まん延防止等重点措置も先月で解除され、漸く、堂々とまた旅行が出来るようになりました。
というわけで私は先日、神社から2連休を貰いその連休を利用して、常時マスクを着用しソーシャル・ディスタンスを保つなどの感染症対策を心掛け勿論ワクチンも接種した上で、和歌山県に行ってまいりました。
ちなみに、前々回の記事で詳述した通り、和歌山県は、歴史的には我が田頭家所縁の地(多分 田頭家発祥の地)でもあります。

今回の旅行の主な目的地は、和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野の標高約450mの天野盆地に鎮座する「丹生都比売神社」と、同県伊都郡高野町の標高約850mの山上盆地に広がる真言密教の聖地「高野山」の2箇所です。
厳密には、丹生都比売神社は神社神道、高野山は大乗仏教の真言宗という、それぞれ異なる宗教の聖地ですが、広い意味に於いては、どちらも古来より「神仏習合」という同根の信仰が今に到るまで連綿と続く、神仏の協調・融和を象徴する地であり、いろいろと共通事項の多い聖地です(歴史的にはどちらも弘法大師空海と深い関わりがあり、そもそも明治の神仏分離以前は、丹生都比売神社と高野山は実質不可分な山岳霊場として一体化していました)。
ちなみに、高野山というのは、周囲を1,000m級の山々に囲まれた、東西約5km、南北約2kmの細長い山上盆地に広がる、高野山真言宗総本山の金剛峯寺を中心とした地域・街並み・宗教都市の通称であり、実は、高野山という名の山は存在しません。


下の絵図(この図はクリックすると拡大表示されます)は、国立国会図書館が所蔵している「高野山略図」という古地図です。その名の通り、昔の高野山の絵地図ですが、地図の左上には天野(現在の丹生都比売神社)の鳥居や4棟の本殿なども描かれており、高野山と丹生都比売神社の古来からの密接な関係が読み取れます。

① 天野の里の丹生都比売神社
和歌山県に着いた私は、先ずは和歌山市から かつらぎ町へ向かい、同町の山間に鎮座する丹生都比売(にうつひめ)神社を、参拝・見学してまいりました。
1700年以上も前に創建されたと伝わる我が国有数の古社である丹生都比売神社は、摂末社も含めると全国に約180社あると云われる、丹生都比売神様をお祀りする神社の総本宮で、天野の里に鎮座する事から「天野大社」「天野四社明神」などの別称でも知られています。
播磨国風土記によると、第15代天皇である応神天皇(西野神社御祭神の一柱である譽田別命様)が、社殿や紀伊山地北西部一帯の広大な土地を、御神領として寄進されたそうです。
以下の写真8枚はいずれも、この度私が撮影した、同社の近辺・境内・楼門などの景観です。この時は午前中の比較的早い時間帯だった事もあり参拝者が少なかったため、静かにゆっくりと参拝・見学させて頂く事が出来ました。








下の写真は、境内の一画にある、寛文2年(1662年)に建立された「光明真言曼陀羅碑」(こうみょうしんごんまんだらひ)です。正面には、円形の部分に中央下から時計の進む方向に、光明真言の梵字が、背面には多数の僧侶の名前が多数刻まれております。
神仏習合的な石碑というよりは、真言密教そのものな石碑であり、丹生都比売神社が神仏分離以前は高野山と実質一体であった事を示す遺構のひとつとも言え、興味深いです。

かつての丹生都比売神社は、式内社、紀伊国一宮、官幣大社であり、現在は、神社本庁包括下の別表神社であり、同神社の本殿・楼門・境内などは高野山と共に、ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」にも登録されています。
鎌倉時代、元(げん)による対日軍事侵攻という極めて重大な国難に当って、鎌倉幕府は天野社(現在の丹生都比売神社)に戦勝を祈願したところ、同社から数千羽のカラスが一斉に飛び立って暴風が巻き起こり、これによって元の軍船は壊滅したとも云われており、その御神威と功績を讃えて幕府は同社に所領を寄進し、更に「紀伊国一宮」の称号を授けたと云われています。
ちなみに、紀伊国の一宮は3社あり、あとの2社は、日前宮(日前神宮・國懸神宮)と伊太祁曽神社です。
② 丹生都比売神社の神様
一軒社春日造の建築様式としては日本最大規模を誇る丹生都比売神社本殿(室町時代に再建されて以降 数十年毎に大規模な修復工事が行なわれており、現在の本殿は平成26年に造営されました)でお祀りされている御祭神は4柱です。

