西野神社 社務日誌

札幌市西区の西野・平和・福井の三地区の鎮守(氏神様)であり、縁結び・安産・勝運上昇等の御神徳でも知られる西野神社の、公式ブログです。

西野神社が執行する神葬祭

鈍色の布衣

平成18年1月18日付の記事では、当社が執行する神葬祭の具体的な内容について解説をさせて頂きましたが、あの記事をアップしてからもう4年以上が経っているため、今改めて読み返してみると、内容を修正したり補足したりすべき点が少なくありません。そこで今回は、当社が執行する神葬祭の内容やそれに付随する事柄等について、改めて詳しく解説をさせて頂こうと思います。平成18年1月18日付の記事の改訂版としてお読み下さい。

そもそも「神葬祭」(しんそうさい)とは何か、と言うと、一言で言うと、神道の信仰や伝統に基づいて齋行される葬儀の事で、仏式の葬儀は僧侶が執り行い読経などされるのに対して、神式の葬儀は神職(神主)が執り行い祭詞(さいし)が奏上されるなどします。日本で最も広く普及している葬儀は、皆様御存知のように仏式の葬儀で、恐らく葬儀全体の9割程度を仏式が占めていると思われ、残りの1割程度の葬儀が、神式、キリスト教式、その他の宗教により執り行われています。

但し、近年は神式で執り行われる葬儀、つまり神葬祭が、僅かにではありますが増えつつあります。最近は家の宗旨や信仰上からの理由ではなく、神式のほうが仏式の葬儀よりも費用が安い、戒名料がいらない、お布施の額によって死後の名前を左右されないのが良い、等の理由から神葬祭を希望する方が増えてきているのです。道外であれば、家の宗旨に従った形以外での葬儀はまずあり得ませんが、北海道は宗教的には大変“大らかな土壌”であるため、家の宗旨に縛られず、故人の遺志もしくは遺族の希望により、神式の葬儀を選択される方もいるのです。


◆神葬祭の流れ

一口に神葬祭といっても、その内容や式次第は各地域によってかなり異なっており、同一都道府県内や同一市町村内に於いてさえも、執行する神社によってかなり差異のある事が少なくありません。神葬祭については全国的な統一基準が存在せず、その地域の伝統・慣習や、その神社(の宮司)が抱く他界観・霊魂感などに基づき執行されているのが現状なのです。特に北海道は、近代になってから全国各地より入植した人々により開拓された歴史を持つため、全国各地の様々な慣習が雑多に混じり合っており、神葬祭も実に多様性に富んだものとなっています。

札幌市内の神社が斎行する神葬祭は、一般に、「帰幽奉告・枕直し」→「通夜祭(もしくは前夜祭)」→「葬場祭・発柩祭」→「火葬祭(これは省略される事も多いです)」→「帰家祭」という流れで執り行われる事が多く、「神葬祭」という言葉は、これら一連の儀式の総称として使われています。そして、この流れに従って葬儀が斎行された場合、「帰幽奉告」から「帰家祭」に至るまで、大抵は3日間かかります。但し、「枕直し」と「通夜祭」の間が1日空き、その日に「仮通夜祭」(通夜祭が「前夜祭」という名の場合は仮通夜祭は「前々夜祭」と称されます)が行われるケースもあり、その場合、葬儀は4日間に亘って執り行われる事になります。

何人の神職が奉仕するかは喪主や御遺族の希望に合わせて決まるため、その時の葬儀によって異なるのですが、当社が受ける葬儀の場合は1人もしくは2人奉仕で執り行う事が多く、私が奉仕する時は大抵2人奉仕(稀に3人奉仕の時もあります)であるため、以下、斎主・祭員の2人奉仕による場合を例にして、当社が執り行う神葬祭の流れを紹介させて頂きます。

《1》 帰幽奉告・枕直し

忌中の神棚
「帰幽奉告」(きゆうほうこく)とは、喪家(故人宅)の神棚に帰幽(当人が亡くなった事)を奉告する儀式で、一般には、神葬祭はこの「帰幽奉告」から始まります。本来は、御遺族の代参者が氏神神社もしくは産土神社を直接訪ね、その神社の大前で神様に帰幽を奉告するのが本義ですが、実際には、喪家の神棚にお祀りされている神様に対して御遺族に代わって神職が帰幽を奉告するという形に代えて行われる事が多く、「帰幽奉告」の後は、左の写真のように、「忌」の期間が終わるまで神棚の宮型前面に白い紙を張ります。「枕直し」(まくらなおし)とは、御遺体に白木綿の小袖を着せ、守り刀の刃を遺体と逆方向に向けて枕元に置き、故人の安らかな眠りを祈る儀式です。

