西野神社 社務日誌

札幌市西区の西野・平和・福井の三地区の鎮守(氏神様)であり、縁結び・安産・勝運上昇等の御神徳でも知られる西野神社の、公式ブログです。

岩手県遠野市を旅行してきました

私は今月の7日と8日、神社から二連休を頂き、その連休を利用して、岩手県を旅行してきました。
私が東北地方を訪れたのは、平成24年に会津若松を旅行して以来、約5年ぶりで、今回は、連休前日の夕方過ぎ頃に札幌を発ち、連休翌日の早朝に帰宅するという日程を組んで、3泊4日の行程で、主に三陸海岸遠野を見て回ってきました。
そのうち、三陸海岸で私が見て来た所や感じた事等については、このブログの今月11日付の記事や、別のブログなどで既に報告させて頂いているので、今回の記事では、私が遠野で見て来た所やそれに関連する事項について、写真と共に紹介・報告させて頂きます。

以下の写真2枚は、いずれも私が撮影したものではありませんが、1枚目の写真は、遠野の昔ながらの山里を再現した施設で江戸中期以降に建てられた茅葺屋根の曲り家が点在する「遠野ふるさと村」の風景、2枚目の写真は、かつて遠野の河童が多く住み人々を驚かせていたという伝説が残る「カッパ淵」です。
どちらも日本の原風景を感じさせる、実に遠野らしい情景です。

遠野ふるさと村

遠野のカッパ淵


今回の旅行で私が遠野を主要な訪問先と定め、そこで一泊もしたのは、一言で言うと、私が昔から好きだった「遠野物語」の“聖地巡礼”をするためです。
ちなみに、聖地巡礼という言葉の本来の意味は、「宗教に於いて重要な意味を持つ聖地に赴く宗教的な行為」ですが、最近では、「アニメやマンガなどの作品に於いて、その物語の舞台やモデルとなった場所・所縁のある場所を“聖地”と呼び、実際にそれらの聖地を訪問する事」という、サブカルチャー的な意味合いで使われる事のほうが多くなりつつあり、実際、その用法は世間一般でもそれなりに定着した感があります。

ここで私が言う聖地巡礼は、どちらかというと、そのサブカル的な意味での聖地巡礼となりますが、とはいっても、遠野物語はアニメやマンガではありません。
正確にいうと、遠野物語はアニメ化(遠野市立博物館で上映されています)もマンガ化(これについては後述します)もされてはいますが、少なくとも、原作はアニメやマンガではありませんし、また世間一般でも、遠野物語とはアニメもしくはマンガの作品であるとは認識されていません。

このブログをいつも読んで下さっている方であれば、御存知の方も多いと思いますが、遠野物語とは、我が国を代表する民俗学者で“日本の民俗学の父”とも称される柳田國男が、明治43年に発表・出版した、岩手県の遠野地方に伝わる逸話・伝承などをまとめた説話集です。
今でこそ「日本の民俗学の先駆け」とも「日本民俗学の記念碑的文献」とも云われる作品ですが、初版は、柳田が限定350部で自費出版した、事実上の同人誌でした。
私にとっては、物語の内容もさることながら、序文の「願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」という言葉が、昔から強烈に印象に残っている作品であります。

下の写真は、私が所有している三種の遠野物語で、一番右の本は、「ゲゲゲの鬼太郎」「河童の三平」「悪魔くん」などの代表作で知られる妖怪漫画の第一人者・水木しげるさんによって著された、マンガ版の遠野物語です。
このコミックは、遠野物語発刊百周年に当たる平成22年に、その記念事業の一環として、遠野市水木しげるさんのコラボ企画により刊行されました。

遠野物語

ところで、その遠野物語の著者である柳田國男は、昭和26年に、神社界とは特に関わりが深い、東京の國學院大學の教授に就任しており、同大学では神道に関する講座を担当していました。神道民俗学は密接に関連し、学問的には重複している所も多々ありますし、「日本人とは何か」という答えを求め続けていた柳田にとっては、神道も当然研究の範囲内だったという事なのでしょう。
ちなみに、柳田が國學院大學教授に就任したその年に、我が国の文化の発展・向上に目覚ましい功績を挙げたとして、柳田は文化勲章を受賞しています。また、没後には、当時の池田勇人首相が「民間人とはいえ、これだけの人物に瑞宝章では軽い」と発言し、勲一等旭日大綬章も受勲しています。