本殿は、第一殿から第四殿まで4棟あり(いずれも同形式で同規模)、横1列に並んで配置され、以下の通り、各棟に御祭神が一1柱ずつお祀りされています。
【第一殿】丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)様
天照大御神様の妹神である稚日女尊様と同一神とされています。紀ノ川流域にある三谷(現在の紀の川市周辺)に降臨された後、御自身の御子である第二殿の高野御子大神様と共に、紀伊や大和の一帯を巡り人々に農耕殖産を教え、最後にこの天野の地に鎮座されました。諸々の災いを祓い退け、一切のものを守り育てる女神で、不老長寿・農業・養蚕・織物などの神様でもあります。民俗学的には、「丹生」の2文字は辰砂(しんしゃ)と深い関わりがある事から、塗料や薬用として辰砂の鉱石から採取される朱(朱砂・丹・硫化水銀など)を守る「朱の神」であり、また、天野の地は紀ノ川の水源であり同社御神領が周辺河川流域のほぼ全域を占めている事などから「水の神」であるとされています。
【第二殿】高野御子大神(たかのみこのおおかみ)様
第一殿の丹生都比売大神様の御子であり、高野明神(こうやみょうじん)や狩場明神(かりばみょうじん)などの通称でも知られています。御祭神4柱の中では唯一の男神で、人生の幸福への導きの神様とされています。
【第三殿】大食津比売大神(おおげつひめのおおかみ)様
鎌倉時代に、越前国一宮で旧官幣大社の気比神宮から勧請されました。気比明神の通称でも知られている、あらゆる食物に関する守り神様で、食べ物を司る神様です。
【第四殿】市杵島比売大神(いちきしまひめのおおかみ)様
鎌倉時代に、安芸国一宮で旧官幣中社の嚴島神社から勧請されました。嚴島明神の通称や、七福神の弁天様、財運・芸能の神様などとしても広く知られています。

丹生都比売神社公式ホームページによると、「四社明神」とも総称される同神社の御祭神4柱は、「弘法大師空海に高野山を授けた神として、またすべての災厄を祓う神として広く崇敬されています」との事です。
ちなみに、本殿直ぐ隣の社殿「若宮」には、同神社の発展に尽くした行勝上人(ぎょうしょうしょうにん)とい、鎌倉時代の真言宗僧侶が御祭神としてお祀りされています。本殿第三殿の気比明神様や第四殿の嚴島明神様をそれぞれ気比神宮や嚴島神社から勧請したのは、この行勝上人です。
丹生都比売神社御祭神の一柱であるl、第二殿の高野御子大神様(狩場明神様)は、2匹の犬を連れた狩人に化身して空海の前に現れ、空海を高野山へと導き、丹生都比売神社の御神領であった高野山を空海に授けたと云われています。高野山で丹生都比売神社の御祭神が今も祀られ大切にされているのは、そういった伝承に因ります。

空海は、丹生都比売神社から高野山を譲り受けた事に感謝すると共に、神様からの更なる御加護を願って、高野山の中心地である壇上伽藍の西端に、この後の④項で詳述する「御社」(みやしろ)という神社を建ててお祀りして、高野山を開山しました。
そういった歴史的経緯から、丹生都比売神社は高野山開山以来、高野山の地主神・守護神とされ、今も高野山などの僧侶の参詣が多く、社頭では参詣者により神前読経も行なわれるなど、神仏習合の雰囲気を色濃く残しています。
以下の写真2枚は私が撮影したもので、神仏習合のお宮らしく、境内では護摩木の奉納受付をされていました。


以下の写真は、今回の参拝で私が丹生都比売神社の授与所にて拝受した、同神社御祭神四柱が描かれた絵図(四社明神像)の掛け軸と、その解説用紙です。
掛け軸の大きさは、一般的な家庭用仏壇などに飾られる仏画と同じような感じで小さいですが、このサイズで仏画ではなく、神社の御祭神を描いたものというのは、多分珍しいのではないでしょうか。


