西野神社 社務日誌

札幌市西区の西野・平和・福井の三地区の鎮守(氏神様)であり、縁結び・安産・勝運上昇等の御神徳でも知られる西野神社の、公式ブログです。

私が神社界に入ってのこの20年と、田頭和左衛門の足跡を振り返って

丁度20年前の今日、平成14年4月11日に、当時まだ20代だった私は神職になる事を志して、京都に開設されている2年制の神社本庁指定神職養成機関「学校法人 京都皇典講究所 京都國學院」に入学しました。
以下の写真2枚は、私が十数年前に撮影した、その京都國學院の校舎です。2年間ほぼ毎日通学した、私にとっては思い出深い校舎です。

京都國學院 校舎
京都國學院 校舎玄関

階位神職の資格)が授与されて実際に私が西野神社に奉職したのは入学から2年後(京都國學院卒業の翌月)なので、神職になってからは今月で丁度18年経った事になりますが、学生として京都國學院に在学していた2年間石清水八幡宮境内の学生寮で生活し、ほぼ毎日神務実習も行なっていたため、実質、私がこの世界(神社界)に入ってからは、今日で丁度20年が経った事になります。
何だかんだでもうそんなに経ったのかと思うと、ちょっと感慨深くもあります。

 

以下の写真4枚は、私が京都國學院に入学した当時撮影されたものです。いずれも、私がこの世界に足を踏み入れたばかりの、今から20年前の平成14年4月に撮られたものです。
1枚目は、京都國學院の校舎2階にある祭式場で行なわれた入学式(私が神社界に足を踏み入れたまさにその日ですね)、2・3枚目は、入学式当日から5泊6日の日程で開催された錬成会(強化合宿みたいなもの)、4枚目は、その錬成会終了後に学生寮の前で行なわれた対面式(入寮式)の、それぞれの様子です。
ちなみに対面式というのは、既に学生寮に入寮している2年生と、この日から入寮する新1年生が寮の玄関前で対面し、それぞれ簡単な自己紹介などを行なう儀式です。

平成14年度 京都國學院 入学式
平成14年度 京都國學院 錬成会
平成14年度 京都國學院 錬成会
平成14年度 京都國學院 対面式(入寮式)

 

こうして斯界に入って20年が経った今でも、私は、神職としても一人の人間としても、まだまだ勉強や修行が必要で、恐らくこれからも少なからず失敗を繰り返し、時には周囲の方々に御迷惑をおかけてしまう事もあるかとは思いますが、この世界に足を踏み入れた20年前のあの日の初心を忘れる事なく、日々倦まず弛まず只管神職としての本分を尽くすようこれからも努めて参りますので、皆様、今後もどうか御指導・御鞭撻の程、宜しくお願い申し上げます。

石清水八幡宮での神務実習(楼門前の掃き掃除)
西野神社 社務所にて



ところで、いずれも今から10年以上も前にアップしたかなり古い記事ですが平成19年2月12日付の記事 平成20年5月17日付の記事 などでも紹介させて頂いた通り、私から遡って4代前の御先祖に当る田頭和左衛門(たがしらわざえもん、天保14年に安芸国にて広島藩士の子として誕生、明治37年に62歳で札幌にて帰幽)は、私と同じく神職でした。
私の父・祖父・曽祖父はいずれも神職ではなかったため(会社員、準公務員である公社員、公務員などでした)、私は、田頭家からは約100年ぶりに神職に就いた事になります。
この世界に入ってから今日で丁度20年という節目である事から、今回は、私と、私の先祖であるその田頭和左衛門の神職としての足跡を、改めて振り返ってみたいと思います。

 

