西野神社 社務日誌

札幌市西区の西野・平和・福井の三地区の鎮守(氏神様)であり、縁結び・安産・勝運上昇等の御神徳でも知られる西野神社の、公式ブログです。

神職の装束(番外編)

今回の記事は、先月26日付の記事「神職の装束(前編)」と、その翌日付の記事「神職の装束(後編)」の続編で、このシリーズは、3本目の記事となるこの「番外編」を以て一応完結となります。

「前編」の記事では正服(せいふく)・斎服(さいふく)・狩衣(かりぎぬ)を、「後編」の記事では浄衣(じょうえ)・格衣(かくえ)・女子神職用装束葬儀用装束を取り上げましたが、今回の記事「番外編」で取り上げる装束は、いずれも神職専用の祭祀服ではなく、そのため、当初この記事は「神職以外の各種装束」というタイトルにする予定だったのですが、記事の内容としては「前編」「後編」と繋がる部分が多い事から、実際には神職の祭祀服ではないものの「前編」「後編」と同一シリーズの記事である事を示す趣旨からあえて、「神職の装束(番外編)」というタイトルにさせて頂きました。
神職が日々の奉仕で、今回の記事で取り上げる各種の装束を著けているというわけでは勿論無いので、その旨御了承下さい。



≪ 文官束帯 ≫

「束帯」(そくたい)は、全ての装束の中で最上位に位置付けられる、活動性よりも見た目の美しさを重視した優美壮重の極みとされる装束です。

束帯は、平安時代前期頃に日本文化の精粋を凝結して生まれた第一礼装で、最も正式な装束として、宮中に参内する公卿殿上人などが朝廷に出勤する時の標準服として着用しましたが、平安時代後期の院政期に入ると、束帯はあまり着用されない儀式用の特殊な装束という扱いになっていき、着用機会が限定されるようになりました。
しかしその事が、その後時代が進んでも手を加えられる事なくほぼそのままの形(発展する事も無かったが廃れる事もなかった)で束帯が現在に伝えられる要因のひとつともなりました。

神社本庁の定める「神職の祭祀服装に関する規程」では、束帯を簡略化した衣冠(正服)が最上位の祭祀服とされており、現代の神社界で束帯が神職の祭祀服として使われる機会はほぼありませんが、神社関係では、三大勅祭賀茂祭・石清水祭・春日祭)での勅使(天皇陛下の御使者)や、伊勢の神宮遷宮での勅使・祭主(男性の場合)・大宮司少宮司禰宜などが、最高の礼装として現在でも束帯を用いられます。
また、皇室に於いては、束帯は天皇・皇族の祭祀服として、現在でも最も重い朝儀(大礼・御成婚・御成年等)で着用されています。この事は、欧米伝来の国際共通の礼装(フロックコート、燕尾服)は通常の朝儀に用いられているに過ぎないので、束帯はそれ以上の礼装の取り扱いである事を意味しています。

束帯を着装する場合、まず(かんむり)をつけ、下着である小袖の上に単(ひとえ)を着てから、紅の大口袴(おおくちはかま)と表袴(うえのはかま)を穿き、その上に衵(あこめ)と下襲(したがさね)を重ね着てから、長い裾(きょ)を引いて、袍(ほう)を着ます。
そして、石帯(せきたい)という、石の飾りのある革帯(ベルト)で全てを束ね留めるのですが、この石帯が、束帯という装束名(革の「帯」で表着などを「束」ねて着る)の語源になりました。

束帯の大きな特徴としては、下襲の後ろ身頃(背部)が長くなっていて、着用すると長く尾を引くように引き擦った状態になる事が挙げられます。この部位は「裾」といい、裾の長さによって身分が表されるようになると、下襲自体が長大になったため、下襲と裾が分離するようになりました。
束帯のもうひとつの特徴としては帯剣が挙げられますが、天皇の束帯や、祭主・大宮司少宮司禰宜の束帯には帯剣は無く、皇族や勅使等も、神前に近付くと剣を外して参進する事になっている事などから、帯剣は単なる威儀物ではなく、天皇側近の高官がその護衛のために剣を帯びる事がその本義であるためと推察されます。

なお、束帯には、文官(位階が三位以上の武官も含む)が着る正式なタイプの束帯と、位階が四位以下の武官が着る動きやすいタイプの束帯に大別されますが(衣冠には文武の別はありませんが、束帯は分かれているのです)、この項では文官の束帯の写真を、次項では武官の束帯の写真を、それぞれ掲載致します。