③ 高野山内各所に鎮座するお宮
丹生都比売神社を参拝・見学した後、私は高野山へ行ってまいりました。
高野山へは過去にも行った事がありますが、私が前回高野山へ行ったのは京都國學院を卒業した当日の夕方、札幌へ帰る前に立ち寄って山内で一泊してきた時なので、20年ぶりの再訪となりました。
高野山に於ける最大の聖地は、「壇上伽藍」と「奥之院」という2大エリア、所謂「両壇」ですが、南海鋼索線(高野山ケーブルカー)の高野山駅から南海りんかんバスで高野山へと入った私は、そのままバスで両壇へは直行せず、先ず「女人堂前」で下車し、そこから徒歩で金剛峯寺や両壇へ向かいました。
そして、金剛峯寺に着くまでの途中、以下に紹介する通り、その沿道で見かけたいくつかのお宮も参拝・見学してきました。
以下の写真2枚は、高野山に鎮座している、鬼子母神をお祀りする小祠です。
鬼子母神は仏教系の神様(仏教を守護する天部の一尊なので、正確には神様ではなく仏様に分類されると思いますが)で、「きしもじん」もしくは「きしぼじん」と読み、一般には、法華経の守護神として日蓮宗や法華宗の寺院でお祀りされる事が多いようです。


この鬼子母神という神様は、元々(仏教に取り込まれる以前)はインドの庶民信仰の女神で、「ハーリティー」や「カリテイモ」(訶梨帝母)などの神名で知られ、人間の子供を食べる恐ろしい食人鬼でしたが、後に釈迦の教化によって改心し、仏法と子供を守る守護神になったと云われています。
日本では、「入谷鬼子母神」の通称や「恐れ入りやの鬼子母神」の狂歌などで知られる東京都台東区の真源寺、「雑司ヶ谷鬼子母神」の通称で知られる東京都豊島区の法明寺飛地境内にある鬼子母神堂、「中山の鬼子母神」と親しまれている千葉県市川市の法華経寺境内にある鬼子母神堂などが、鬼子母神系では特に有名かなと思います。
以下の写真6枚は、高野山に鎮座している、「正一位 白鬚稲荷大明神」という幟が立っていた稲荷神社です。
高野山は、言わずと知れた高野山真言宗という仏教の宗派の一大聖地であり、総本山金剛峯寺を中心に多くの同宗寺院(金剛峯寺の子院)が密集しておりますが、その高野山には、このように仏様ではなく神様をお祀りしている神社も少なからず鎮座しています。
ただ、調べたわけではないので断言は出来ませんが、さすがに常駐の神職は、高野山には恐らく一人もいないのではないかと思います。こういったお宮での日々のお祀りは、僧侶もしくは近隣の住民(氏子崇敬者)がされているのではないかなと推測します。






ところで、稲荷大神様と空海は、実は深い関係があります。両者の関係には様々な伝説がありますが、特に代表的なものとして、東寺(東寺真言宗総本山の教王護国寺)に纏わる2つのエピソードを以下に紹介します。但し、これらはあくまでも東寺からの視点で語られている伝説(神社よりも寺院が上位に立っていた当時の、両者の関係性を踏まえたエピソード)です。
『修行中であった空海のもとに、身の丈が8尺もある老翁が現れ、歓待した空海に対して仏法興隆に協力する約束をして別れた。その7年後、東寺の空海のもとにその老翁が稲を持って現れた。その老翁こそ、伏見稲荷大社の祭神である稲荷大神であった。』
『顔が龍に似ている事から龍頭太と呼ばれる男が稲荷山に住み始めた。その男が稲荷山で修行中の空海に対して、「自分は稲荷山の山神である。もし真言密教の教えを私に授けてくれるなら、仏法護持のため力を尽くそう」と言い、感動した空海は、龍頭太の顔を面に彫り、稲荷山に納めた。』
史実としては、823年(弘仁14年)に空海が嵯峨天皇より東寺を下賜されて、東寺に於いて大規模な造営事業に着手した際、特に五重塔の建立に当って、伏見稲荷大社の御神領である稲荷山から用材を調達し、この事により、稲荷大神様に対して従五位下の神階が与えられ、稲荷大神様は東寺の鎮守神として迎えられました(その後昇階を重ね、最終的に神階は最上位の正一位まで上がりました)。
ちなみに、嵯峨天皇より下賜された事で東寺は真言密教の根本道場として位置付けられ、延喜19年(919年)に東寺長者の観賢僧正が金剛峯寺座主職を兼任してから、天文3年(1534年)までの間は、東寺長者が高野山の座主も兼ねており、そういった経緯から高野山と東寺は歴史的にも深い関係性を保っています。
比叡山の天台密教を「台密」というのに対して真言密教を「東密」というのは、東寺の密教という意味でもあります。
以下の写真5枚は、それぞれについての解説は割愛しますが、いずれも私が今回高野山の各所で見かけた、鳥居や、神社建築様式の小祠です。
厳密には、これらの中には神社というよりは仏堂に近い性格のもありますが、とりあえず外見など形状については、どれもほぼ神社のような感じです。