その前に先ず、田頭家の歴史をはっきりと分るだけ遡ってみると、私から10代前の戸主に当る、田頭丈右衛門という御先祖まで遡る事が出来ます。

江戸時代初期、第2代将軍 徳川秀忠 治世の時代、浅野長政(豊臣政権下で五奉行のひとりとして活躍し、関ヶ原の戦いでは家康を支持して東軍方として活躍した武将・大名)の子であり紀伊国(現在の和歌山県)の紀州藩主だった浅野長晟(37万6千石)が、改易された福島正則(49万8千石)の後を受けて安芸国(現在の広島県)へと加増移封され(42万6千国)、広島藩の初代藩主となるのですが、その際に、紀伊国の下級武士のひとりであったらしい田頭丈右衛門(他家から田頭家に入った人物であり、それ以前の名前は村上文左衛門)は、浅野家に仕えていた家臣に連れられて、紀伊から安芸へ転居したと伝わっております。
その後、丈右衛門は元禄4年に、安芸国広島藩 浅野家に正式に召し抱えられ、元禄14年に帰幽したと伝わっておりますが、丈右衛門については、それ以外の事柄は生年も含め不明で、また、丈右衛門以前の田頭家についても、史料焼失のため残念ながら一切分りません。
そのため田頭丈右衛門が、それ以前の田頭家については全く分らない、それ以前には遡れないという意味で、現在の田頭家に於ける事実上の「祖」に位置しております。

 

田頭家が紀伊から安芸へと移った事については、私から5代前の戸主である広島藩士の田頭廣平が天保5年に書き残した、以下の文書にも記されています。
火災により系図を焼失し由緒等の記録を失った旨が記されているこの文書は、今のところ、現存する、田頭家の御先祖に関する最古の記述とされています。

田頭廣平が天保5年に書き残した文書

つまり、今では特に接点はありませんが、明治期に屯田兵として北海道の江別に入植するまで田頭家の居住地であった広島と、更にその前住地であった和歌山は、どちらも共に田頭家代々所縁の地でもあるのです。

下の写真は、廃藩置県までずっと田頭家の主家であった浅野家が居城としていた広島城です。
有力な戦国武将のひとりで、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将となった、長州藩の藩祖でもある毛利輝元安土桃山時代に築いた名城で、その後、「賤ヶ岳の七本槍」のひとりとして知られた福島正則の入城を経て、前出の浅野長晟が城主となり、以降は明治時代に至るまで12代約250年間、浅野家の居城となりました。上級武士ではなかったようですが広島藩士の身分であった田頭家の歴代戸主達(前出の田頭丈右衛門を「初代」とした場合、その丈右衛門と、以降の2代目 田頭左七、3代目 田頭番七、4代目 田頭九郎右衛門、5代目 田頭来助、6代目 田頭廣平、7代目 田頭和左衛門)も、ここに登城する機会は恐らくあったものと思います。
なお、広島城は明治以降も破却される事なく残っていましたが、昭和20年の原爆投下で大半が倒壊してしまい、現在見られる広島城内の天守以下城郭建築は、いずれも戦後に再建されたものです。

広島城(復元天守)

ちなみに、忠臣蔵で有名な播磨國(現在の兵庫県赤穂藩の浅野家(5万3千石)は、広島藩浅野家の傍流のひとつで、赤穂藩第3代藩主の浅野長矩(内匠頭)が江戸城内で刃傷事件を起こした責により切腹・改易となるまでは、その赤穂浅野家が赤穂藩主を継承していました。

下の写真は、私が先月 和歌山県高野町高野山へ行った際に参拝・見学してきた、高野山最大の信仰の中心地である「奥之院」の聖域内にある、安芸広島藩 浅野家の墓所です。
江戸時代には、北は松前家(北海道の松前藩)から南は島津家(九州の薩摩藩)に至るまで全国各地の大名が、実際に納骨している自国領内の本来のお墓とは別に、高野山奥之院にもお墓(供養塔)を建てており、これもそういった墓所のひとつとして造られたものです。

安芸 浅野家 墓所(高野山奥之院)

 

ところで、田頭家の主家であった浅野家が紀伊から安芸へと移封された後の紀伊国についても少し補足しますと、浅野家が去った後は、徳川家康の十男である徳川頼宣紀伊国へ移封され(55万5千石)、以降、紀州藩(但し版籍奉還後に定められた正式は藩名は和歌山藩)は明治2年の版籍奉還まで、徳川御三家のひとつである紀州徳川家(頼宣の子孫)が代々藩主を継承していきました。
第7代将軍であった徳川家継の死により秀忠や家光の男系子孫の血脈が途絶えると、家康の曾孫であり当時紀州藩主であった徳川吉宗が徳川宗家を継いで幕府の第8代将軍に就任し、以降の徳川将軍は、最後の将軍である水戸徳川家出身の慶喜を除くといずれもその吉宗(紀州徳川家とその連枝)の血統から輩出されたのは有名な話です。

