西野神社 社務日誌

札幌市西区の西野・平和・福井の三地区の鎮守(氏神様)であり、縁結び・安産・勝運上昇等の御神徳でも知られる西野神社の、公式ブログです。

「ハレ」と「ケ」と「ケガレ」

今日は、「ハレ」「ケ」「ケガレ」という概念についてお話させて頂きます(但しここでいう「ケガレ」とは、あくまでも民俗学でいうケガレの事であり、神道でいう「穢れ」とはニュアンスが異なります)。

本来であればこういった話題は、神社のブログよりも、民俗学もしくは文化人類学を扱っているブログで語られるべき事項だと思うのですが、しかし、「ハレ」「ケ」「ケガレ」というこの三つの概念は、神道やその信仰にも間接的、時には直接的に深く関わってくる事もあり、私達のように神道に関わる者にとっては、やはり前提知識として知っておかなくてはならない概念といえます。

まず、「ハレ」と「ケ」についてですが、「ハレ」と「ケ」は共に、日本を代表する民俗学者柳田國男(明治8年〜昭和37年)によって唱えられた、日本人の生活リズムを表現した言葉で、漢字で書く場合ハレには「晴」、ケには「褻」の字が当てられます。

柳田は、かつての日本人の生活にはハレとケの二つの時期があり、両者ははっきりと区別されていた、と主張しました。「ハレ」とは、神社の祭礼や寺院の法会、正月・節句お盆といった年中行事、初宮参り七五三・冠婚葬祭といった人生儀礼など、非日常的な行事が行われる時間や空間を指し、そしてハレ以外の日常生活(普段の労働や休息の時間・空間)が「ケ」であるとして、両者の違いを明確にし、このハレとケとの循環リズムから日本の生活文化が分析できると唱えました。

非日常であるハレの日は、単調になりがちな生活に変化とケジメをつける日でもあり、この日には人々の衣食住に大きな変化が表れ、例えば特別な日にのみ着用される「晴れ着」を着たり、家や部屋には普段とは違う装飾を施したり、酒・米・魚・餅・団子・赤飯・肉・寿司といった普段の生活では口にする事のない食物が供せられるなどし、非日常的な世界が設定されました。中でも、ハレの場における酒は、味を楽しむためというよりも、酔う事によって異常心理を経験し、共同体を構成する人々が集団で共に酔って連帯感を深める事が目的であったと柳田は述べています。また、今でも使われる「晴れ着」「晴れ姿」「晴れ舞台」などの言葉は、いずれもハレの概念に基くものです。

一方、ケの時空とは、普段の生活そのものを指し、朝起きて食事をして昼間は働いて夜になったら休眠する、という日常の状態の事であり、ケは、普段着を意味する「褻着」(けぎ)や日常食を意味する「褻稲」(けしね)などの民俗語彙から抽出された概念といわれています。

柳田は、このハレとケの循環の中に稲作を基礎とする民族生活があった事を指摘しながら、近代化と共にその両者の区別が曖昧になってきている事を指摘しました。事実、江戸時代後半以降は普段でも酒が飲まれるようになり、魚食や肉食も日常化し、人々の服装も色鮮やかになっていくなど、ハレの日常化は着実に進んでいました。

このように、柳田はハレとケという二つの生活リズムによって民俗生活のリズムを強調しましたが、この二つに加えて新たに「ケガレ」という三つ目の概念が、昭和45年以降に唱えられるようになりました。柳田は主にハレを中心として民俗生活を捉え、ケは単にハレに対立するもの、ハレ以外の日常生活と位置付けましたが、これに対して文化人類学者の波平恵美子氏は、ハレとケのいずれとも対立する「ケガレ」という概念を加えて民俗生活を捉えたのです。

「穢れ」(けがれ)という概念が不浄を意味する語として用いられている事例としては、『古事記』の中で、黄泉の国(死者の国)を訪問した伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が死の穢れに触れてしまった、というエピソードにまで遡る事ができますが、波平氏は、古来から語られてきたその「穢れ」を「ケガレ」とカタカナで表記して民俗学の分析概念として用いる考え方を提示したのです。

平氏によると、ハレは清浄性・神聖性、ケは日常性・世俗性、そしてケガレは不浄性をそれぞれ示す概念であり、日本の民間信仰のバリエーションは、このハレ・ケ・ケガレの相互の関係の差異によって生じるものであり、この三者がどのように絡み合っているかが重要な問題であるとしました。

しかし、それに対して柳田門下の民俗学者・桜井徳太郎氏は、ハレとケの媒介項としてケガレを設定し、ケガレは稲の霊力であるケが枯れた状態、つまり「ケ枯れ=ケガレ」であり、そのケガレを回復するのがハレの神祭りであると唱えました。つまり、波平氏が「ハレ⇔ケ⇔ケガレ⇔ハレ」と相互間が対立概念であると主張したのに対し、桜井氏は「ハレ⇒ケ⇒ケガレ⇒ハレ」という循環論を唱えたのです。

また、民俗学者の新谷尚紀氏は、ケガレとは究極的には死とその力であると規定し、ケガレが祓われた時、ケガレの逆転現象が起こって神々や生命が誕生すると唱えており、このように、研究者間のハレ・ケ・ケガレの議論の隔たりは現在も解消されておらず、統一的な定義は打ち出せていないのが現状です。

ハレ・ケ・ケガレに関する代表的な論争としては、葬式はハレなのかケガレなのか、という論争があります。一般的な社会通念でいえば、葬式は不幸事であるため、初宮参り、七五三、結婚式などのお祝い事とは区別するのが当然であり、波平氏はこの立場に立って葬式はケガレであると規定しているのですが、しかし、桜井氏をはじめとする民俗学者の多くは、葬式に赤飯を炊くという民俗事例や晴れ着を着て喪に服するという民俗事例などを挙げて、葬式もハレであると主張しています。今の所はどちらの論も、なぜ葬式がケガレであるのか、あるいはハレであるのか、十分説明しきれていないため答は出ておらず、この論争はまだ暫く続きそうです。

もっとも、これはあくまでも民俗学での話であり、神道の立場では、死やそれに直接的に関わる儀礼は明確に「穢れ」と捉えています。但し神道でいう死の「穢れ」とは、死に至る病気や事故、その苦しみや、遺された人達が悲しみ嘆く状態の事を、気が枯れた状態=気枯れ=ケガレと解釈しているのであり、死そのものが穢れであるとか、死んだら穢れた存在になるとか、そういった意味ではありません。

(田頭)

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