西野神社 社務日誌

札幌市西区の西野・平和・福井の三地区の鎮守(氏神様)であり、縁結び・安産・勝運上昇等の御神徳でも知られる西野神社の、公式ブログです。

三社託宣

【 注 意 】 この記事で紹介させて頂いた「三社託宣」について、道外など遠方の方から電話等でお問い合わせを戴く事が年に数回はあります。恐らく、三社託宣についてネットで検索するとこの記事がヒットするためと思われますが、私は浅学非才・不勉強のため、残念ながら三社託宣についてはこの記事で述べている事以上の事は分かりません。申し訳ありませんが、質問される方の御期待に沿う回答は出来ませんので、三社託宣について当社への電話等での直接の質問は御遠慮下さい。


日本を代表する絶景やお祭りなどを三つ挙げる言葉として、所謂「三大風物」があります。例えば、日本三景(松島、天橋立、宮島)、日本三名山(富士山、立山、白山)、日本三名泉(有馬温泉下呂温泉草津温泉)、日本三名園偕楽園兼六園、後楽園)、日本三大門(東大寺南大門、法隆寺南大門、東照宮陽明門)、日本三大祭り(神田祭祇園祭天神祭)、日本三大七夕祭り(仙台七夕、平塚七夕、安城七夕)、書道三聖(空海小野道風菅原道真)、茶道三宗匠千利休古田織部小堀遠州)などです。(これ以外にもまだ沢山あります。)

この「三大風物」の中には、特に代表的な神社を指す「三社」というものがあり、その場合の三社とは、具体的には伊勢の神宮石清水八幡宮春日大社の三社を指します。しかし、伊勢の神宮が「三社」の中に含まれているのは恐らく誰もが納得すると思いますが、石清水八幡宮春日大社については、疑問に思う方もいるかもしれません。というのも、両社とも確かに日本を代表する著名な神社ではありますが、しかしそれを言うのであれば、日本を代表する著名な神社は、出雲大社熱田神宮など、他にも全国に多数あるからです。では、なぜ石清水八幡宮春日大社の二社が、伊勢の神宮と共に「三社」に含まれているのかというと、この「三社」というのは、「三社託宣」(さんしゃたくせん)の三社に基づいているからなのです。

三社託宣とは、中世から近世にかけて流布した、天照皇大神八幡大菩薩八幡大神)、春日大明神の三神の託宣(神の意思やお告げ)の事をいい、広い意味では、この三神の神号や託宣を記した掛物なども指すのですが、この三社託宣の神がそれぞれ伊勢の神宮石清水八幡宮春日大社の御祭神である事から、こられのお宮も特に「三社」として篤く崇敬されたのです。ちなみに、全国の八幡宮総本宮宇佐神宮大分県)ですが、この「三社」の八幡神宇佐神宮ではなく一般に石清水八幡宮と解されているのは、都から遠い九州の宇佐よりも、都の南西(裏鬼門)に位置する石清水の方が、中央と密接な繋がりを持っていたという事情によるものと思われます。

三社託宣は、天照皇大神を中央に、向かって右に八幡大菩薩、向かって左に春日大明神の神号とそれぞれの託宣文を配した形をとる事が多く、大抵は掛軸で、三神の神号と図像だけのもの(下の左側の掛軸)、三神の神号と託宣文が記されたもの(下の右側の掛軸)、三神の神号・図像・託宣文の全てが掲げられているものなどがあります。現在ではそのような光景を見る事はほとんどなくなってしまいましたが、かつては、三社託宣の掛軸は民家の床の間に捧げられ、全国的に広く信仰の対象とされていました。

三社託宣 三社託宣

託宣文にはいくつかのバリエーションがあるようですが、その内容は大同小異で、天照皇大神は「正直」、八幡大菩薩は「清浄」、春日大明神は「慈悲」の重要さをそれぞれ託宣している内容となっています。つまり三社託宣とは、正直・清浄・慈悲という、人が正しく生きるための三つの教えを説いた託宣、といえます。以下に緑字で記した文章は、三社託宣の中でも特に代表的とされる託宣文(漢文)を書き下したものと、その現代語訳です。