さて、今回私が初めて訪れた遠野市は、岩手県内陸の山間にある都市で、言わずと知れた「遠野物語」の元となった街です。全国的には、遠野物語所縁の様々な神様や妖怪達(河童・天狗・山姥・ザシキワラシ・オシラサマなど)でよく知られている街です。
寛永4年から明治維新までの約240年間は、遠野南部氏の城下町としても栄えた町で、現在の人口は28,167人(今月1日)ですから、単純に人口だけでいうなら、北海道に置き換えると美唄市七飯町などと同規模の街といえます。

下の写真は、私がその遠野市内で宿泊したホテルの窓から、遠野駅方面を望んだ、遠野市中心部の景色です。
雪景色であるのは、この時(3月上旬)の札幌と同じですが、高層の建物がほとんど無い点と、民家の屋根の多くが瓦である点が、札幌とは違いました。

遠野市中心部の雪景色


下の写真は、私が泊まったホテルの直ぐ隣の鍋倉公園に鎮座している南部神社です。
お昼過ぎに釜石を発って夕方近くに遠野に着いた私は、先ず遠野市内のホテルに一旦チェックインし、それからホテルを出て最初にここを訪れました。そして、同神社の神様にお参りし、御挨拶させて頂きました。

遠野市に鎮座する南部神社

この南部神社は、明治15年に創建された神社で、南北朝時代南朝方に仕えた「勤王八世」、即ち、南部実長命、南部実継命、南部長継命、南部師行命、南部政長命、南部信政命、南部信光命、南部政光命の8柱が、御祭神としてお祀りされています。


下の写真は、南部神社の次に私が訪れた遠野市立博物館です。平成22年にリニューアルオープンした施設で、建物内には遠野市立図書館も併設されています。

遠野市立博物館

館内は写真撮影禁止だったので、館内の様子を写した写真はありませんが、遠野物語で一躍有名になった遠野市の歴史や風土などについて、いろいろと分かりやすく学べる博物館で、「遠野物語の世界」「遠野人・風土・文化」「遠野物語と現在」の3つのテーマにそって展示が行われていました。興味深い展示が多かったです。


以下の写真3枚は、いずれも私がJR遠野駅前で撮影してきた、遠野物語所縁の妖怪達を模ったオブジェです。
1枚目の写真で、信号機の柱の先端に立っている童女はザシキワラシ、2枚目の写真で、望楼から身を乗り出してバンザイをしているのは天狗、3枚目の写真で、首にマフラーを巻いているのは河童です。ちなみに、一般に河童は緑色のイメージを持たれていますが、遠野の河童は、他の地域の河童とは違って赤いと云われています。

遠野駅前のザシキワラシ

遠野駅前の天狗

遠野駅前のカッパ

遠野物語には、これらの妖怪の他にも、山男、山女、雪女、猿の経立、人に化ける狐や狢などが登場しますが、現代とは違って、古代や中世の日本人にとっては、こういった妖怪は決してユーモラスで親しみやすい対象などではなく、全くの恐怖・畏怖の対象でしかありませんでした(天変地異や病気なども妖怪の仕業と解される事が多かったようです)。
しかし江戸時代に入ると、様々な絵師達によっていろいろな妖怪が生み出され、葛飾北斎をはじめとする著名な浮世絵師達も多くの妖怪画を描き、妖怪は娯楽としてもてはやされるようになり、大正から昭和にかけては、妖怪画は一時衰退しますが、昭和43年に水木しげるさん原作のテレビアニメ「ゲゲゲの鬼太郎」が放送されると、また一大妖怪ブームが訪れて、現在に至っています。


札幌へ帰る時間を考慮すると、遠野で宿泊した翌日の午前中のうちには早々に遠野を発たなければなりませんでしたが、折角遠野まで来たのですから、この機会に可能な限り遠野のいろいろな場所を見て回りたいという思いもあり、遠野を出る直前に、「とおの物語の館」という施設も見学してきました。
遠野の昔話を映像や音声で楽しむ事が出来る「昔話蔵」や、語り部による昔話を聞く事が出来る劇場「遠野座」、柳田國男の生涯と功績を紹介する「柳田國男展示館」などの他、お食事処やお土産屋なども併設されている施設でしたが、この時期は観光的にはオフシーズンで、しかも私が来館したのは午前9時台と早かった事もあって、私以外のお客さんはまだ誰もおらず、貸し切り状態でゆっくりと見学する事が出来ました。

以下の写真3枚のうち、1枚目の写真は、その「とおの物語の館」の正面入口で、2枚目と3枚目の写真は、現在は「柳田國男展示館」として改装され利用されている、明治から昭和にかけての遠野を代表する旅籠「高善旅館」内部の一部です。

