西野神社 社務日誌

札幌市西区の西野・平和・福井の三地区の鎮守(氏神様)であり、縁結び・安産・勝運上昇等の御神徳でも知られる西野神社の、公式ブログです。

薪割りと、足利尊氏のカリスマ性

当社では、毎年元日の0時から明け方頃までの数時間、境内参道の両脇で篝火(かがりび)を焚くのですが、今日は、その際に篝火の燃料として使う薪(まき)を確保するため、既に横方向に切断されて輪切り状態にはなっているもののまだ縦方向には切られていない幹など縦に割って薪にする作業が行われました。

とはいっても、昔みたいに斧を振り下ろして割るわけではなく、今は、下の写真に写っている専用の機械(車輪が付いていて移動も可能な薪割り機)を使うため、少なくとも現在に於ける当社での薪割りは、それ程大変な作業ではありません。一昔前はかなりの重労働であったと思いますが。

薪割り機

 

以下の写真は、薪割り(まきわり)を終えて境内某所に本日積み上げられた薪と、その薪を使って燃える元日の篝火の様子です。

積み上げられた薪
令和2年正月 西野神社 元旦の境内



ところで、今日の薪割りとは全く関係の無い話なのですが、私が薪割りと聞いて連想するのは、平成3年に放送されたNHK大河ドラマ太平記」(私はDVDで全話見ました)の劇中での、真田広之さんが演じられた主人公 足利尊氏が、自邸で薪割りを行なうシーンです。

日本全国を二分し、創設間もない室町幕府をも分裂させた、日本史上最大規模の兄弟喧嘩である「観応の擾乱」に於いて、兄の尊氏は、最終的には弟の直義(ただよし)に合戦で完全な勝利を納めるものの、そこに到るまでの途中経過では、直義との合戦に惨敗し敗走もしています(日本の歴史上たった3人しかいない、幕府を開いた初代将軍のうち、源頼朝も、石橋山の戦い大庭景親平氏方の軍勢に敗れていますし、徳川家康も、三方ヶ原の戦いでやはり武田軍に敗れていますが、尊氏は、その生涯に於いて明らかに頼朝や家康よりも多数の負け戦を経験しており、敗走したり命の危機に陥った事は、一度や二度ではありません)。
しかし尊氏は、直義との合戦に敗れて敗走した後に直義邸で行なわれた、両者による和議の交渉(戦後処理の会議)では、敗軍の将であるにも拘わらず「謎のカリスマ」としか言いようのない、強力な個性と迫力を発揮し、まるで勝者であるかのように振る舞います。
直義派一党も、尊氏のその堂々たる勢いに飲まれて尊氏の言う事を追認せざるを得なくなる(最後まで尊氏に従った諸将に対して恩賞を与え、逆に直義に従った諸将には恩賞無し、もしくは罰を与えるなど)、という何とも不思議な現象が起こりました。

 

今回の記事で紹介する薪割りのエピソードは、その交渉を終えた後の出来事で、直義派の実力者でありながらその交渉の場に出席していなかった桃井直常から「そんな決定認められるか!勝ったのはこっちだぞ。将軍に抗議して全部取り消してこい!」と嗾けられた、直義派の武将である細川顕氏ウルトラセブンで主人公のモロボシダンを演じた森次晃嗣さんが、この顕氏を演じておられました)と斎藤利泰の2人が、桃井のその主張を尊氏に代弁すべく将軍邸を訪ねるのですが、そこで顕氏と利泰が見たのは、将軍である尊氏が自ら斧を振り上げ、汗を流して薪割りをしている姿でした。

これは、合戦に敗れたため使用人にすら事欠いていたその時の尊氏の苦しい実態と、そうでありながらもそんな事は全く気にしていない尊氏の鷹揚な性格を表現したシーンでもあるのですが、顕氏と利泰の2人は尊氏が薪割りをしているのを見て驚き、「征夷大将軍にそんな事をさせるわけにはいきません」とばかりにその場で直ぐに尊氏を手伝い、結局3人で一緒に薪割りをしたのでした。

大河ドラマ「太平記」での薪割り

 

そして、3人でのこの共同作業により夕刻に薪が沢山積み上がった頃、尊氏は、その場をそっと離れて井戸から水を汲んできて、その水を「うまいぞ」と2人に振る舞い、その上で2人に対して一言、「薪割り大儀であった。飯でも食べてゆくがよい」と言います。
たったこれだけの事なのですが、これでこの2人は共に、情に絆されて直義派から尊氏派に寝返ってしまうのです。尊氏はここでも、「謎のカリスマ」を遺憾なく発揮したのでした(笑)。

この薪割りのシーンは、この大河ドラマの脚本を担当された池端俊策さんの創作らしく、どうやら実話ではないようなのですが、南北朝時代の公卿 洞院公賢による日記で南北朝時代に於ける基本史料とされる「園太歴」に実話として記録されている、尊氏と顕氏に関する話は、このエピソードに勝るとも劣らない、これまた興味深いもので、その記述によると、調子に乗った細川顕氏が、尊氏の負けた姿を見てやろうと思って将軍邸を訪れると、尊氏はばつの悪そうな顔をするどころか、「降参人の分際で将軍に面会を望むとは何事か!」と怒鳴りつけて面会を拒否し、尊氏のその態度に恐懼した顕氏は、程なく直義派から尊氏派に寝返った、との事です。征夷大将軍らしい、堂々とした態度だったのでしょう。

 

尊氏は、その生涯のうちに何度も権力闘争や武力闘争を経験し、前述のように滅亡寸前の窮地に追い込まれた事も数多いのですが、不思議な事に彼はその度、有能な部下達に支えられて見事な復活を果たします。
何度も窮地に陥りながらも、神懸かり的に常にそれを脱し、同じく神懸かり的なカリスマを誇っていた後醍醐天皇(歴代天皇の中でもそのカリスマ性は傑出していると思います)と対峙しながらも、尊氏が何だかんだで武士達からの支持を受けて室町幕府を創設する事が出来たのは、鎌倉幕府建武政権など当時の中央政権による失政の受け皿となったからという消去法的な理由だけではなく、やはり尊氏個人の人望やカリスマ性に因っている部分も、かなり大きいのでしょう。

この薪割りのエピソードは、史実ではないのかもしれませんが、尊氏の「謎のカリスマ」、もしくは「無意識に発揮されているらしい尊氏の人心掌握術」を上手く再現した面白いシーンだなと、私の中では今でも印象に残っています。

 

文責:西野神社権禰宜 田頭