以下の写真3枚は、江戸幕府第3代将軍の徳川家光が金剛峯寺の裏手に造営し、20年の歳月を費やして寛永20年(1643年)に完成した、豪華絢爛な「徳川家霊台」です。
東照宮(家光の祖父である初代将軍 家康)霊屋と、台徳院(家光の父である第2代将軍 秀忠)霊屋の2棟が並列に建ち、それぞれが透塀で囲まれ、正面にはどちらにも唐門があります。



徳川家霊台の中核を成すどちらの霊屋も、一重宝形造(いちじゅうほうぎょうづくり)という同じ形式の建物ですが、霊屋の一方である東照宮の前にだけは鳥居が立っており、これは、家康が東照大権現(東照宮の御祭神、神階正一位)として神格化されている事に因ります。
鳥居が立っているため、そのような事情を知らないで一見すると神社に見えなくもないのですが、これらはあくまでも霊廟です。
④ 高野山壇上伽藍の御社とその神様
徳川家霊台、総本山金剛峯寺、大門、霊宝館などを見学した後は、壇上伽藍へ行ってきました。
前述のように高野山では、密教の修行道場である「壇上伽藍」と、弘法大師が禅定されている「奥之院」が、事実上の二大聖地ですが、そのうちの一方であるここは、空海が高野山を開山した時に先ず始めに拓いたとされるエリアです。
この聖域には、壇上伽藍の正門に当たり伽藍浄域の結界を象徴する「中門」(以下の写真の1枚目)や、高野山一山の総本堂であり金剛峯寺の年中行事の大半が勤修される「金堂」(以下の写真の3枚目)、真言密教の根本理念を表わす象徴的な建物であり高野山のランドマークにもなっている巨大な「根本大塔」(以下の写真の4枚目)、真如親王が描いた入定前の弘法大師御影を本尊としてお祀りする「御影堂」、その他諸々の諸堂が建ち並んでおり、極めて宗教的で実に密教的な、独特な景観を形作っております。
唐に留学中の空海が三鈷杵(さんこしょ)という法具を日本に向けて投げたところ、それが日本まで飛来し最後はここに引っかかって落ちたという伝承で有名な「三鈷の松」も、この壇上伽藍にあります。




その壇上伽藍の西端に、「御社」(みやしろ)という神社と、その御社の拝殿に相当する「山王院」(さんのういん)が、それぞれ鎮座しております。
御社は、空海が高野山開創に際して天野の丹生都比売神社から、高野山の鎮守として勧請した神社で、丹生都比売明神様と気比明神様の2柱を御祭神とする「第一の宮」という本殿、高野狩場明神様と厳島明神様の2柱を御祭神とする「第二の宮」という本殿、そして、十二王子様と百二十伴神様をお祀りする「総社」(第三の宮)を加えた、3棟の社殿から成っているお宮で、山王院は、その御社の直ぐ手前に位置しています。

建築様式は、「第一の宮」と「第二の宮」はどちらも春日造(かすがづくり)、「総社」は三間社流見世棚造(さんげんしゃながれみせだなづくり)、「山王院」は両側面向拝付入母屋造(りょうがわめんこうはいつきいりもやづくり)です。
配置は下図の通りで、手前から奥に向かって、鳥居、山王院(御社の拝殿に相当)、鳥居、御社(山王院の本殿に相当)、というふうに縦列に建ち並んでおり、最奥部の御社三棟については横一列に建ち並んでいます。
ちなみに、山王院という名前の由来は、地主神の事を「山王」といい、その山王を礼拝する場所であるという事に因るそうです。