とおの物語の館

高善旅館

高善旅館の神棚

高善旅館は、柳田國男をはじめ、折口信夫(柳田の高弟として民俗学の基礎を築いた、日本を代表する民俗学者・国文学者・国語学者歌人)や、ニコライ・ネフスキー(ロシアの東洋言語学者・東洋学者・民俗学者で、夫人は日本人)なども、民俗学調査の拠点として利用し滞在しました。ちなみに、現在の建物は移築されたものです。


以下の写真3枚は、いずれも、前出の「とおの物語の館」を構成する施設のひとつである「旧柳田國男隠居所」です。
柳田國男は昭和37年8月8日に88歳で亡くなりましたが、亡くなるまでの約6年7ヶ月の最晩年を、夫人と共に柳田が静かに過ごした住み家で、元々は東京都世田谷区成城にありましたが、平成3年に柳田家から遠野市へ寄贈され、平成5年にこの地に移築復元されました。

旧柳田國男隠居所

旧柳田國男隠居所(寝室)

旧柳田國男隠居所(書斎)

上の3枚の写真のうち、2枚目の写真は、柳田が寝室として使っていた部屋(床の間と小さな仏壇があり、亡くなる直前はここで1週間程寝込んでいました)で、3枚目の写真は、その寝室の奥にある、柳田が普段籠もっていた書斎です。ちなみに、柳田の遺言には、蔵書の事以外は何も書かれていなかったといいます。

以下は、昭和44年に発行された柳田國男全集からの抜粋(その文章自体は昭和24年に執筆されたもの)です。遺言ではありませんが、柳田の死生観が感じ取れ、興味深いです。
魂になつてもなほ生涯の地に留まるといふ想像は、自分も日本人である故か、私には至極楽しく感じられる。
出来るものならば、いつまでも此国に居たい。さうして一つの文化のもう少し美しく展開し、一つの学問のもう少し世の中に寄与するやうになることを、どこかささやかな丘の上からでも、見守って居たいものだと思ふ。


以下の写真2枚は、私が遠野で最後に立ち寄った「南部曲り家 千葉家」です。県道160号沿いに建つ、今から200年程前に造られた代表的な南部曲り家です。
但し、現在は大規模工事のため休館中で建物内の見学は出来ないため、立ち寄ったとはいっても、私は車を道路の路肩に停めて、そこからこの建物を眺めてきただけです。単に眺めてきただけなので写真も撮っておらず、以下の2枚の写真はいずれも、ネット(Wikipedia)から借用したものです。

南部曲り家 千葉家

南部曲り家 千葉家

南部曲り家とは、人の居住部である母屋と馬が飼育されている馬屋が平面L字状に繋がっている、この地方独特の民家(農家建築)です。この千葉家は、斜面地に築かれた石垣上の平地に建てられた、163坪もある豪華な茅葺の屋敷で、かつては25人の人と20頭の馬が、同じ屋根の下のこの一軒の家で生活していたそうです。
つまり、馬は別棟の小屋で飼われていたのではなく、人と同じ建物内で、毎日人と共に暮しており、この建築様式は、遠野の人々が馬に対して抱く深い親しみや愛情が根本にあるのです。遠野物語に登場するオシラサマ(蚕・農業・馬の神様とされ、今も信仰されています)は、人と馬とのその愛情物語が起源となっています。
ちなみに、この建物は現在、国の重要文化財に指定されています。


今回の記事の最後に、神様と妖怪の違いについても触れておきます。
遠野物語を読むと、神様と妖怪は紙一重な存在で、その違いを明確に定義付ける事は難しいのですが、柳田自身は、昭和31年に発表した「妖怪談義」の中で、妖怪の定義を「神が信仰を失って零落した姿」としています。
しかし、私が今回の旅行中に遠野市立博物館で購入してきた書籍「遠野物語と妖怪」によると、柳田のその説は現在は否定されているらしく、現在は、小松和彦氏(文化人類学者・民俗学者)が昭和57年に発表した「憑霊信仰論」の中で述べている「祭祀された妖怪が神であり、祭祀されない神が妖怪である」という説が、民俗学の分野に於いては一応の通説として認識されているそうです。
もっとも、それはあくまでも民俗学に於いての事であり、神道学に於いては、そういった通説や認識は無いであろうと思いますけど。


時間の都合から、実際には、遠野で見て回りたかった所の多くは行けなかったので、機会があれば遠野には是非また行ってみたいです!


(田頭)

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