下の写真は、和歌山市の中心部に聳える標高約50メートルの虎伏山の山頂に位置する和歌山城です。紀州藩主を継承した浅野家や紀州徳川家が居城とした、和歌山の象徴として知られる梯郭式平山城です。

和歌山城

和歌山城は改修や再建を繰り返しているため時代によって違った姿を見せていますが、城そのものは安土桃山時代に築城されており、浅野家が紀州藩主だった時代には既にここに建っていたため、紀伊にいた当時の田頭家の人達も、この美しいお城の光景は見ていたものと思われます。

 

そして、時代が進んで明治4年、廃藩置県が断行されたり散髪脱刀令が布告されたり岩倉使節団が欧米に派遣されるなどした激動のこの年に、今回の記事のタイトルにもなっている田頭和左衛門が、義父(妻おちよの実父)である田頭廣平より家督を継いで田頭家の戸主になりました。
廃藩置県により田頭家歴代の中では最後の広島藩士となった和左衛門は、田頭家を継いだ後、明治9年に、神宮教広島本部長の藤井稜威に就いて国学を1年半程学び、神職としての素養を深めて翌10年に修了、明治17年には神風講社周施係の命を受けました。そして同年、田頭家の宗旨は、浄土宗から神社神道へ正式に改宗されました。
なお、ここでその名前が登場した「神宮教」というのは、伊勢の神宮を信仰する伊勢講を母体とした教派神道の一派で(団体としてはそれ以前からありましたが教派神道としては明治15年に成立)、明治32年には財団法人神宮奉斎会に発展改組され、昭和21年には、その神宮奉斎会と、大日本神祇会皇典講究所の3団体が合同する形で、現在の神社本庁が設立されました。また、神風講社というのは、神宮教傘下の講社の事です。

ちなみに、前出の、田頭家が紀伊から安芸へ移った時代の田頭家戸主 丈右衛門を「田頭家の初代」と位置付けた場合、和左衛門は田頭家第7世代であり、田頭家本家7代目の戸主に当たり、その数え方を続けると私(田頭寛)は、第11世代になります。
但し、和左衛門の息子である馬太郎の世代以降は、同一世代間での戸主継承(家督相続)があったため、何世代目かという世代数と、歴代戸主としての代数は一致しなくなり、そのため、旧来の家族制度(現在のように核家族化が著しく進行する以前の、家長・戸主を中心とした複数世代同居の大家族制、同族の中で本家・分家と位置付けられた親族家族生活構成)が今もそのまま続いていたとしたら、私の父が第10世代で本家14代目戸主、私は、第11世代で本家15代目戸主となります。あくまでも、「旧来の家族制度が今もそのまま続いていたとしたら」という仮定の話ではありますが。
実際には、田頭家に於いて「本家や分家」「本家の当主」などの概念が日常の中で生きていたのは、私の祖父母の世代までだったと思います。

 

ところで、和左衛門は広島では宮大工としても活動していたと伝わっております。具体的にいつから宮大工になったのか、そもそもどうして宮大工になったのか、そのあたりの経緯は不明ですが、明治になってからは秩禄処分により、士族といえども「元藩士」という立場だけでは生活が苦しく、それまで経験した事のない新たな職に就く士族が多かったそうなので、恐らくは当時のそういった厳しい世情も深く関係していたのでしょう。
勿論、社家出身でないにも拘わらず国学を学んで神職としての教養を深めた程の人物ですから、いくつもの職種がある中であえて宮大工を選んだのは、単に生活のためだけではなく、自身の個人的な信仰心・信念とも深く関わっていたとは思いますが。

 

そして明治19年、当時44歳であった和左衛門は、一大決心をして同郷の広島藩士10家族と共に北海道へ渡りました。当時18歳であった長男の田頭馬太郎に家督を譲り、馬太郎が田頭家の新たな戸主として屯田兵に志願し、和左衛門はその家族として、明治11年に開村されていた江別屯田村(現在の江別市)に入村したのです。

