ちなみに、現在では100%完全な神社である談山神社金刀比羅宮、水天宮などは、いずれも明治の神仏分離によって寺院から神社に衣替えしたお宮で、江戸時代まではほぼ100%寺院でした。

では、結局の所、教学的なことはとりあえず置いておいたとしても少なくとも歴史的には、神よりも仏の方が上位だった、ということなのでしょうか。確かに「本地垂迹説」の立場に立てばそうなります。しかし、「本地垂迹説」への反発から、神こそが本地で仏の方が垂迹であるとする神主仏従的な「反本地垂迹説」も説かれるようになり、また、雲伝神道(別項で詳述します)のように、仏教側から説かれた神道にも、従来の仏本神従的立場とは異なる復古神道的・国家主義に近い神道が説かれるなどといった動きがありました。

ですから、確かに「本地垂迹説」が神仏習合の歴史の主流だったとはいえ、歴史のなかでは常に仏本神従だった、という訳ではありません。もっとも、どちらの考えが主流であろうと、それはあくまでも人間側の解釈の問題であって、当の神仏にとっては、「人間が我々のヒエラルキー(上下関係)を決めるなど、おこがましい事だ」という思いだったのではないでしょうか。


◆反本地垂迹説

中世においては、「本地垂迹説」を人々に分かりやすく説明するため、「和光同塵」(わこうどうじん)の例えをもって神仏習合を説明する事が流行りました。その趣旨は、「仏は、慈悲の威光を目立たぬようにして、塵芥にも等しい煩悩に悩む衆生の仲間に変身する」というもので、それを「無知蒙昧な者達を教化するのに、いきなり仏・菩薩の姿では馴染み難い。よって神の姿をとる方が分かりやすい」という意味に転用したのです。しかし、いくらなんでもこの理屈は「神」に対してあまりに無礼であり、さすがにこういった主張は、神々を信仰する立場の人々から反感を招く事となりました。

そういった反発から、また、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて流行った神国思想の流行(その背景には、二度に亘る元寇に打ち勝った事によるナショナリズムの台頭があります)などにより、鎌倉時代末期以降は、仏よりも神々のありがたさを強調したり、神こそ仏の上に立つという「反本地垂迹説」が唱えられるようになりました。例えば、天台宗の学僧で神道家でもあった慈遍は、「神こそが本地であり仏が垂迹である」という神本仏迹説を唱えました。結果としては「反本地垂迹説」は主流には成り得なかった考え方ですが、神道側の立場から見るとやはり注目に値する考え方なので、この項では「反本地垂迹説」について簡単にまとめさせて頂きます。

前述の慈遍は、「旧事本紀玄義」(くじほんぎげんぎ)の中で、神道と仏教の関係を以下のように述べています(原文ではなく要約です)。『本来我が国には神々があったが、中頃に至り仏教に譲って仏が主たる地位を占め、次に末世となり、僧尼が堕落し国の費えとなるに及んで、既に仏教はその存在理由を失い、再び神々中心の世界が出現する』『日本は種子であって、唐は枝葉であり、インドは花実であり、花は落ちて根に帰る如くその本は日本にある

そして、この思想の影響を受けたのが、吉田神道の創唱者として有名な吉田神社の神官・吉田兼倶で、「唯一神道名法要集」の中で兼倶は以下のように述べています。『第三十四代推古天皇の御世、上宮太子、密かに奏して言はく、「吾が日本は種子を生じ、震旦は枝葉を現し、天竺は花実を開く。故に仏教は万法の花実為り、儒教は万法の枝葉為り、神道は万法の根本為り。彼の二教は皆是れ神道の分化也。枝葉・花実を以て其の根源を顕はす。花落ちて根に帰る。故に、今此の仏法東漸す。吾が国の、三国の根本たることを明かさんが為め也。それより以来、仏法、此に流布す」。神武天皇以降、千二百余歳を経たるも、其の中間には二法は無く、唯神国の根本を守り、神明の本誓を祟む。故に今、神事の時、仏・経・念踊等を去るは此の儀也』。

これは大雑把に要約すると、だいたい以下のようになります。『「仏教も元々は神道が根っこであり、幹となったのが中国の儒教、そして枝葉になって花を実らせたのが仏教で、その仏教の花の実が落ちて根に還っていくプロセスが、東漸した仏教伝来の真意である。仏教も儒教も、元はと言えば神道から分かれたものである」と聖徳太子が仰せになりました』。兼倶自身ではなく、日本仏教の全宗派から慕われている聖徳太子がそのように仰っている、という所がミソですね(笑)。