ちなみに、私が束帯を試着した以下の写真を見た、同業のある後輩から、「あ、一級の袍を着ている」と言われた事がありましたが、それは誤解で、神職身分の特級及び一級の袍が黒色、というのはあくまでも衣冠(正服)での話です。
束帯は、前述のように「神職の祭祀服装に関する規程」には一切規程が無い、神社本庁服制外の装束ですから、束帯の袍の色と神職身分には何の関係もありません。決して、神職身分三級の私が、調子に乗って本来は着る事の出来ない特級・一級の装束を着て浮かれている、というわけではないので念のため(笑)。


束帯(斜め前方)

▲ 文官束帯(正面)


束帯(斜め後方)

▲ 文官束帯(斜め後方)


束帯(後方)

▲ 文官束帯(後方)


束帯 着付け中

▲ 文官束帯(着付け中)


現代では、前述のように束帯を著ける人や機会は極めて限られており、神社関係者でも、公式の場で束帯を著ける事はほぼ皆無であると言って良いかと思いますが、神社によっては、一般の氏子・崇敬者を対象に、そのお宮での神前結婚式に臨む新郎に束帯を、新婦に、次々項で詳述する十二単を、それぞれ着付けしている所もあるようです。道内の神社では、そういった実例はまだ聞いた事はありませんが。



≪ 武官束帯 ≫

束帯のうち、特に位階が四位以下の武官(古典文学によく登場する官職名で言うなら「近衛中将」や「検非違使」など)が著けたのが、武官束帯です。
前項に掲載した写真の文官束帯に比べると、動きやすく軽快になっているのが特徴で、大きな違いとしては、文官束帯の袍(ほう)が両脇を縫ったタイプの「縫腋(ほうえき)の袍」であるのに対し、武官束帯では両脇が縫われておらず開いた状態になっている「闕腋(けってき)の袍」になっているという点です。

武官用の束帯とはいっても、本格的に武家が台頭してくる平安時代末期頃まで実際の戦争・戦闘とはほぼ無縁であった貴族達にとって、武官束帯は、戦闘服としてよりも舞楽用の装束として用いられる事が多く、実際、舞楽の舞人の多くは武官が務めていました。そのため、武官束帯は次第に優美になっていき、なかには文官束帯以上に戦闘には向かない優美な武官束帯も現れました。
そして、武家が兵馬の実権を掌握する時代になると、官制による公家の武官は完全に名目だけとなり、武官束帯を著けた公家が陣儀や行幸に臨む事があったとしても、それは警護のためというよりは儀容を整える事が本意とされました。

この項に掲載の写真は、今年の6月に北海道神宮の宵宮祭に参列した際に撮影させて頂いた、人長(にんじょう)という古式ゆかしい典雅な舞を舞う神職(同神宮権禰宜)です。この装束は武官束帯の一種で、冠には巻纓・老懸を付け、手には榊を持ち、その榊には神鏡の象徴とされる白い輪が取り付けられています。
前述のように武官束帯は戦闘という本来の目的よりも、歴史的には舞楽用の装束として用いられてきましたが、この装束は更に舞楽用に特化したものとなっているような印象を受けます。


人長舞装束(北海道神宮にて)

▲ 大前で人長の舞を舞う神職北海道神宮


人長舞装束(北海道神宮にて)

▲ 大前で人長の舞を舞う神職北海道神宮


ところで、多少なりとも装束について知っている方であれば、「衣冠束帯」(いかんそくたい)という言葉をお聞きになった事があるかと思いますが、前項でも述べたようにそもそも「衣冠」と「束帯」は全く別の装束であり、まるで「衣冠束帯」という四文字でひとつの装束であるかのようにこの言葉を使うのは、正しくありません。
略装である衣冠を、準正装として束帯に代えて用いた事が「衣冠の束帯」という言葉で記録されており、その「衣冠の束帯」の意味を読み誤られた事が、この「衣冠束帯」という誤用に繋がったものと推察されます。



≪ 十二単 ≫

女性の装束で最上位(最高礼装)とされているのが、「十二単」(じゅうにひとえ)と通称される華麗な装束です。装束に詳しくない人でも、かぐや姫源氏物語など、王朝絵巻のファッションとして十二単を認識している人は少なくないと思います。

十二単平安時代に生まれた女房装束で、鎌倉時代以降は次第に簡略化されていきましたが、国風文化が発揚した平安時代には、中宮(皇后・皇太后太皇太后)から下仕えの女性まで広く着用され、天皇の御前や、儀式の時、自分が使える主人の前などでは必ず着用されていました。