屯田兵は国防と開拓に従事するため、志願者は「17歳以上、30歳以下の士族」と定められており(明治22年には「身長が五尺以上」「体質は剛健にして兵農の動作に耐える者」などの条件が新たに追加され、翌23年には、逆に「士族」という条件が撤廃され、平民でも屯田兵に応募出来るようになるなど、時期によって応募条件には多少の変化がありましたが)、当時既に40歳を超えていた和左衛門は年齢的に屯田兵に応募する事は叶わなかったため、まだ若かった馬太郎に志願させ、自身はその家族のひとりとして江別に入植する方策を採ったものと推測されます。
ちなみに、この時江別に入植した和左衛門・馬太郎達家族一行の中には、和左衛門の義父である廣平(当時74歳)や、馬太郎の妹であるイサヨ(当時10歳)なども含まれていました。

下図は、令和4年4月現在、江別市公式サイト内の「江別の屯田兵」のページに掲載されている江別屯田配置図(当時の江別屯田村の地図)です。この図はクリックすると拡大表示されますので、是非拡大の上御覧下さい。
地図の中の、最上段の区画(屯田司令官永山武四郎追給地の左隣の区画)に、当時の田頭家の戸主「田頭馬太郎」の名が記されています。

江別屯田配置図

田頭馬太郎という人物についてもいろいろとエピソードがあるのですが、今回の記事の内容・趣旨とは特に関係の無い事なので、ここでは割愛します。

 

そして廣平・和左衛門・馬太郎の3代3人(和左衛門からみて義父・本人・長男)とその家族一行の入村から4年後の明治23年、現在の江別神社の前身に当る飛鳥山神社の創建について、陸軍屯田兵第三大隊長の野崎貞次少佐から和左衛門に呼び出しがかかり、具体的な詳細は不明なのですがこれを受けて和左衛門は飛鳥山神社の創建に奔走し、翌24年、同神社での初まつり斎行にこぎつけたと云われています。
神職と宮大工、両方のスキルがあった和左衛門には、開拓地での神社創建というプロジェクトの担当は、まさに適任だったと言えるでしょう。

田頭和左衛門と飛鳥山神社(江別神社)との関わりについては、以下の3枚の画像(文書)にもそれぞれ具体的に記されています。いずれの画像もクリックすると拡大表示されますので、興味のある方は拡大の上、御一読下さい。
1枚目の文書は「江別屯田村120年の歩み」(江別屯田兵遺族会編集、平成10年3月発行)から、2枚目の文書は「江別屯田兵村史」(江別市役所編集、昭和57年8月発行)から、3枚目の文書は「北海道史研究協議会 会報第38号」(昭和61年5月発行)から、それぞれ転載したものです。

「江別屯田村120年の歩み」より抜粋
「江別屯田兵村史」より抜粋
「北海道史研究協議会 会報第38号」より抜粋

上の各文書によると、和左衛門は、飛鳥山神社創建に関する見積書や図面などを自ら作成してそれを野崎大隊長ら発起人に提出したり、大国主大神様の御分霊を出雲大社からお迎えして飛鳥山神社の御祭神にするなど、神社の創建には中心的な人物としてかなり深く関わっていた事が窺えますが、飛鳥山神社の宮司もしくは社掌であったとする記述は無く、具体的にどういった立場・職名で関わっていたのかは不明です。

ちなみに、上の文書のひとつ「江別屯田村120年の歩み」の中には、「田頭馬太郎の義父田頭和左衛門」という記述が見られますが、田頭家に伝わっている家系図に於いては、和左衛門と馬太郎は義父・義子ではなく、実父・実子の関係です。その一世代前に当る、廣平(田頭家6代目)と和左衛門(田頭家7代目)が、義父・義子の関係だったので、それが混同されたものと推測されます。

 

下の写真は、平成16年5月(私が西野神社に奉職した翌月)に江別市飛鳥山公園内にある開村記念碑前で、江別屯田兵遺族会の主催、江別神社宮司の斎主御奉仕により斎行された「江別屯田兵村 開村記念祭」の直後に撮影された、参列者一同の集合写真です。
この時は私も、江別屯田兵の遺族のひとりとして参列させて頂きました(最後列の左端に写っているのが私です)。田頭家の歴代戸主3人(廣平・和左衛門・馬太郎)がひとつの家族として同時に江別兵村へ入村しているため、その3人のうち誰を起点とするかによって数え方は変わりますが、屯田兵に志願した当人である馬太郎を屯田兵世代の初代とすると、私は4代目(田頭家が北海道に入植してから4世代目)になります。