「帰幽奉告」と「枕直し」は、趣旨も拝礼対象も異なる別々の儀式ですが、当社が神葬祭を執行する場合は、この両儀式神職が故人宅に赴いた際に同時に行っており、具体的には、まず喪家の神棚に鎮まっておられる神様に対して帰幽を奉告してから、御遺体に対して「枕直し」の祭詞を奏上します。但し、最近は喪家に神棚が無いという場合もたまにあり、その時は、喪家から神社の神様を遥拝する形で「帰幽奉告」を行ないます。

なお、神職が2人で奉仕する神葬祭の場合でも、当社の場合、「帰幽奉告」と「枕直し」は1人(2人奉仕する場合は齋主を奉仕する神職)のみが奉仕し、祭員は赴きません。この時の神職の装束は、鈍色(にびいろ)という、灰色に近い葬儀専用色の格衣(かくえ)ですが、装束については別項で後述させて頂きます。

ただ、神社によっては「帰幽奉告」や「枕直し」には神職は一切奉仕しないという所も多くあり、実際、全国的にみると、近年は「枕直し」は遺族や近親者だけで行い、神職は「通夜祭」から奉仕するという事例も多いようです。ちなみに、「枕直し」が終わり、「通夜祭」が斎行される葬儀場へと行く直前、御遺体は「湯灌の儀」を経て故人宅で棺に納められるのですが、神社によってはこの時、神職が「納棺祭」を執り行う所もあります。但し、当社を含め札幌の神社が執り行う神葬祭では、納棺の際に神職が立ち会う事はほとんどないようです。

《2》 通夜祭

「通夜祭」(但し北海道の神社では前夜祭と称している事も多いです)は、故人の御霊(みたま)を慰めるため「葬場祭」の前夜に執り行われる儀式で、その名から分かるように、仏式の葬儀でいう“お通夜”に相当します。当社が執り行う「通夜祭」の具体的な次第は以下の通りです。

『修祓(祭員) → 喪主一拝 → 対揖(喪主・斎主) → 遷霊詞奏上(斎主) → 遷霊の儀(この間消灯) → 献饌(祭員) → 饗饌(喪主) → 霊魂安定詞奏上(祭員) → 通夜祭詞奏上(斎主) → 喪主参列者玉串拝礼 → 斎主祭員玉串拝礼 → 撤饌(祭員) → 対揖(斎主・喪主) → 喪主一拝』

当社の場合、前項の《1》で述べたように、何人奉仕であろうとも「帰幽奉告」と「枕直し」は常に神職が1人だけで奉仕しますが、2人奉仕で葬儀を請けた場合、「通夜祭」からは2人での奉仕となり(3人奉仕の場合は「通夜祭」から3人での奉仕となります)、鈍色の衣冠(いかん)を着装した斎主と、鈍色の布衣(ほい)を着装した祭員とが奉仕させて頂きます。なお、現在はこの「通夜祭」が事実上公式な“夜のお葬式”になっていて、翌日の「葬場祭」と合わせて葬式を2度行うかのように感じになっており、「通夜祭」本来の機能や意味は変質してきています。参列者の人数も、本来の意味での“お葬式”の「葬場祭」よりも、「通夜祭」の方が多いのが実情です。

神葬祭の祭壇

上の写真は、当社が執行したある通夜祭で撮影された祭壇の写真です。柩を安置する位置は、本来は祭壇の一番奥が望ましいのですが、札幌の神葬祭では大抵、この写真のように祭壇の手前側(饌案のすぐ後)に柩が安置されます。これは主に、そのほうが発柩の際に柩を出しやすい、という葬儀会社側の都合による事情で、神社側がそのような安置の仕方を推奨している訳ではありません。

ところで、地域によっては通夜祭を終えた後、少し間を空けてから「遷霊(せんれい)の儀」(遷霊祭と称される事もあります)を行う所もあるようですが、当社の場合、御遺体に留まっておられる故人の御霊を霊璽(れいじ)へとお遷しする「遷霊の儀」は、前出の次第(紫色の文字)中に示したように、「通夜祭」の中で行っています。「遷霊の儀」が執り行われる時は斎場の照明を一斉に落とすのですが、その暗闇の中、祭員の警蹕(「オー」という低い声)と、遷霊の清らかな鈴の音(神社によっては鈴ではなく火打石や笏拍子、その他の道具を使う事もあります)だけが響き渡る「遷霊の儀」は厳粛を極め、この独特の雰囲気は仏式やキリスト教式の葬儀には無い、神葬祭の大きな特徴の一つとなっています。

