西野神社 社務日誌

札幌市西区の西野・平和・福井の三地区の鎮守(氏神様)であり、縁結び・安産・勝運上昇等の御神徳でも知られる西野神社の、公式ブログです。

4年3組の皆さんからの質問

先月中頃、当社氏子区域内某小学校4年3組の皆さんから、担任の先生を通じて、郷土の歴史や神社についての質問のお手紙をいただきました。今回は私がそれらの質問に対して回答させて頂く事になり、後日、私がまとめた回答をその小学校の4年3組宛てに郵送させて頂きました。以下に、それらの質問と回答を転載させて頂きます(転載するにあたり質問の文章中の誤字は訂正させて頂きました)。但し、当社には明治時代の記録がほとんど残っていないため、明快には回答できず、一部には推測で答えさせて頂いた回答もあります。

また、以下の回答は当然小学生が読む事を想定しているため、専門用語等の難解な言い回しはなるべく避けましたが、ただ、「あまり一般的な言い方ではなくても、やはり神職としてここはこう書くべき。ここは譲れない」と私が思った箇所は、この書き方は小学4年生には難しいかなと思っても、あえてそのまま書いた箇所もあります。そういった箇所には、「意味が分からなかったら大人に訊くか、自分で調べてね!」という私の思いが込められています(笑)。

なお、原文では具体的な個人名を書いた箇所は、諸般の事情により以下の回答ではアルファベット(Kさん)に置き換えさせて頂きました。


【今でも西野米は作られているのですか】

平和に住んでいるKさんという方が今でもお米を栽培しており、その稲穂は毎年11月の「勤労感謝の日」に西野神社にも納められています。ただ、このお米は「西野米」というブランドで作られているわけではなく、西野一帯では他にお米を栽培している方もいらっしゃらないようなので、残念ながら「西野米」という名前のお米は、もう存在しないようです。

ちなみに、なぜ「勤労感謝の日」に毎年神社に稲穂が奉納されるのかというと、その日神社では「新嘗祭」(にいなめさい)という、農作物の収穫を神様に感謝するお祭りが行われるからです。神社に納められた稲穂は、「神様のおかげで今年も農作物を無事に収穫することができました」という奉告と感謝の気持ちとして、新嘗祭で神様にお供えされるのです。新嘗祭の起源は稲作開始の弥生時代にまでさかのぼることができ、古代では、新嘗祭は国の重要な行事として執り行われてきました。

奉納された稲穂

上の左の写真は、毎年Kさんから奉納されている稲穂です。


【どこで作っているのですか】

Kさんの田んぼは、平和の滝の近くにあります。


【西野神社は誰が造ったのですか】

西野神社は、今から125年前の明治18年、開拓のため本州から北海道へと渡って来た人達により造られました。

当時の記録がないため、具体的に誰が神社を造ったと特定する事はできませんが、明治17年に現在の平和地区に山口県から数家族が、翌18年に現在の西野地区に広島県から数家族がそれぞれ入植し、その人達によって西野一帯の本格的な開拓が始まったと言われているので、恐らくはこのうちの誰かによって神社も造られたのではないかと推測されます。


【どれだけ造るのに時間がかかったのですか】

北海道開拓のため本州から北海道に渡って来た人達は、北海道での辛く厳しい開拓生活に耐えるため、自分達の故郷の象徴であった神社を懐かしがり、心の拠り所を必要とし、自分達の神社を造りたいと考えるようになりました。しかし、本格的で立派な神社を造ることは容易にはできないため、切株の上に神棚を置いたり、神様の名前を記した木の板や棒などを立てる事で、非常に簡素ながらもそれを神社に見立ててお参りしたのです。

西野神社に限らず、現在北海道にある神社の多くは、元をただせばこういった簡素な形態の神社であることが多く、西野神社もそういった神社が発展して、現在の大きさ・形になっていったようです。ですから、西野神社は125年という長い年月をかけ(その間に何回も建て替えられました)、地域の皆さん方に支えられ続けて、現在の状態になったといえます。

ちなみに、明治18年に造られた元の簡素な神社については、その規模にもよりますが、恐らく数日程度で造られたのではないかと推測されます。昭和57年に建てられた現在の神社の建物(社殿や社務所など)についていえば、その工期は約1年でした。

西野神社創建当時の想像図

上の写真は、西野神社が創建された当時の様子を想像して描かれたイラストです。当時の西野神社が実際にどのような大きさ、形であったのかは不明ですが、恐らくはこの想像図に近い状態であったのではないかと思われます。

西野神社 拝殿

そして、上の写真は現在の西野神社の社殿です。西野神社は125年という長い年月を経て、社殿もこのように変わっていったのです。


【何人で造ったのですか】

記録がないので特定することはできません。ただ、直接神社の建設に携った大工さんは限られた人数だったと思いますが、神社としては、いつも神社を支えて下さる地域の皆さん方全員の思いによって神社が造られたと考えております。


後日、4年3組の子供達から「ぶじに発表を終えることができました。クイズの問題はいただいたしりょうから作ることができました。本当にありがとうございました」というお礼の手紙をいただきました。どうやら、授業の中で郷土の歴史についてのクイズを作るという課題があったらしく、その問題作りのために神社に質問をしてきたみたいです。


(田頭)

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