着装の仕方は、大まかにまとめると、まず白の「小袖」(こそで)に紅精好(べにせいごう)の「帯」を締め、足に「襪」(しとうず)という履物を履きます。そして、紅精好の「長袴」(ながばかま)の腰の帯を、腰の右前脇に結びます。それから、「単」(ひとえ)をつけて、その上に「五衣」(いつつぎぬ)「打衣」(うちぎぬ)「表着」(うわぎ)と着重ねていき、「唐衣」(からぎぬ)を打ちかけてから「裳」(も)の腰を正面に結びます。

単の上に褂(うちき)を8枚重ねる事を「八ツ単」(やつひとえ)と云い、10枚重ねる事を「十単」(とおひとえ)、12枚重ねる事を「十二単」と云うのですが、装束としての十二単は、実際には12枚はありません。宮中の儀式で皇后陛下がお召になる十二単でも、単の上には、五衣・打衣・表着・唐衣までで8枚、裳を含めても9枚です。
本来であれば、単の上に着物を12枚羽織って十二単と呼ばれるべきですから、私達が普段聞いたり使ったりする「十二単」という言葉は、実は俗称という事です。十二単の正式名称は「五衣(いつつぎぬ)・唐衣(からぎぬ)・裳(も)」といいます。


十二単

▲ 美しいグラデーションを見せる十二単の衣の重なり


十二単(立姿)

十二単(立姿)


十二単(座姿)

十二単(座姿)


十二単(座姿)

十二単(座姿)


斎王代(下鴨神社 葵祭)

賀茂御祖神社での平成14年の勅祭 賀茂祭にて
(私は白丁を着て斎王代の傘持所役として奉仕しました)


なお、現代の十二単は、全ての衣の重さの合計は15kg以上、二倍織物(ふたえおりもの)などの豪華な組織を使った装束では20kg近くになる事もあり、丁寧に着装すると、着装には30分程要する事もあります。見るからに動きにくそうな上にこの重量ですから、初めて十二単を著けた女性は、慣れるまでは立ち居振る舞いにも相当苦労すると思われます。
ちなみに、着装する時は一枚一枚着ていくため時間がかかりますが、脱ぐ時は、一枚ずつ脱いでいくわけではなくまとめていっぺんに脱ぐため、着る時の手間に対して脱ぐのはあっという間です。



≪ 巫女装束 ≫

祭祀補助者として神職を補佐する立場の現代の巫女は、例外もありますが、白衣に、緋袴(ひばかま)という緋色(朱色)の袴を履く姿が一般的です。

神職の装束の場合とは違い、巫女の装束については具体的な規定は無く、各神社毎にそれぞれのしきたりに基づいて服制を定めており、神社もしくは女性の年齢によっては、赤紫色や松葉色の袴を穿く巫女もいます。また、大前での奉仕や神楽を舞う場合などには、千早(ちはや)という白い上衣を白衣の上に羽織る事もあります。
髪型については、長い黒髪を後ろで檀紙、水引、装飾用の丈長等を組み合わせて束ねる事が多いです。

ちなみに、近年はマンガ・アニメ・ゲームなどの媒体にも巫女がキャラクターとして登場する事が多いですが、それらの創作物に登場する巫女が着ている装束は、大抵、現実の巫女装束とは似て非なるもの(袖括りの紐が付いた変な白衣)で、本来の「巫女装束」とは区別する意から、それらのアレンジされた服装の事は「巫女服」と云われたりもしています。

なお、神社にあまり詳しくはない一般の人達の中には、女子神職と巫女を混同している人が多く見受けられますが、女子神職と巫女は全く別の存在です。奉仕内容も着装する装束も異なります。
但し、神職の資格である階位を持っている女性の中には、状況に応じて、神職として奉仕したり、巫女として奉仕したりと、その立場を使い分けている事例は見られます。


豊栄舞を舞う巫女

北海道神社庁の庁舎で開催された祭祀舞研修会にて


豊栄舞を舞う巫女

▲ 北海道神社庁の庁舎で開催された祭祀舞研修会にて


北海道神宮駐輦祭での巫女(大通公園)

平成17年に大通公園で斎行された北海道神宮駐輦祭にて


北海道神宮駐輦祭での巫女(西4丁目交差点)

平成24年に札幌駅前通りで斎行された北海道神宮駐輦祭にて


平成24年2月 巫女のための神宮研修会

神青協の主催で伊勢の神宮で開催された巫女のための神宮研修会にて


平成24年2月 巫女のための神宮研修会

▲ 神青協の主催で伊勢の神宮で開催された巫女のための神宮研修会にて



≪ 狩衣類似の各装束 ≫

狩衣(かりぎぬ)という装束については、「前編」の記事で詳述したのでここではその解説は省略しますが、この項では、その狩衣に類似する様々な装束のうち、「褐衣」(かえち)、「雑色」(ぞうしき)、「白丁」(はくちょう)を紹介します。
「浄衣」(じょうえ)も狩衣に類似する装束のひとつですが、浄衣については「後編」の記事で詳述したのでここでは割愛致します。