平成16年度 江別屯田兵村 開村記念祭

明治24年から28年までの間のいずれかの年(具体的に何年かは史料によって違いがあります)に現在の江別神社の鎮座地である萩ヶ岡に移転するまでは、この開村記念碑の立つ地に、飛鳥山神社が鎮座していました。

 

そして、飛鳥山神社が創建された後、和左衛門は明治34年に空知郡栗沢村(現在の岩見沢栗沢町)に鎮座する栗部神社の、明治36年には空知郡市来知村(現在の三笠市宮本町)に鎮座する市来知神社の、明治37年には空知郡幌内村(現在の三笠市幌内本沢町)に鎮座する幌内神社の、それぞれ社掌(宮司)に任じられ、神職として各神社で神明奉仕をし、そして幌内神社の社掌となった数か月後、当時の札幌市立病院にて62年の生涯を閉じました。

田頭和左衛門の神職としての辞令各種

 

北海道神社庁公式サイトの中にあるコンテンツ「北海道の神社」には、神社本庁の包括下にある道内全ての神社の詳細なデータが掲載されておりますが、かつて和左衛門が社掌を任じられた上記神社のうち幌内神社については今もそこにデータが掲載されており、令和4年4月現在、その「北海道の神社」の幌内神社のページには、同神社の由来等は以下のように記されています。

当幌内神社は明治13年無格社として当時の幌内炭山の鎮守の山神として奉斎し社守として岡本某奉仕、明治15年榎本武揚参拝の節社号額面を奉納、明治35年炭砿汽船株式会社専務井上角五郎のはからいにて大三嶋神社より御分霊を奉戴、明治35年4月幌内神社と公称し、其の間社守2名を経て社掌田頭和佐ヱ門が着任したが同36年死亡した。明治38年10月山形友蔵が岩見沢神社より本務社掌として着任(22才)。神社は炭砿と共に盛衰を繰返し一時は氏子数3000を数えたが閉山の為当宮司も転出し、現在兼務社として奉仕。奥深い人里はなれた地に近年まで昔日の面影を留めていたが、平成13年の雪害にて社殿が大破した。しかし宮司の本務社峯延神社に難を避け再建に向けて協議中であるが祭典は平常に斎行している。宝物は峯述神社に殿舎を建立しお守りして現在に至る。

 

雪害による大破により取り壊された本殿は現在も再建されておらず、実際に幌内神社にお参りに行った人達がネットにアップしている写真や動画などを見る限り、神社としては事実上廃社となっているに近いような状況で、その現状は寂しく残念な限りですが(但し辛うじて例祭は今でも現地で斎行されているようです)、兎も角ここ(前出の二重カギ括弧内の緑色の文章)にも、田頭和左衛門の名前が登場しています。
但し、ここでは和左衛門は明治36年に死亡したとあり、没年が明治37年と伝わる田頭家の伝承とは一年のズレがありますが、前出の画像内にある、和左衛門に実際に出された辞令によると、和左衛門が幌内神社の社掌に任じられたのは明治37年となっており、既に死亡している者に対してそのような辞令が発令される事は有り得ないため、この死亡年については、田頭家側の記録が正しく、神社庁側の記録が間違っていると思われます。

幌内神社のデータ

ちなみに、幌内神社由来(前出の二重カギ括弧内の緑色の文章)の冒頭にある通り、幌内神社は元々「幌内炭山の鎮守の山神」として創建されたのですが、その幌内炭山(幌内炭鉱)については、官営幌内鉄道について詳述した平成20年10月14日付の記事でも解説しておりますので、興味のある方はそちらも併せて御一読下さい。

 

なお、和左衛門が社掌を任じられた神社のうち、栗部神社と和左衛門の関係については、溝口石材工業のサイト内の以下のページに『明治34年1月部内住民相謀って、部落に永続資金法を確立するとともに、天照大神産土神として5月28年、坂東喜助、鷲田利作、高田與吉が神社創立発願者となり、野幌神社社掌田頭和左衛門を煩わせ神社創立を出願した』という記述が見られます。
http://www.ishiyasan.co.jp/zinzyahoumon/kuribe/index.html



