西野神社 社務日誌

札幌市西区の西野・平和・福井の三地区の鎮守(氏神様)であり、縁結び・安産・勝運上昇等の御神徳でも知られる西野神社の、公式ブログです。

実は「西野」ではなく「平和」にある西野神社

当社の鎮座地は、札幌市西区平和1条3丁目1番地です。と説明すると、大抵の人は当然の疑問として「あれ、西野神社のある場所って西野じゃないの?」と思うようです。西野神社は、西野・平和・福井の三地区の氏神(鎮守)ですが、実は神社が鎮座している場所(地名)は、西野ではなく平和なのです。なぜ西野神社は、社名になっている西野ではなく、平和に鎮座しているのか、今日はその辺の事情についての考察をしてみたいと思います。

ちなみに、下に示した地図は当社周辺の地図で(地図をクリックすると見やすい大きさに拡大されます)、この地図の中で東西に流れている川は琴似発寒川というのですが、現在の西野と平和はこの川を境としており、この地図ではこの川の北側が西野、南側が平和になります。

西野神社 周辺地図

そもそも、「西野」はなぜ西野と言うのでしょうか。例えば福井は、福井県丹生(にう)郡から入植した人達によって開拓されたため、先人達の故郷に因んで福井と名付けられたのですが、西野の場合は、先人達の故郷の地名とは全く関係ありません。昭和59年に発行された昭和町内会誌によると、西野は、本府(現在の北海道庁)から西に位置する平坦な土地、という意味から「西野」と名付けられたそうです。もっとも、西野は発寒扇状地の上流部に位置するため、奥地の方は平地ではなく勾配が強くなっていますが。

西野という名が正式に地名になったのは明治19年で、中の川、広島、右股、左股を含めた区域が西野とされました。これは、手稲山や百松沢山を含む、琴似発寒川の流域52.25平方kmの面積で、現在の西野よりもずっと広く、当時の札幌市域の面積14.6平方kmの3.5倍に相当する広大な広さを誇りました。そして、当時の西野の中心地は、現在の西野神社の辺りだったそうです。つまり、西野地区は西野神社とその周辺を中心に発展していったのです。

ちなみに、上手稲村・下手稲村・山口村の三村が合併して手稲村が発足した明治35年から、その手稲村が札幌市と合併した昭和42年までの間、西野はずっと手稲村の一部で、明治35年の手稲村発足当時の西野の正式な地名は「北海道石狩国札幌郡手稲村大字上手稲村字西野」でした。

その後、戦時中の昭和17年に字名改正によって大字が廃止され、これを契機に右股は「平和」、左股は「福井」という名でそれぞれ西野から分離し、西野は手稲山麓と琴似発寒川に挟まれる区域(15.18平方km)に狭くなりました。そして、昭和47年、札幌市は政令指定都市に指定され、区制を施行し、これにより西野は「札幌市西区手稲西野」となり、昭和51年には西野にも条丁目が導入され、このような変遷を経て西野は現在のように「札幌市西区西野○条○丁目」となりました。

つまり、西野神社は元々は西野にあり、しかも当時は西野の中心地だったのですが、その後西野から平和と福井が分離し、西野神社の鎮座していた場所は平和に含まれていたため、結果的に西野神社は、住所の上では西野ではなく平和になったのです。神社が西野から平和へと移動した訳ではなく、神社の鎮座していた土地の地名が西野から平和に変わったという事です。

ところで、西野神社でお祀りしている三柱の御祭神(豊玉姫命、鵜草葺不合命譽田別命)は、明治18年に、西野・平和・福井の各地区でお祀りされていた神様を合祀したものなのですが、合祀以前は、豊玉姫命広島県山口県の人達が入植した西野地区で、鵜草葺不合命は福井県の人達が入植した福井地区で、譽田別命は山口県の人達が入植した平和地区で、それぞれ“心の拠り所”としてお祀りされており、更に遡ると、それらの神様はいずれも、入植した人達がその御神体を故郷から抱いて渡道したと云われています。

ちなみに、西野の開拓は、明治4年に越後(新潟県)の人達(5戸)が西野の入口ベッカウスに移住したのが始まりとされていますが、これらの人達はその後ここには永住しなかったため、西野で本格的な開拓が始まったのは、明治17年頃に広島県山口県の人達が入植してからになります。

(田頭)

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