「褐衣」は、皇族・公卿・摂関家などの護衛を任務とする下級武官の装束です。装束の構成としては狩衣とほぼ同じですが、袖と身頃が肩の所で縫い合わされている点が狩衣とは異なっています。
褐衣は、狩衣類似の装束のひとつではありますが、その目的・意義としては、前出の闕腋(けってき)の袍、つまり武官束帯の系統を引いている装束といえます。

「雑色」と「白丁」は、どちらも貴族の下部(しもべ)が着る、狩衣形式の装束です。狩衣よりも更に簡素な装束で、文様などは入っておらず、薄い紅色・薄い黄色・薄い松葉色・薄い青色などのいずれかの一色に染められているものを雑色、白一色のものを白丁と云います。白丁は、白張と表記する事もあります。
なお、共に狩衣類似の装束で色も白一色という点では、白丁と浄衣は似ておりますが、勿論同一ではなく、浄衣は狩衣が白一色・無紋になっただけですが、白丁は、全体的な作りや材質が狩衣や浄衣よりもかなり簡素(グレードダウン)になっています。外見的に目立つ差異としたは、白丁の袴は、狩衣や浄衣の袴よりも丈が短くなっており、白丁の烏帽子も、狩衣や浄衣の烏帽子よりももっと簡素なものになっています。

この項で紹介したこれらの装束は、現在は主に、神社での神幸行列の供奉装束として用いられている事が多いです。


雑色と褐衣(春日大社にて)

▲ 平成16年の勅祭 春日祭(春日大社)での装束
(中央の助勤者2人が褐衣、左端の助勤者が雑色)


青い雑色(春日大社にて)

▲ 平成16年の勅祭 春日祭(春日大社)での装束
(左側の神職白地の狩衣、中央と右側の助勤者2人が雑色)


赤い雑色(春日大社にて)

▲ 平成15年の春日若宮おん祭(春日大社)での雑色


雑色(石清水八幡宮にて)

▲ 平成14年の勅祭 石清水祭(石清水八幡宮)での雑色


白張(平成17年 北海道神宮鳳輦渡御)

▲ 平成17年の北海道神宮神幸行列での白丁


白張(石清水八幡宮)

▲ 平成14年の石清水八幡宮末社遷座祭での白丁


白張(石清水八幡宮)

▲ 平成14年の石清水八幡宮末社遷座祭での白丁



≪ 直 垂 ≫

「直垂」(ひたたれ)は、歴史的には武家の礼装とされてきましたが、現在は主に、雅楽の楽師(伶人)や、祭礼の供奉人、大相撲の行司などが用いています。

直垂は、平安時代前期頃までは地方在住の庶民達の労働服でしたが、平安時代後期以降は、上京した武士達が武家の装束として使うようになりました。とはいえ、当時、上位の武士達は水干(すいかん)を用いており、直垂はまだ、下位武士の装束という位置付けでした。
しかし、甲冑の下の着用にも便利である事から、次第に上位の武士達も用いるようになり、それに伴い直垂の素材や文様などは豪華になっていきました。
平安時代末期頃、武家出身の平家は、公卿となって以降も直垂を着る機会が多く、それも直垂の普及を後押しする事となり、鎌倉時代に入ると、華美なものは減りますが直垂は武士の日常着として定着しました。
公家と武家が融合するようになった室町時代には、公家の間でも直垂が用いられるようになり(但しその場合、武家は折烏帽子を、公家は立烏帽子を用いました)、室町時代後期以降は、活動しやすいよう直垂の簡略化が進み、直垂から袖を取り除いたものが武士達の間で広く普及するようになりますが、それに伴い従来の直垂は、礼装と位置付けられるようになりました。

江戸幕府の服制では、第一礼装は束帯とされましたが、これは将軍宣下などの最重要儀式のみに着装されるものとされ(装束全体の簡略化が進んだ事により、平安時代末期以降、束帯は、非現実的なほど立ち居振る舞いが不自由なものと感じられようになり、公家の間でも重要な儀式のみに用いられる特殊な装束という扱いになっていました)、一般儀式に於ける武士の礼装は、上位から順に、直垂、狩衣、大紋、布衣(ほい)、素襖(すおう)の5階級とされました。
装束としては、本来は狩衣よりも直垂のほうが下位なのですが、武家政権に於いては逆転現象が起き、直垂が最上位の礼装とされたのです。