そして、田頭和左衛門が亡くなって暫くしてから、田頭家は江別から札幌へと移り、苗穂、大通などを経て大正期には山鼻に落ち着きました。昭和18年に田頭家の戸主となった私の祖父・文太郎は既に山鼻(札幌市電の山鼻線の沿線エリア、札幌護国神社の近く)に住居を構えており、私の父はその家で育ちました。平成29年に解体されたため、その家屋はもう現存しませんが。

そうして、昭和後期に札幌で生まれた私が、田頭家からは和左衛門以来約100年ぶりに神職となり、現在に至ります。
私が神職になった理由やその経緯などについては、前出の平成19年2月12日付の記事 で詳述しておりますので、興味のある方はそちらを御一読下さい。

また、私が神社に奉職してからの、青年神職としての活動等(神道青年会での会務や、PCを活用した諸々の作業など)については、令和2年3月31日付の記事令和3年3月24日付の記事などで私の思う所を述べさせて頂きましたので、もし興味のある方はそちらも是非御一読下さい。

田頭寛の神職としての辞令各種



下の写真で、衣冠(正服)を着ている私が手にしている笏(しゃく)は、私の祖父母の家で保管されていた、田頭和左衛門が神明奉仕の際に使用していた笏です。
現在は既に故人となっている祖父母が健在だった当時、和左衛門の遺品である、これを含む数本の笏を私が譲り受けました。いずれも明治時代の古い笏ではありますが、そのうち数本の笏は現在も私が実際に使わせて貰っています。

石清水八幡宮書院にて



以下の画像5枚は、いずれも田頭和左衛門が作文した祝詞を、私がデジカメで撮影したものです。このままだと小さすぎて文字が判読出来ないものもありますが、それぞれの画像はクリックすると拡大表示されますので、興味のある方は是非拡大させた上でお読み下さい。
和左衛門が作文したこれら、北海道の民社に於ける明治期の祝詞は、我が家に百折以上残されていますが、それらの中でも以下の5折は、いずれも今回の記事に社名が出てきた神社の大前で和左衛門が奏上したと思われるものです。

 

江別神社に於ける祝賀祭 祝詞
▲ 江別神社に於ける祝賀祭 祝詞

 

市来知神社例祭 祝詞
▲ 市来知神社例祭 祝詞

 

栗部神社秋祭 祝詞
▲ 栗部神社秋祭 祝詞

 

幌内神社新嘗祭 祝詞
▲ 幌内神社新嘗祭 祝詞

 

幌内神社に於ける日露戦争戦勝祈願 祝詞
▲ 幌内神社に於ける日露戦争戦勝祈願 祝詞

 

江別神社・市来知神社・栗部神社・幌内神社それぞれの大前で奏上されたらしい、上の5折の祝詞以外にも、篠津神社秋祭祝詞中篠津神社秋祭祝詞稲荷神社初午祭祝詞本殿遷宮祭祝詞神葬祭の祭詞など、和左衛門が作文した各種の祝詞・祭詞は今も田頭家に残されています。



広島で国学を修め神職としての教養を深め、宮大工としての技術も培い、その上で、何の縁も所縁も無かった北海道に渡り、江別で開拓事業に従事しながら石狩や空知などのいくつもの神社の創建・維持に関わり、北海道に根を張って神職として人生を全うした御先祖・田頭和左衛門の志の高さやその実績には遠く及ばないものの、私もその子孫として、ひとりの神職として、そして西野神社の職員として、これからも迷う事なく神職としての大道を歩んでいきたいと思います。

なお、今回の記事を作成するに当たっては、下の写真に写っている資料3冊を大いに参考にさせて頂きました。

田頭家の歴史に関する資料

右側上段の資料は、私の5代前の先祖である田頭廣平が明治5年にまとめたもの、右側下段の資料は私の祖父である田頭文太郎が昭和57年にまとめたもの、そして左側の資料(緑色の表紙)は、私の父である田頭卓久が平成29年にまとめたもので(但しこの写真に写っている田頭廣平記述の資料と田頭文太郎記述の資料はどちらも原本ではなく、田頭卓久作成の資料の巻末に掲載するため原本を縮小コピーしたものです)、この表紙の中央に記されている卍のようなマークは田頭家の家紋です。

 

 

文責:西野神社権禰宜 田頭