豊臣秀吉は、当初は信長が行なっていた切支丹優遇策を継続していましたが、キリスト教勢力が一向門徒と同じように大きな宗教勢力となって国家を根本の所から危うくしていく力になり得るという認識を持つようになってからは、バテレン追放へと方向転換し、その時に秀吉は、自国を防衛するための論理として吉田神道を採用して「日本は神国なり」と主張し、また、兼倶の唱えた「反本地垂迹説」に従い、仏教も元々は神道が根であったと説きました。こうして吉田神道は一定の政治権力と結びつきながら勢力を保つようになっていったのですが、豊臣政権の後に発足した徳川幕藩体制は、豊臣政権と近かった吉田神道とは一定の距離を置くようになり、そこに、天台宗天海僧正が介在して「山王一実神道」(天台系の神仏習合神道)が起こったのです。

「反本地垂迹説」が主流と成り得なかったのは、このような当時の政治的な事情(吉田神道山王一実神道の対立など)もありましたが、それでも、慈遍の唱えた「神仏一如」の考えを更に発展させて明快に神道の優位を主張し「反本地垂迹説」を確立させた兼倶の功績は、やはり大きかったといえます。なぜなら、江戸時代後期に興って明治維新の大きな原動力の一つとなった国学は、「吉田神道」や「山王一実神道」を否定しながらも、紛れもなくそれらの神道説の後身でもあり、そういった意味では、「反本地垂迹説」は明治維新にまで遠く影響を与えているという見方も、できない事はないからです。


◆雲伝神道

日本の神祇を真言密教の教学で解釈した神仏習合神道としては「両部神道」(りょうぶしんとう)が有名です。両部神道は、伊勢神道の影響の下に密教の考え方を踏まえて唱えられた仏教主体の神道説で、具体的には、内宮でお祀りされている天照大御神胎蔵界大日如来で、一方外宮でお祀りされている豊受大神金剛界大日如来であり、その両方が合体して大日如来の顕現たる伊勢神宮を形成している、と説きました。

その両部神道の一派「雲神神道」(うんでんしんとう)は、仏教側から説かれた神道でありながら、神主仏従的な「反本地垂迹説」を唱え、母体である両部神道を批判しているという、かなり際立った特徴を持つ神道です。今日の記事の最後に、この雲伝神道についても簡単に触れさせて頂きます。

「雲神神道」は、江戸時代後期の真言宗の学僧で能書家の慈雲尊者(じうんそんじゃ)が創唱したもので、奈良の葛城山麓で発祥した事から「葛城神道」と称される事もあります。慈雲は、和・漢・梵の学に通じ、多くの著作を著し、その書も芸術的に高く評価されている事から、周囲からは「今釈迦」と呼ばれる程の持戒堅固な高僧で、神道についても造詣が深く相当な理解も持っていたとされています。

慈雲が晩年に唱えた「雲神神道」は、両部神道の系譜の中にありながら、従来の両部神道を批判し、特に、伊勢の内宮・外宮を金剛界胎蔵界の両部に配する神仏習合神道説を批判している所に大きな特徴があります。その代わり、慈雲は密教の玄旨が神道の幽旨に合致する所があるから、両部の密教の理を以って神を祀り法楽する所に意義がある、と解釈しました。

その教えの特色は、日本は世界の中心、万国の宗国であって、「万国道を立てる者、我神国より分付せる枝葉なり」と謳い、更に「神道は一箇の赤心」として、神道の教えの根本を赤心(嘘偽りのないありのままの心)に見出した点にあります。その教えは「古事記」「日本書紀」に基づき、しかも「古事記」が主で「日本書紀」がそれに続く神典であるとするなど、本居宣長の考え方にかなり共通している点もありました。そういった意味では、「雲神神道」は、その後登場する国学系の復古神道教派神道に先行する神道ともいえ、登場するのが「早すぎた」古神道ともいえます。

また「雲神神道」は、仏主神従の態度を非とする時代風潮の中で、仏教内部から反省的に出てきた神主仏従の神道説であったとも云われています。



===== 追 記 =====

以下の関連記事も御参照下さい。いずれも、この記事をアップして以降に、このブログ「西野神社 社務日誌」にアップした記事です。

▼平成20年9月27日 「関西で神仏霊場発足」
https://nisinojinnjya.hatenablog.com/entry/20080927

▼平成20年11月19日 「神仏霊場会趣意」
https://nisinojinnjya.hatenablog.com/entry/20081119

▼平成21年3月12日 「春を告げる奈良の風物詩、お水取り」
https://nisinojinnjya.hatenablog.com/entry/20090312

▼平成25年12月6日 「昨今の神仏習合の動きに対して私が思うこと」
https://nisinojinnjya.hatenablog.com/entry/20131206

▼令和4年4月14日 「神仏習合の聖地『丹生都比売神社』と『高野山』を参拝してきました」
https://nisinojinnjya.hatenablog.com/entry/2022/04/14/063000


(田頭)