以下の写真6枚のうち、1枚目は鳥居と山王院の正面、2枚目は斜め前から見た山王院、3・4枚目は斜め前から見た御社、5・6枚目は御社の正面です。






御社や山王院では、現在でも僧侶によって日々神前読経が行なわれており、古来の神仏習合の形態を留めている神社として大変興味深いです。
高野山の各寺院では、弘法大師を讃えて常々「南無大師遍照金剛」(読み方は、なむだいしへんじょうこんごう。意味は、弘法大師空海に帰依します)と唱えると共に、御社の「明神様」も称えて「南無大明神」(なむだいみょうじん)と唱えているそうです。
仏教の聖地に鎮座する、僧侶によりとても大切に守られている神社、といえます。
なお、高野山には、旧暦の5月3日に密教学の成果を討議する「堅精(りっせい)の論議」という儀式があるのですが、その儀式は、四社明神の御前である山王院にて行なわれます。論議者を堅儀(りゅうぎ)、判定者を精儀(せいぎ)といい、これに当る僧侶は、丹生・高野両明神を自坊に迎え、1年間お祀りしながら勉学に精励するそうです。
ちなみに、山王院では毎月16日、月並法会も執り行われています。
下の画像は、金剛峯寺が所蔵する重要文化財の「狩場明神像・丹生明神像」です。
宮廷女性の装束姿で描かれている丹生明神様の上には胎蔵界大日如来の梵字が、筋骨逞しい赤色身で描かれている狩場明神様の上には金剛界大日如来の梵字がそれぞれ示され、両柱が両界曼陀羅のように本来一体であるとする真言密教の根本哲理が表現されています。神仏習合を象徴する代表的な絵のひとつといえます。

下の画像は、金剛峯寺が所蔵する重要文化財の「弘法大師・丹生高野両明神像(問答講本尊像)」です。
これは、天野社(現在の丹生都比売神社)で正応4年(1291年)に始行された問答講の本尊像で、唐装の丹生明神様と束帯姿の高野(狩場)明神様の上に弘法大師が描かれている、三尊形式を採っています。
三尊の上方には高野山奥之院の景観が、下方には天野社の社頭景観もそれぞれ描かれており、空海が結んだ神仏の絆を象徴する絵といえます。