武家の礼装であった直垂を、現在、神社の祭典で伶人が著けるのは、武家の興隆に伴い武家雅楽を奏する者が増え、遂には宮中の雅楽演奏の装束にもなったため、と云われています。


直垂(石清水八幡宮)

▲ 平成14年の石清水八幡宮灯燎華での庭燎所役の直垂


平成19年 除夜祭

▲ 平成19年西野神社除夜祭での伶人萬燈保存会)の直垂


平成26年 宵宮祭・遷座祭

▲ 平成26年西野神社宵宮祭での伶人(萬燈保存会)の直垂



≪ 裃 ≫

「裃」(かみしも)は、和服に於ける男性の正装の一種で、その起源は明確ではありませんが、室町時代中期頃に戦陣の略礼服として一般化されたと云われています。
江戸時代に入ると、官位の無い武士が著ける装束としては最礼装とされ、身分の高い農民や町人もこれに倣う事が多かったため、現在でも神社での祭礼や伝統芸能などでは裃が用いられる事があります。
西野神社の場合は、秋まつりの神幸行列に供奉する奉仕者のうち、各町内区域代表者の皆さん方に裃を着用して貰っています。


裃(平成17年 北海道神宮鳳輦渡御)

▲ 平成17年の北海道神宮神幸行列にて


平成23年 秋まつり 神幸行列

▲ 平成23年の西野神社神幸行列にて


平成26年 秋まつり 神幸行列

▲ 平成26年の西野神社神幸行列にて



≪ 甲 冑 ≫

甲冑(かっちゅう)は、刀剣や弓矢を用いた戦闘の際に兵士が身にまとう日本の伝統的な防具の事で、その起源は弥生時代にまで遡る事が出来ます。

甲冑は大別すると、概ね以下の5期に分ける事が出来ます。
第1期は、弥生時代から平安時代前期までの期間で、短甲・挂甲・綿甲・革甲に衝角付冑・眉庇付冑・綿襖冑の時代。
第2期は、平安時代中期から鎌倉時代後期までの期間で、大鎧・胴丸・腹当に厳星兜・小星兜・筋兜の時代。
第3期は、鎌倉時代末期・南北朝時代から室町時代中期までの期間で、大鎧・胴丸・腹巻・腹当に筋兜・阿古陀形兜の時代。
第4期は、戦国時代から安土・桃山時代までの期間で、胴丸・腹巻・当世具足に多種多様な胴と兜の時代。
第5期は、江戸時代初期から幕末までの期間で、当世具足・復古調の時代。

この分類に従うと、この項に掲載した写真の甲冑は第3期(所謂源平合戦の頃)の大鎧に当たり、デザイン性と共に機能性や軽快性も重視されている戦国時代の当世具足に比べると、騎馬(騎射)戦にほぼ特化している大型・重厚な大鎧のため、一式で重量は20kgもあります。
実際に私が大鎧を着装してみた感想は、着装した直後こそ「少し重いかな」と感じる程度でしたが、時間が経つに連れ、段々ずっしりと重さを感じるようになり、特に兜の重みは、時間が経つに連れ首が胴体にめり込むような錯覚を感じる程でした(笑)。

神社との関わりでいうと、武将を御祭神としてお祀りしている神社などでは、現在でも、甲冑を著けた武者姿の奉仕者が神幸行列に供奉する事があります。
また、御神宝として甲冑が神社に奉納されている例も多く見られます。ちなみに、現存する古来からの日本の甲冑のうち、約4割は、愛媛県今治市に鎮座する大山祇神社伊予国一宮で、旧社格国幣大社)が所蔵していると云われており、その大半は国宝や重要文化財に指定されていて、同神社境内の紫陽殿や国宝館で一般公開されております。


平安時代末期の大鎧

平安時代末期頃の大鎧


平安時代末期の大鎧(弓)

平安時代末期頃の大鎧


平安時代末期の大鎧(抜刀)

平安時代末期頃の大鎧



※ 前々回の「前編」、前回の「後編」、そして今回の「番外編」の3本の記事を作成するにあたり、以下の文献・資料等を参考にさせて頂きました(順不同、著者名敬称略)。
『神社本庁規程類集 平成二十一年版』
『祭祀服の概説』 星野文彦著
『有職故実図典 −服装と故実−』 鈴木敬三著
『素晴らしい装束の世界 いまに生きる千年のファッション』 八條忠基著
『カラー版 十二単のはなし 現代の皇室の装い』 仙石宗久著



(田頭)

人気blogランキングへ