【天照皇大神の神託】 謀計は眼前の利潤たりと雖(いえど)も、必ず神明の罰に当る、正直は一旦の依怙(えこ)に非ずと雖も、終(つひ)には日月の憐れみを蒙る
現代語訳: 謀(はかりごと)を巡らす者は、仮に目先の利益を得られたとしても、後々必ず神が罰を下し、正直者は、一時のひいきは無いとはいえ、最後には天地の神々の恵みを賜るであろう

【八幡大菩薩の神託】 鉄丸(てつがん)を食すと雖も、心汚れたる人の物を受けず、銅焔(どうえん)に座すと雖も、心穢れたる人の処に到らず
現代語訳: 例え、鉄の玉を口にする事があろうとも、神は心汚れた人の献上物を決して受ける事は無いし、例え、真っ赤に溶けた銅に座る事があろうとも、神や邪(よこしま)な人の所には決して行かない

【春日大明神の神託】 千日の注連(しめ)を曳くと雖も、邪見の家には到らず、重服深厚たりと雖も、慈悲の室(いえ)に赴(おもむく)くべし
現代語訳: 仮に千日の清めの注連を引いて内外を清らかにしても、邪心のある者の所には神は行かないが、仮に喪が重なるような人であっても、慈悲ある者の家には神は行くであろう

三社託宣の起源としては、正応年間(1288〜93年)、東大寺東南院の聖珍親王伏見天皇の皇子)の時代に、庭前の池の水に三社の託宣の文字が顕れたとする説が代表的ですが、これ以外にも諸説があって定かではありません。鎌倉時代以降に、両部神道真言密教の立場から説かれた神仏習合思想)との関係から奈良や醍醐寺系の僧侶が三社託宣の製作に関与していたのではないか、ともいわれています。

九条兼実の日記『玉葉』に、「伊勢大神宮・正八幡宮・春日大明神、定めて神慮の御計あらんか」という記述がある事からも、鎌倉時代の初めにはこの三社は既にセットとして捉えられていたようですが、三社託宣が明確な形で成立するのはもっと時代が下った室町時代の中期以降で、吉田神道唯一神道)を提唱した吉田兼倶が、三社託宣を吉田神道に積極的に導入した事により、三社託宣は公家から武家へと波及し、漢文体の託宣を解説する託宣和歌なども作られるようになり、それにより一般庶民へも広がっていきました。

後醍醐天皇
しかし、考証家の間では託宣の信憑性は昔から疑われていたようで、当時から、「三社託宣は、吉田兼倶が自家の利益のために偽作したものである」と断じる考証家までいたようです。しかし例え偽作であったとしても、託宣の内容は極めて道徳的であり、庶民道徳の有効な教化手段にもなっていたため、三社託宣への信仰は近世を通じて衰える事はなく、全国的に深く浸透していきました。

鎌倉幕府を滅ぼし建武の新政建武中興)を興した後醍醐天皇肖像画として有名な左の画像にも、帝の上方には「天照皇大神」「八幡大菩薩」「春日大明神」の三社託宣が掲げられています。後醍醐天皇は自ら修法を行なう程、仏教(特に密教)に傾倒しており、そのため、この肖像画の中でも帝は、袍(ほう)の上に袈裟を着け、右手に五鈷杵(ごこしょ)、左手に五鈷鈴というという密教の法具をそれぞれ持ち、八葉蓮華形の敷物を敷いて、暈繝縁(うんげんべり)の畳を置いた礼盤の上にお座りになっている、という類例のない奇抜な形式で描かれており、一般にはその点にばかり注目されがちなのですが、この肖像画には三社の神号が掲げられているという点も、見逃す事はできません。

もっとも、この肖像画に掲げられている三社託宣は、神号を書いた紙を貼り付けたものなので、当初からこの形であったのかどうかは分かりませんが。

(田頭)

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