それにしても、高野(狩場)明神様は、狩人だったり束帯姿だったり、その時に応じて全く印象の異なる姿で描かれており、興味深いです。西野神社御祭神の一柱である八幡様(誉田別命様)も、稚児姿だったり束帯姿だったり僧形だったり、いろいろな姿で顕現されていますけどね。そういえば、奈良時代末期には既に菩薩の称号で呼ばれるなど、八幡様も神仏習合を体現する神様でした。
⑤ 高野山の各所を巡って
高野山の、その他の場所(金剛峯寺、宗務所、奥之院など)については、ツイッターに私の思う所や写真などをアップしておりますので、もし宜しければ以下の各ツイートも、返信(スレッド)も含めて是非御一読下さい。
高野山では「高野山真言宗総本山 金剛峯寺」も、参拝・見学してきました。
— 西野神社権禰宜 田頭寛 (@h_tagashira) April 6, 2022
金剛峯寺は、奥之院弘法大師御廟を信仰の中心として結成された末寺3600か寺、信徒1千万の総本山です。 pic.twitter.com/hd6Dg8K7XX
高野山真言宗の宗務・宗政の中心施設となる「高野山真言宗 宗務所」です。
— 西野神社権禰宜 田頭寛 (@h_tagashira) April 6, 2022
総本山金剛峯寺に隣接している建物で、金剛峯寺の寺務所も兼ねているようなので、神社界に置き換えて例えるなら、東京の神社本庁と伊勢の神宮司庁が同じ場所にあって、ひとつの庁舎を共有しているような感じでしょうか。 pic.twitter.com/7zCbQdDddV
清浄心院に宿泊した翌日は、奥之院に行ってきました。
— 西野神社権禰宜 田頭寛 (@h_tagashira) April 6, 2022
早朝の朝靄の中、奥の院へと続く約2kmの、林立する墓石群の中の参道を初めて歩いた時は、その極めて宗教的な雰囲気(死んだ後に一人であの世に向かって歩いているような不思議な感じ)に圧倒され、それ以来ずっと再訪したいと思っていました。 pic.twitter.com/hwftXrH7qW
①高野山奥之院参道の風景
— 西野神社権禰宜 田頭寛 (@h_tagashira) April 6, 2022
奥之院参道の一の橋から御廟橋までの間で私が参拝・見学などした写真をアップします。
ちなみに、御廟橋から先は写真撮影禁止なので、御廟橋から先の区画で撮った写真はありません。 pic.twitter.com/Txf6ccsK0V
①高野山奥之院エリアの、戦争関係の慰霊碑・供養塔
— 西野神社権禰宜 田頭寛 (@h_tagashira) April 7, 2022
特に英霊殿の周辺には、大東亜戦争無縁戦死之墓、大東亜戦争一般無縁者之墓、沖縄戦戦没者供養塔、昭和殉難者法務死追悼碑など、戦争関連碑が集中しています。 pic.twitter.com/4cQ3fM0yOH
①高野山奥之院エリアの、会社関係の墓碑・慰霊碑
— 西野神社権禰宜 田頭寛 (@h_tagashira) April 7, 2022
その会社を象徴するようなユニークな形状(UCCであればコーヒーカップ、ヤクルトであれば飲料のヤクルトの容器、アデランスであれば毛根など)の石碑もありました。奥之院を訪れる参詣者に対して会社のアピールも兼ねているようです。 pic.twitter.com/8NSY3lCJas
北海道所縁の墓所としては、高野山(奥之院参道)には松前家の墓所もありました。
— 西野神社権禰宜 田頭寛 (@h_tagashira) April 27, 2022
松前家は、松前城(現在の北海道松前町)を居城とした、1万石格(但し幕末は3万石格)の外様の小藩で、幕藩体制の中では蝦夷地に置かれた唯一の藩でした。 https://t.co/eqEq36qx91
このブログはあくまでも神社のブログであるため、今回のこの記事では、神社に関する事(丹生都比売神社や、高野山内に鎮座するお宮の事)や神仏習合に関する事を中心に記し、高野山最大の信仰の中心地である奥之院についてはほとんど触れませんでしたが、この度の高野山滞在に関して、私個人のSNSに於いては、実は奥之院について、最も文章や写真の量を割きました。私個人としては、高野山奥之院には昔から興味・関心を抱いておりましたので。
空海は、よく言われているように奥之院で今でも本当に生きているのか、というのは私にとっては、はっきり言ってどうでも良い事です。勿論、平安時代の人物であるはずの空海が今も生存し続けているという事は、生物学的には有り得ません。