霊璽

霊璽

上の写真が霊璽の現物見本(この写真の霊璽は勿論未使用のものです)で、霊璽は、厳密に言えば違うのですが分かりやすく例えるなら、仏式の葬儀でいう位牌に相当します。上の写真では、鞘(覆い)を被せた状態と外した状態の2体(高さはどちらも約20cm)がそれぞれ並んでいますが、これは、タイプ(装飾)の異なる霊璽を比較するために2体並べて撮ったもので、実際の葬儀で使う霊璽はあくまでも1体だけです。この写真のように霊璽を2体並べて使う訳ではありません(実は地域によっては2体の霊璽を同時に使う事もあるのですが、全国的にみると、そういった事例は例外的です)。

御霊舎

上の写真は、「通夜祭」と、翌日の「葬場祭」「発柩祭」の際に斎場で霊璽を納める御霊舎(みたまや)です。当社の場合は、祭壇の中央(正中)、柩の手前にこの御霊舎を奉安します(前出の祭壇の写真にもこの御霊舎は写っています)。「通夜祭」「葬場祭」「発柩祭」に於いては、霊璽はこの御霊舎の中に奉安され、齋場の照明が落とされる「遷霊の儀」の時以外は常に御霊舎の御扉が閉まっているため、「通夜祭」から「発柩祭」までの間は霊璽が直接参列者の目に触れる事はありません。

ちなみに、遷霊が終わったからといって、神道においては御遺体を“単なる抜け殻”とか“何もない空っぽのモノ”としては扱いません。「遷霊の儀」を行った事により故人の御霊は御遺体から霊璽へと遷りますが、実は、御霊は引き続き御遺体(もしくはその周囲)にも留まっておられ、だからこそ、「通夜祭」の翌日に行われる「発柩祭(はっきゅうさい)」は柩(御遺体が納められている棺)を拝礼対象としていますし、火葬場で行われる「火葬祭」も、やはり霊璽にではなく御遺体に対して祭詞が奏上されるのです。実は、神職によっては、遷霊が終わった後の御遺体は“単なる抜け殻”に過ぎず拝礼対象ではない、と主張する人もいるのですが、しかし、もしそうであるならばなぜ「火葬祭」(もしくは埋葬祭)や「墓前祭」を行う必要があるのか、説明がつかなくなります。平成18年にテノール歌手の秋川雅史さんがシングルとして発表して大ヒットした歌「千の風になって」には、「私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません 眠ってなんかいません 千の風千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています」という歌詞がありますが、少なくとも神職としては、あの歌詞の内容は到底認める事のできない観念なのです。

《3》 葬場祭・発柩祭

「通夜祭」翌日の午前に斎行される「葬場祭(そうじょうさい)」は、故人に対し最後の訣別を告げる神葬祭最大の重儀で、仏式の葬儀では葬式、告別式に当たります。道外では、前夜の「通夜祭」もこの日の「葬場祭」も、どちらも喪家で斎行される事がありますが、北海道では「通夜祭」も「葬場祭」も葬儀場もしくは公民館などの斎場で執り行われ、喪家で斎行される事はほとんどありません。当社が執り行う「葬場祭」及び「発柩祭(はっきゅうさい)」の具体的な次第は以下の通りです。

『修祓(祭員) → 喪主一拝 → 対揖(喪主・斎主) → 献饌(祭員) → 饗饌(喪主) → 葬場祭詞奏上(斎主) → 弔辞奏上 → 弔電奉読(司会) → 喪主参列者葬場祭玉串拝礼 → 発柩祭詞奏上(斎主) → 喪主発柩祭玉串拝礼(参列者列拝) → 斎主祭員玉串拝礼 → 撤饌(祭員) → 対揖(斎主・喪主) → 喪主一拝』

