西野神社 社務日誌

札幌市西区の西野・平和・福井の三地区の鎮守(氏神様)であり、縁結び・安産・勝運上昇等の御神徳でも知られる西野神社の、公式ブログです。

大人の社会科見学 その1(住友奔別炭鉱編)

昨年の10月、北海道神道青年協議会の「平成二十一年度研修会」として、旧住友石炭赤平炭鉱立坑や自走砕石工場など空知管内の産業遺跡を実地で見学する研修会が開催されました。私は所用によりその研修会には参加できなかったのですが、その研修会が開催される2ヶ月半程前の同年8月、個人的に、空知管内三笠市にあった幾春別炭鉱(昭和31年閉山)、奔別炭鉱(昭和46年閉山)、幌内炭鉱(平成元年閉山)などの産業遺跡を見学してきましたので、今回は、その時私が見学してきた炭鉱やその関連施設のうち、奔別炭鉱の立坑の歴史や現況などを紹介・報告させて頂きます。

札幌から高速道路(道央自動車道)を使って1時間程の距離にある三笠市は、現在は人口僅か11,000人程度の全国有数のミニ市で、残念ながら過疎化が著しいのですが、かつては、北海道有数の大規模な炭坑を抱える“石炭の街”として繁栄していました。一昨年10月14日付の記事では、「当時ほとんど未開の地であった北海道に、新橋〜横浜間、京都〜神戸間に次ぐ国内3番目の鉄道として幌内鉄道が建設されたのは、幌内炭田の本格的な開発と石炭輸送のためであった」という事を詳しく解説させて頂きましたが、その幌内炭田があったのも現在の三笠市であり、往時の三笠では大量の石炭が採掘されていたのです。そのようなマチですから、当然、現在でも三笠市内には炭坑の立坑跡坑口跡などが(一部では崩壊したり自然に還りつつも)数多く残っているのです。

旧住友奔別炭坑 立坑櫓

旧住友奔別炭坑 立坑櫓

旧住友奔別炭坑 立坑櫓

上の写真3枚は、昭和35年の完成当時はアジア最大の立坑と云われた「住友奔別立坑」という立抗櫓の廃墟です(安全管理上この立坑付近は立ち入り禁止になっており、この時は管理者の許可を得た上で見学・撮影してきました)。この立坑は高さが約51m、深さが約750mもあり、スキップ・ケージ巻揚げ方式というシステムが採用された立抗櫓からは、大規模な複数のエレベーターで毎日大勢の炭鉱マン達や機械を地中深くへと送り込み、そして、地中からはそのエレベーターで大量の石炭を積載したトロッコを地上へと運びました。当時の日本の産業は、こういった各地の炭坑から採掘された石炭により支えられていたと言っても過言ではなく、そういった意味では、この立坑の遺跡は日本の産業史や北海道の近現代史を象徴する重要なアイテムの一つでもあるのです。

しかし、一時は隆盛を極めた石炭も、産業構造の転換など押し寄せる“時代の波”には打ち勝つ事ができず、昭和46年に奔別炭鉱は閉山され、それに伴いこの立坑も、完成当時は「100年採炭できる」と言われていたにも拘わらず運用開始から僅か10年と少しで閉鎖されてしまいました。その後、オイルショックにより石炭の価値が再び見直された時、この立坑の運用を再開する案も検討されたそうですが、諸般の事情により結局この立坑の運用が再開される事はありませんでした。

旧住友奔別炭坑 立坑櫓

上の写真では、巨大な滑車からケーブルが外に垂れているのが確認できますが、このようにケーブルが残った状態で立坑櫓が現存しているのはかなり珍しいそうです。当初は、現在のようにそのままの状態で放置するような事はせず、完全に解体する予定だったそうですが、閉山後の坑口密閉・解体作業中に地中から噴出したガスにより爆発事故を起こし、5人が亡くなったため、以後、解体作業は中断されそのまま現在に至っているとの事です(2枚目や3枚目の写真で下の構造物の鉄骨がほぼ全てむき出しになっているのは、その時の爆発で外壁が吹き飛んだためです)。

ちなみに、この住友奔別立坑のすぐ傍には、全校児童数2千数百人の巨大な小学校が2校もあったそうですが(その2校は背中合わせに隣接して建っていたため、一方の小学校で運動会が行われた時は、激しい喧騒のため、もう一方の小学校は授業どころではなかったそうです)、しかし奔別炭鉱の閉山により、児童数は2校合わせても三十数人というまでに激減し、現在はどちらの小学校も既に存在していません。炭鉱が閉山すると街も消える、という典型例といえるでしょう。

この住友奔別立坑は、日本の産業を支えてきた炭鉱の昔日の記憶や、ヤマの活気と共に繁栄しヤマの閉山と共に消えた街の残照、そして、「兵(つわもの)どもが夢の跡」の情緒を今に伝える、哀しくも貴重な産業遺跡なのです。

(田頭)

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