しかしそれを「有り得ない」と言いきってしまうのであれば、釈迦が生まれて直ぐに7歩歩いて「天上天下唯我独尊」と言ったという有名なエピソードや、聖母マリアが男女の交わり無しにイエス・キリストを身籠もったという処女懐胎(マリアの無謬性)も、生物学的には絶対に有り得ない事です。
ですから私としては、それが事実であるか否かよりも、『弘法大師は、承和2年(835年)3月21日の寅の刻に結跏趺坐(けっかふざ)し、大日如来の定印(じょういん)を結び、そのまま御入定され、今も奥之院の御廟で生きたまま私達を見守り、救いの手を差し伸べていらっしゃる』(つまり空海は亡くなってはいない。奥之院の弘法大師御廟は空海のお墓ではなく、空海も今もそこで生きている)という信仰が、大師入定から千年以上経った現在も多くの人達に信じられ、その信仰故に、奥之院は高野山の中でも極めて特別な聖地とされて、日本のみならず世界中から多くの人達が訪れる場所になっている、という事に何よりも大きな意味があるように感じています。
奥之院についてはまだいろいろと述べたい事がありますが、今回の記事の趣旨からは外れるのでこれ以上は割愛しますが、奥之院に関して最後にひとつだけ付け加えますと、弘法大師信仰という観点からは、生きていた空海を拝む場所が壇上伽藍で、魂としての空海を拝む場所が奥之院、とも言われているそうです。
⑥ 高野山を神社に例えたら
最後の項となるこの⑥は、完全に蛇足かもしれないのですが、私の個人的な考察(というよりも単なる妄想?)として、高野山全体を仮にひとつの神社と見立てた場合、山内の各施設は、神社でいえば何の施設に当るのか、という解釈(一例)を列記してみます。
これはあくまでも私が勝手にそう思っているだけなので、当然「その解釈は違う」という反論もあるかとは思いますが、あくまでもざっくりとしたイメージとして、私は、高野山の各施設はそれぞれ以下の神社施設に相当するのでは、と解釈しています。
① 大門 → 一の鳥居
② 壇上伽藍の中門 → 二の鳥居
③ 壇上伽藍の御社 → 別宮もしくは若宮
④ 壇上伽藍の御影堂 → ほぼ当時の状態のまま保存されている初代宮司邸
⑤ 壇上伽藍の大会堂 → 斎館
⑥ 金堂や根本大塔をはじめとする壇上伽藍諸堂 → 祈祷殿、儀式殿
⑦ 奥之院の一の橋 → 神橋、三の鳥居
⑧ 奥之院の中の橋 → 神橋、四の鳥居
⑨ 奥之院の御廟橋 → 神橋、五の鳥居
⑩ 奥之院の英霊殿 → 境内社として鎮座する護国神社
⑪ 奥之院の水向地蔵 → 祖霊殿
⑫ 奥之院の水行場 → 禊場
⑬ 奥之院の御供所 → 神饌所
⑭ 奥之院の燈籠堂 → 拝殿
⑮ 奥之院の弘法大師御廟 → 本殿
⑯ 総本山金剛峯寺 → 社務所(広間・応接室・和室・宮司室)、書院、授与所など
⑰ 金剛峯寺の寺務所 → 社務所(社務室・会議室)
⑱ 高野山大師教会 → 参集殿、神社会館、研修センター
⑲ 高野山霊宝館 → 神庫、宝物殿
⑳ 徳川家霊台 → 境内社として鎮座する東照宮
㉑ 高野山内各地に点在する金剛峯寺子院 → 摂末社
㉒ 高野山専修学院 → 神社附属の神職養成機関(神宮研修所、大社國學館、熱田神宮学院、志波彦神社 鹽竈神社神職養成所などのような全寮制の養成所)
但し、高野山一山の総本堂である「壇上伽藍の金堂」を神社の「本殿」と見立てた場合は、奥之院最奥部の弘法大師御廟は「奥宮」に相当するかもしれません。
また、高野山を伊勢の神宮と対比した場合は、壇上伽藍が「外宮」で、奥之院が「内宮」に相当するという見方も出来ます。奥之院では、現在も生き続けているとされる弘法大師に毎日お食事が運ばれており、これは「生身供」(しょうじんく)と呼ばれているのですが、伊勢の神宮に置き換えるとこの行事は、毎日神様にお食事を奉る祭典として執り行われている「日別朝夕大御饌祭」(ひごとあさゆうおおみけさい)に相当しそうです。
そもそも中世の両部神道に於いては、密教での胎蔵界と金剛界という二つの世界は、それぞれ伊勢の内外両宮と重ね合わせて説かれていたため、純粋な神社神道の立場としては勿論異なりますが少なくとも中世神道・神仏習合の見地からは、神宮と高野山を習合した解釈というのは、荒唐無稽とは言えません。
神宮の主祭神である天照大御神様は、神仏習合の立場からは、密教の教主・本尊とされる大日如来(摩訶毘盧遮那仏)とも同一視されてきましたし。
もっとも時代によっては、天照大御神様の本地仏は、十一面観世音菩薩とされたり、愛染明王とされた事もあったようですが。
というわけで、短い旅程の割にはかなりいろいろと見て回る事が出来た、充実した旅行でした。いつになるか分りませんが、機会があれば、丹生都比売神社と高野山は是非また参拝・見学したいです。高野山やその周辺には、まだ参拝・見学していない所や再訪したい場所などが多いですから。