当社が執行する「葬場祭」と「発柩祭」では、神職は「通夜祭」同様の装束を着装し、引き続き2人で奉仕します(3人奉仕で請けた場合は勿論3人で奉仕します)。また、当社に限らず札幌市内の神社が執行する神葬祭では、これから火葬場に葬送する事を柩前に奉告する「発柩祭」(神社によっては「出棺祭」「発葬祭」などと称する事もあります)は、「葬場祭」と合わせて執り行われるのが一般的です。建前としては、「葬場祭」と「発柩祭」はそれぞれ主旨の異なる独立した別の儀式なのですが、実際には同一会場で続けて齋行されるため、参列者からみると、「葬場祭」と「発柩祭」は連続した一つの祭典と映るようです。

ところで、もし「通夜祭」を喪家で、「葬場祭」を葬儀場で執り行う場合は(北海道ではそのような事例は滅多にありませんが、逆に道外ではそのほうが一般的であると聞いています)、「発柩祭」は喪家にて、順番としては「通夜祭」と「葬場祭」の間に斎行される事になります。その場合の「発柩祭」は、葬儀場(「葬場祭」が斎行される斎場)へと発柩するための儀式であり、御遺族の方々はその儀を終えてから葬儀場へと向かいます。しかし、北海道では「葬場祭」と「発柩祭」は同一の斎場で続けて斎行される事が多く、この場合の「発柩祭」は、火葬場へと発柩する儀式であり、同じ名称の儀式でも、どの時点で「発柩祭」を斎行するかにより、葬儀場へ向かうための「発柩祭」なのか、火葬場へ向かうための「発柩祭」なのか、その意味が異なってくるのです。

ちなみに、もし喪家で「発柩祭」を行った場合は、喪家から発柩の後、神職はその柩が安置されていた部屋で「発柩後祓い除けの儀」を行い、家に留まる家族・親族を始め、各部屋、建物内を祓い清めます。

《4》 火葬祭

「発柩祭」が終わると、御遺族の方々は葬儀会社の用意したバスに乗車し、柩と共に直ちに火葬場へと移動します。そして、柩が火葬場の斎場(告別室)に入ると、そこで「火葬祭」が執り行われます。当社が執り行う「火葬祭」の具体的な次第は以下の通りです。

『修祓 → 火葬祭詞奏上 → 喪主参列者玉串拝礼』

「火葬祭」は、鈍色の格衣を着装した祭員が1人で奉仕します。「火葬祭」の斎行時間は概ね10分程度と短く(告別室を長く占有すると後に控えている方々や火葬場の職員さん達に迷惑をかける事になるので、それ以上の時間はかけないようにしています)、これが終わると、柩は直ちに火葬場職員により告別室から火葬炉前へと移動され、そこで神職が火葬炉前室の扉前で炉を祓い清め、祓い終えた大麻(おおぬさ)は、参列者が奉奠した玉串と共に柩の蓋上に載せられ、御遺族の方々に見送られながら火葬炉へと納められます。この時が故人との最後の別れとなるため、御遺族の中には、それまで平静を装っていた方でもここで泣き崩れてしまう方が少なくありません。

当社では、神職が2人以上で奉仕する場合、そのうちの1人が火葬場へ赴き「火葬祭」を斎行しており、神職が1人のみで奉仕する神葬祭の場合は、原則として「火葬祭」は斎行しておりません。但し、札幌の神社全体を見ると、神職の奉仕人数に関係無く「火葬祭」は斎行しない(そもそも神職は火葬場までは行かない)という神社のほうが多いようです。しかし私としては、今から火葬するという旨を御霊に奉告するという意味でも、また御遺族への配慮からも、なるべく「火葬祭」は斎行したほうが良いと思っています。「火葬祭」を終えた後、喪主さんから「やっぱり神主さんに来て貰って良かった。だってもし神主さんに来て貰ってなかったとしたら、火葬場に着いたらすぐ炉に入れる事になる訳でしょ。…それじゃあまりにも呆気ないよね」と言われた事が今でも印象に残っています。

ちなみに、最近ではそういう事例はまず無いと思いますが、もし御遺体を火葬ではなく土葬する場合は、「火葬祭」ではなく、墓前にて「埋葬祭」を執り行います。

《5》 帰家祭

お骨になった故人が、御遺族と共に、「通夜祭」や「葬場祭」が執り行われた斎場に再び戻ると、すぐに「帰家祭」(きかさい)が執り行われます。「帰家祭」とは、故人の御霊に対して葬儀が滞り無く終了した事を奉告する祭儀で、本来はその名称の通り、火葬(もしくは埋葬)を終えて家に帰ってきた事を霊前に奉告する儀式なのですが、現実には、喪家で「帰家祭」を斎行できるだけのスペースは確保できない事がほとんどなので、通常は、「葬場祭」の行われた会場で執り行われます(但し札幌以外では違うかもしれません)。

