西野神社 社務日誌

札幌市西区の西野・平和・福井の三地区の鎮守(氏神様)であり、縁結び・安産・勝運上昇等の御神徳でも知られる西野神社の、公式ブログです。

西野神社の創建

西野神社創建当時の想像図

上のイラストは、西野神社の創建当時の様子を想像して描かれた絵で、この絵は一昨年刊行された「西野神社創始百二十年記念誌」(P.83)に掲載されている他、当社参集殿広間の壁にも額縁に入って掲げられています。この絵をもとに、今日は当社創建当時の様子について、簡単に解説をさせて頂きます。

当社の氏子地域である西野・平和・福井は、現在でこそ住宅地として拓け発展しておりますが、明治時代初頭は、密林・柏原・茅原が只管広がる、全く未開の土地でした。この未開の地を開拓するために本州から入植し、風雨や豪雪、酷寒に晒され、時には野獣の脅威に脅えながらも、悪条件の自然環境と日々戦って開墾開地を推し進めた先人達の労苦を思うと、只々頭が下がります。その困難や苦労、強靭な意志と勇猛心、果敢な努力は、私達の想像を遥かに超えたものだったでしょう。

西野一帯の開拓は、明治4年、新潟県人の森三吉、平野平八郎の諸氏をはじめとする5戸が、現在の西野二股付近に移住開墾したのが始まりと云われており、本格的な開拓は、明治18年に広島県人の前鼻村七、竹本芳平、山田伝兵衛、理寛寺栄蔵、山末芳平、坪木平造の諸氏6戸18人が現在の西野第二地区付近に入植したのが始まりと云われています。

明治18年に西野に入植した彼らはすぐに、平和の一隅を聖地と定め、開拓地の鎮守として、開拓の守護神として、また心の拠り所として、豊玉姫命、鵜草葺不合命譽田別命の三柱の神様をお祀りする小祠を建立しました。この小祠建立が、西野神社の創建(発祥)とされています。

北海道開拓のため道内各地に入植した開拓者達は、自分達の故郷の神社に想いを馳せ、心の拠り所とすべく、切株の上に神棚を安置したり、あるいは祭神名を墨書した棒杭を依り代にするなどして、非常に簡易・質素な形態ではあったもののそれを自分達の神社と見立てました。こういった簡素な神社(小祠)は、その実態から俗に“切株神社”とか“棒杭神社”などと称されたそうですが、現在道内に鎮座する神社の多くの原初形態は、元を糺せばこのような“切株神社”や“棒杭神社”である事が多く、このように開拓者達の信仰心により自然発生的にお祀りされるようになった小祠が、地域の鎮守、産土神として篤い信仰心を集めるようになる事でやがて鳥居が立てられたり、境内が整備されていったり、社殿が増改築されるなどして、現在の形の神社になっていったのです。これは他県ではあまり見られない、北海道特有の神社の成り立ちといえます。

そして、明治18年創建当時の西野神社も、恐らくは“切株神社”もしくはそれに類する佇まいの神社であったと推測されます。今日の記事の冒頭に貼付したイラストは、その想像図なのです(当時の記録が残っていないので詳しい事は殆ど分からず、これはあくまでも想像に過ぎませんが)。この“切株神社”が、創建から百二十数年の後には下の写真のように変わっている訳ですから、上のイラストと下の写真を見比べると、その発展振りには驚嘆せざるを得ません。

現在の西野神社

しかし、“切株神社”もしくはそれに類する佇まいの神社から西野神社のように発展していった神社も多くある反面、逆に、過疎化によりお祀りする人がいなくなってしまい、そのまま寂びれて廃祀されたり、近隣の神社に合祀(統合)されてしまった神社も、また多くあるのです。それを思うと、現在の西野神社があるのは、御祭神の御神徳が常に発揚され続けていた事に加え、神社を支えて下さった多くの方々の篤い信仰心と熱意の賜物によるものといえます。


(田頭)