当社が執り行う「帰家祭」の具体的な次第は以下の通りです。なお、下記の次第中には特に記しませんでしたが、祭員は、献饌の直前に霊璽の鞘を外し、撤饌の直後には鞘を再び霊璽に被せて戻します。

『修祓(斎主・祭員で大祓詞を奏上) → 斎主一拝 → 献饌(祭員) → 帰家祭詞奏上(斎主) → 喪主参列者玉串拝礼 → 斎主祭員玉串拝礼 → 撤饌(祭員) → 斎主一拝』

札幌の場合、だいたい「葬場祭」は午前10時から斎行される事が多く、その1時間少々後に火葬場へと発柩し、火葬場の込み具合や御遺体の状況などにもよりますがだいたい1時間半程度で火葬が終わり、収骨してから、再び「葬場祭」が行われた葬儀場へと戻るため、「帰家祭」は早くてもだいたい昼の2時以降、遅い場合だと3時半頃から斎行される事もあります。

なお、当社が執行する葬儀の場合、「帰家祭」では、斎主は斎服、祭員は浄衣というそれぞれ純白の装束を着装します。「帰幽奉告」から「火葬祭」までは、齋主・祭員共に葬儀専用の鈍色の中啓を手に持って奉仕しますが、「帰家祭」では、齋主・祭員共に通常の祭典で使うものと同じ形の(しゃく)を持って奉仕します。そして、この「帰家祭」の終了を以って、とりあえず神葬祭は一段落します(但し、ここで神葬祭が終わるというのはあくまでも喪主や参列者の方々からの視点であって、神社としては一応、五十日祭までが神葬祭と考えています)。

《6》 霊祭

「帰家祭」が終わった後は、喪家にて「翌日祭」「十日祭」「二十日祭」「三十日祭」「四十日祭」「五十日祭」「百日祭」「一年祭」と霊祭(みたままつり)が続きますが、「翌日祭」や、「二十日祭」から「四十日祭」までは省略する事が多いようです。仏式でいう初七日は「十日祭」、四十九日は「五十日祭」に当たります。納骨する時期については特に定めはありませんが、札幌ではだいたい五十日祭の前後に納骨するのが一般的で、「帰幽奉告」の際喪宅の神棚前面に貼った白い紙も、五十日祭を以て外します。

「一年祭」の後は、「三年祭」「五年祭」「十年祭」「二十年祭」「三十年祭」「四十年祭」と年祭が行われ、そして、故人の没後50年に「五十年祭」を斎行し、一般にはその「五十年祭」を一つの節目として「まつりあげ」を行います。「五十年祭」が行われる頃には、大抵、故人の事を知らない世代が遺族の代表となっているので、それを一つの節目として「まつりあげ」を行い、以後は個人としてのおまつりは行わず、歴代の祖先と共におまつりをするのです。但し、地域によっては30年でまつりあげを行う所もあり、また、場合によっては50年以降も年祭を続ける事があります。

なお、毎年の命日(帰幽当日)に行われる霊祭は、特に「正辰祭」(せいしんさい)といいます。「一年祭」「三年祭」「五年祭」「十年祭」などの年祭は「式年祭」とも言いますが、一部の神社で行われている由緒ある式年祭(例えば、20年毎に行われる伊勢の神宮式年遷宮、12年毎に行われる鹿島神宮香取神宮神幸祭、7年毎に行われる諏訪大社御柱祭など)とは区別する意味から、通常は単に「年祭」と言う事の方が多いようです。

ちなみに、忍手(音をたてない拍手)をいつまで行うかは地域や神社によって見解が異なりますが、当社が執行する霊祭では、五十日祭からは柏手を打っています。


◆神葬祭での神職の装束

神葬祭では、その時々に応じて神職の装束が変わります。しかし普段神葬祭に参列する機会が少ない大部分の方は、恐らく神葬祭での神職の装束についてはほとんど御存知ないと思いますので、この項では、神葬祭神職が着装する装束について、写真を提示しながら紹介させて頂きます(但しこれはあくまでも西野神社での例であり、実際には各神社によって多少の相違がある事を御了承下さい)。

《1》 鈍色の衣冠

鈍色の衣冠
「鈍色」とは、神葬祭奉仕時に神職が着装する装束に使われる専用色(忌色)で、灰色に近い色です。当社ではこれを「にびいろ」と読み、以前私が京都で実習していた神社では「にぶいろ」と読んでいましたが、改めて「鈍色」という言葉を国語辞典で調べてみるとどちらの読み方も掲載されているため、読み方としてはどちらでも良いようです。

当社が執行する神葬祭では、この鈍色の衣冠(いかん)、は「通夜祭」「葬場祭」「発柩祭」の時に斎主が着装します。左の写真がその鈍色の衣冠で、神葬祭奉仕時の神職の装束としてはこれが最も正式な装束ですが、装束の色が鈍色という事以外は、形状としては正服や斎服の袍(ほう)・単(ひとえ)と何ら変わりありません。ただ、頭に被る(かんむり)の纓(えい)の形は、正服や斎服とは異なります。正服・斎服着装時の冠の纓は、冠の後方から後ろに垂れているのですが、葬祭奉仕時の纓は後ろに垂れず、クルクルと丸まっています(下の写真参照)。

衣冠の冠

なお、この装束の事を「鈍色の斎服」と称する場合もありますが、厳密にいうと、斎服というのはあくまでも白色の衣冠の事なので、この言い方は正確ではありません。

《2》 鈍色の布衣

鈍色の布衣
当社が執行する神葬祭では、鈍色の布衣(ほい)は、「通夜祭」「葬場祭」「発柩祭」の時に祭員が着装します。左の写真がその鈍色の布衣で、通常の狩衣(かりぎぬ)とは色が異なるだけで、形状は狩衣と全く同一です。「火葬祭」では、最近は格衣を着る機会のほうが多いですが、以前は何度か、この布衣を着装して奉仕させて頂いた事もありました。

なお、この写真では、祭員は「中啓(ちゅうけい)」という(せん)の一種を手に持っていますが、葬儀の際に笏を持つか中啓を持つかは、道内の神社でも見解が分かれています。当社の場合、「火葬祭」までは中啓を持って奉仕し、着装する装束の色が鈍色から純白に変わる「帰家祭」からは笏を持って奉仕しています(男子神職の場合、葬儀以外で扇法を用いる事はまずありません)。

なお、鈍色の布衣の事を「鈍色の狩衣」と言う人が結構多くおり、実際、私自身も未だにたまにそう言うのですが(笑)、狩衣は有文様ですからこの言い方は正確ではなく、無紋の場合は布衣という言い方が正確です。

《3》 鈍色の格衣

鈍色の格衣
格衣(かくえ)は、本来は正式な神祇装束ではないのですが(規程には載っていない装束です)、着装が最も容易な装束であるため、当社では、装束の着装が容易でない時(例えば改服場所がなかったり、人の往来が激しいような場所)に於いては、鈍色の布衣の代わりに鈍色の格衣を着装する事があります。

具体的には、「帰幽奉告」「枕直し」「火葬祭」の時などにこの装束を着装します。但し、当社の場合、「帰幽奉告」と「枕直し」は宮司が奉仕するため、私が実際にこの装束を着るのは、原則として「火葬祭」の時だけです。

《4》 備考

当社が執行する神葬祭では、「火葬祭」までは鈍色の装束を着装しますが「帰家祭」からは純白の装束を着装し、具体的には、「帰家祭」に於いては斎主は斎服を、祭員は浄衣を着装します。但し、この時斎主が被る冠の纓は、「通夜祭」「葬場祭」「発柩祭」同様、巻き纓(まきえい)です。

当社の場合、帰家祭の後の霊祭に於いては、神社の参集殿で齋行する場合は浄衣を、喪家で齋行する場合は純白の格衣を着装しています。

「通夜祭」「葬場祭」「発柩祭」などでは、斎主や祭員は、本来は鈍色の装束を着装するのですが、神葬祭を斎行する機会が少ない神社では鈍色の装束を揃えていない所も多く、そのような神社が神葬祭を執行する場合、神職は、装束を変える事なく一貫して斎服や浄衣などの白い装束を着装して奉仕されているようです。


◆亡くなった後の御霊の行方

ここまでは、主に神葬祭の内容や次第、神職の装束などについて解説させて頂きましたが、神葬祭を奉仕する神職にとって一番大切なのは、その神職自身が抱く強固な信仰心と確固たる他界観です(と、私は思っています)。「人は死んだらどこに行くのかなんて分からないや。そんな事考えた事もないし…」などと考えている神職には、故人や御遺族も奉仕して貰いたくはないはずです。そのような神職は、多分いないとは思いますが…。

西野神社としての見解としてではなく、あくまでも私の個人的な見解として、以下に平成18年1月19日付の記事から私の思う所を転載させて頂きます。あえて抽象的な言い方をしている箇所があり、いまいち具体性には欠けるかもしれませんが、少しでも参考になれば幸いです。

日本には、仏教が伝来しその影響を受ける以前から、いくつかの他界観がありました。例えば、古代の日本人たちは、故人の魂は現世とは全く別の世界へ行く、とは考えておらず、いつまでもその土地に鎮まって子孫とともに生きる、と信じていました。そして、その地に留まった故人の魂は、長い年月を経て死穢がなくなると、死霊から祖霊へと昇華し、やがて歴代の先祖の神霊と合一し祖霊神となり、山へと還っていき、お正月やお盆などには、子孫たちと交流するために山から降りてくる、という観念を持っており、この他界観は「山中他界観」といわれています。

また、海沿いの町や村では、人は亡くなると山ではなく常世(とこよ)という、海の向うにある世界へと旅たち、お正月やお盆などにはその常世から再び還ってくる、と考えました。これは「海上他界観」といいますが、いずれの場合でも共通しているのは、仏教やキリスト教のように現世と来世をはっきりとは区別していない、ということです。古代の日本人たちは、死んで肉体は土に還っても、その霊魂はどこか遥か彼方の世界へと行ってしまうわけではなく、霊魂は自分達の比較的近くに留まり子孫の暮らしを見守る、という観念を持っていたのです。

(中略)つまり、神道的他界観とは、現世と来世は隔絶されることなく連続しており、山や海の霊場は、死者が祖霊を経て神へと昇華していく場であり、そこから祖先の神霊が訪れてきて、子孫たちに幸運と救済をもたらすという観念、といえます。このような神道的他界観は、キリスト教やイスラムのように創造者と被造者を峻別する徹底的な二元論とは全く無縁で、神と人の断絶、死者と生者の断絶、来世と現世の断絶はなく、神と人とのつながり、あの世とこの世の繋がりの上に世界が成り立っているのです。

(中略)現在でも、山村の一部では山中他界観が、漁村の一部では海上他界観が信じられ、その観念に基づいて祖霊まつりが行われていますが、近くに山も海もない(あっても造成済の山や工業港しかない)都市部においては、どちらもほとんど現実味の湧かない観念であり、実際近年は、葬儀の終わりに「故人は、山もしくは海へと還っていきました」と遺族に説く神職は、まずほとんどいません。「故人は遥か彼方にある黄泉の国へと旅立っていきました」と説く神職も、多分あまりいないと思います。

現代においては、祖霊は、そのまま霊璽に留まって子孫を見守り続ける、と解されることが多いようです。そして、故人のことを知らない世代が遺族の代表となる「五十年祭」を一つの節目として「まつりあげ」を行い、そのまつりあげで、故人の霊は祖先の神霊と合一される、と解されています。

亡くなった御霊は、生者とは隔絶された死者だけの世界に往くわけではなく、そのまま霊璽に留まり続ける、つまり、死後もその家庭や地域に居続ける、と解すると、ではこの世の中は死霊で満ち溢れているということなのか、という解釈もできてしまいますが、しかし神道の立場から考えると、それは決して間違った解釈とはいえないでしょう。

先祖の霊の存在を実感することで歴史の縦軸における自分の立場を認識し、あるいは亡くなった恩人や友人の霊を感じることで、横軸における自分の立場を認識する、という所謂“死者の視線を感じる”という感覚は、まさにそういった解釈の上に成り立つ観念であり、また、明治時代に日本に帰化した英国人作家ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が言った「日本は死者の国である」という言葉も、そういった観念を強く認識した上での言葉だったのではないでしょうか。

日本人の社会は“霊と共存”の社会であり、それは目に見えなくても、過去に生きた先祖や知己の霊が確実に実存する社会といえるでしょう。

ところで、平成20年11月3日付の記事に、「まあくん」さんという方から、以下のような質問のコメントが付けられました。これは、一般の方が抱く、神道の他界観についての代表的な疑問の一つといえるかもしれません。

先祖様の拝み方についてちょっと伺いたいのですが、神道の場合、霊璽という位牌のようなものを御霊舎という仏壇のようなものに納めて拝むものらしいですね。しかし、普通の家では神棚はあっても霊璽や御霊舎はありません。この場合、神道の考え方では、ご先祖様の居場所はどこでしょうか?家の天井裏あたりにフワフワ浮かんでいらっしゃるのでしょうか。また、霊璽や御霊舎がなければ、神棚を拝んでもお札の神様を拝むだけでご先祖様を拝むことにはならないのでしょうか?不躾な質問で恐れ入りますが、よろしかったらご教示くださいませ。

この質問に対して、私は以下のように答えさせて頂きました。この回答も、あくまでも私の個人的な見解に過ぎませんが、しかし神道の他界観を示す一つの事例としては参考になるのではないかと思いますので、一部を省略した上で当該記事のコメント欄から転載させて頂きます。

まあくんさんの家の宗旨がもし代々神道であるならば当然霊璽があるはずなので、霊璽が無いのであれば、家の宗旨は恐らく仏教なのではないかと思いますが、その場合は位牌があると思いますので、その位牌が御先祖様への拝礼対象となるのではないでしょうか。

もし御自宅に拝礼対象となるものが何も無いのであれば、御先祖様のお墓にお参りされるか、あるいは拝礼対象のある場所(例えば、もしまあくんさんの家が分家であるならば本家にある御霊舎もしくは仏壇など)にお参りされてはいかがでしょうか。

そういう事はないと思いますが、もし、位牌も霊璽もお墓も、拝礼対象となるものが本当に何も無いという場合、御先祖様がどこにおられるのかというと、その場合は、「御先祖様は自分達の身近にいらして自分達子孫を見守って下さっている」と漠然と考えれば良いかと思います。

御先祖様は地縛霊ではないのですから「居間」や「和室」などの特定の空間に常にいらっしゃるという訳ではないでしょうし、また、一般的にはあまり清浄とは言い難い「家の天井裏あたり」をあえて選んでそこにいらっしゃるという事も考えにくいため、「ここにおられます」と場所を特定するのは事実上困難だからです。(仮に霊璽があったとしても、霊璽とはそこに御先祖様を縛ったり封じ込めたりするよう封印の具ではないので、時には御先祖様も霊璽から出て子孫を見守っている事もあるだろうと思います。)

また、御質問にありました霊璽と神棚の関係ですが、霊璽は御先祖様が依り憑く依代(よりしろ)なので、その依代が無い場合は、神棚のような拝礼対象があったとしてもその神棚に御先祖様はおられません。神棚にいらっしゃるのは、御先祖様ではなく、その神棚に納められている大麻や御神札に宿られている神様です。ですから、神棚にお祀りされている大麻や御神札を拝むのと、御先祖様を拝むのは、全く別の事です。

例えば、当社で授与している「西野神社」の御神札(神棚にお祀りするための御札)は、当社の御祭神の三柱(豊玉姫命、鵜草葺不合命、譽田別命)の御神霊が宿っておられる御札であり、特定の家系の御先祖様が宿ってい訳ではありません。ですから、「西野神社」と書かれた当社の御神札をお参りしても、御先祖様をお参りした事にはなりません。神道の形式で御先祖様をお祀りするのであれば、やはり御先祖様の依代となる霊璽と、その霊璽を納めるための御霊舎が必要になります。

最後に、平成16年に北海道神道青年協議会が発行した「神葬祭を考える 〜神葬祭奉仕充実の為に〜」という冊子(特に神葬祭についての造詣が深い事で全国的にも有名な、北海道神社庁理事・北方幸彦先生の講演録)から、帰家祭の後の御霊について説明されている文章を以下に転載させて頂きます。御遺族に説明するには、簡潔且つとても分かりやすい説明であると思います。ちなみに、文中の「カクリヨ」というのは幽界、所謂“あの世”の事です。

故人の御霊は或は遊離しながらも遺体の側近くに佇んで、自分の葬儀の様子やその後の五十日の間の事を見て、例えば親子兄弟での財産争いの喧嘩なんかも見ている。五十日間は御霊は家に留まり、その後産土の神様の導きでカクリヨへ誘われる。それも後ろ姿ではなく常にこちらを向いていて、お呼びすればポッと戻って来られる程度の距離感で、故人が徐々に徐々に後ずさりしながら小さくなる姿を我々は見送る


(田頭)

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