西野神社 社務日誌

札幌市西区の西野・平和・福井の三地区の鎮守(氏神様)であり、縁結び・安産・勝運上昇等の御神徳でも知られる西野神社の、公式ブログです。

紀元節復活の経緯と当社の紀元祭

国旗

平成21年2月10日付の記事で詳しく説明させて頂きましたように、2月11日は、皇紀元年に大和・橿原の地(現在の奈良県橿原市)で神武天皇が初代天皇として御即位されたと伝わる日で、日本書紀に書かれている神武天皇御即位についての記述『辛酉年(かのとのとりのとし)の春正月の庚辰(かのえたつ)の朔(ついたちのひ)に、天皇(すめらみこと)、橿原宮に即帝(あまつひつぎ)位(しろしめ)す』を日本という国の誕生の瞬間と捉え、その「辛酉年庚辰の朔」を西暦年に換算した紀元前660年(皇紀元年)2月11日を日本の誕生日としてお祝いする祝日です。戦前・戦中は「紀元節」として、現在は「建国記念の日」という名前でお祝いされています。


以下は、昭和23年に一旦廃止された紀元節が、昭和41年に建国記念の日と名称を変えて復活した当時の、神社新報(12月17日発行、第981号)の論説からの転載で、紀元節復活の感激と、紀元節復活に至るまでの苦難の道程が綴られています。神道人として、先輩諸兄の並々ならぬ努力と苦労には、改めて深く頭の下がる思いがしました。

数千万国民の待望せる「建国記念の日」として、二月十一日の紀元節が復活した。苦難十有余年、この日を待ち望んで来た神社人の感激、感銘は限りない。暗雲晴れて晴天に赫々たる太陽を仰ぐの感がある。

顧みれば昭和二十三年、祖国が占領の重圧下にある時に、GHQの指示にもとづいて国の祝祭日の改廃が強行された。当時の神社本庁は、神道指令の猛追及を受けてゐた時代であり、とくに神道指令の精神徹底を目標とするこの法案に反対することは至難な事情にあった。しかしながら、明治維新によって高揚された「神武創業」の精神を記念すべく創設された「二月十一日」の紀元節を葬り去られてしまふことは、なんとしても黙視しがたいものがあった。神社関係の有志は、微力をつくして、この日の廃止に反対した。それはひとり神社人有志の切なる悲願であったのみではなく、国民の大多数、国会議員の多数の同感するところでもあった。

しかしこの日本人の要望は、顧みられなかった。占領軍当局の指示は決定的に強固であった。それは最近はじめて発表された米国政府の公文書(バンス博士執筆−近く新報で翻訳掲載の予定)を一見しても分かる。占領軍は、そのころ絶対無制限の権力を行使してをり、われわれの反対も国民多数の世論も、無視し圧殺して、この「二月十一日」を抹殺してしまった。われわれは敗北した。しかし悲憤の中で、占領が終り、日本が独立すれば、この日を復活せねばやまぬとの決意を固めた。

その後二年、サンフランシスコ講和条約の交渉が始まり、独立への希望が見えはじめるとともに、神社人の間では、紀元節復活の準備が始められた。占領最後の年の昭和二十七年には、すでに神社の社頭で公然と「紀元節復活要望」の大衆署名運動が開始された。それは、いかにも微力な、貧弱な運動に見えた。しかしその底流には、祖国の光栄の回復を祈る根深い広汎な国民大衆の頼もしい支持と協力とが感ぜられた。

マスコミは、これを時代おくれの逆コースとして冷嘲した。神主と老人の郷愁として嘲ってゐた。しかしそれは、日本国民感情の根強い意識の底流によって支持されるものであった。やがて占領が終り、独立意識回復の国論がおこるとともに、それは有力な国民運動として、大きく浮かび上がり、有力な諸団体、有志の大連合が結成されて、名実ともに大きな国民的要望として登場して来た。

それは占領によって失はれた祖国意識の恢弘をもとめる諸団体有志の大連合戦線ともなった。「二月十一日」の紀元節を「建国記念の日」として復活せよ、との法案は、しばしば議会に提出された。この法案の背後には、数千万国民の要望があった。しかし法案の通過は、決して容易ではなかった。それは、まことに苦難の道であり、難航曲折を経た道であった。

国民多数の要望にも拘らず、どうして、この法案が難航せねばならなかったか。それは、日本の文化の中枢に、占領政策の毒気が、存外に強大な根を残してゐるからである。マスコミと少なからざる文化人が国民感情を蔑視し、敵視してあらゆる妨害工作を試みた。かれらは、あらゆる言論機関を動員して、猛反対を展開した。それは侮りがたい力であった。かれらは、社会的に有力なマスコミや、学術教育機関のあらゆる部門を動員した。

しかしかれらは、最後にいたるまで、国民大衆の祖国意識、日本人としての感情を変質させることは、できなかった。日本人の「たましひ」の中に潜在するものを変質させることはできなかった。われわれは、この輝かしい光栄と勝利の日を感慨深く迎へる。この十有八年の運動を顧みるとそこにはこの日のために情熱を傾けて活動しつつ、この喜びの日を見ずして物故した先覚者が、想起される。数年の間、不撓不屈の精神をもって活動した人人の数も少なくはない。しかしながら、この運動を全体として概評するならば、必ずしも運動の進め方が、有効賢明であったとのみはいひがたい点もある。それは牛の歩みにも似た根づよさはあったが、時としては、はなはだ気の利かない進退のあったこともまた否みがたいかに思ふ。

しかしながら、牛の歩みにも似たやうな運動ではあったが、つひに、幾多の難関を打開して、占領いらいの暗雲と吹き払って赫々たる天日を仰ぐことをえた。その力は、どこにあったか。それは日本民族の精神の底流に脈々として伝はる祖神いらいの精神が、厳として、今なほ生きて存するからである。われわれはこの光栄の日に、神威の赫々たるを仰ぎ見て感激にたへない。われわれの運動が一見愚鈍に見えようとも、祖神の神意に忠誠なるかぎり、必ずや国民大衆の意識を結集しえて、光栄のゴールに到達することができるであらう。

昭和23年当時の世論調査では、日本国民の81%もが建国の記念日を望んでいたにも拘らず、GHQの指示により紀元節の廃止が強行され、米国の占領が終了した後、紀元節復活の運動は粘り強く続けられるものの、占領政策の毒気を受けたマスコミなどから熾烈な妨害工作に遭い、また国会でも、党利党略の優先により祝日法案は7回にも亘って廃案の憂き目に遭うなどし、そういった幾多の難航曲折の末に、建国記念の日は制定されたのです。


2月11日の今日、全国の神社では、以上のような、紀元節復活に思いを懸けた先人達の労苦を踏まえた上で、神武天皇の御即位と建国創業の御神徳を景仰して「紀元祭」「建国記念祭」「建国記念の日奉祝祭」等の名称で祭典が斎行されました。もっとも、社務やその他諸般の事情により、現実には、中小規模の神社ではこの日の祭典斎行は省略される事も少なくはないのですが、当社では、日本を建国された神武天皇が、当社本殿でお祀りしている御祭神の一柱「鵜草葺不合命」(ウガヤフキアエズノミコト)の皇子でもある事から、2月11日は毎年「紀元祭」を斎行しており、今日は午前11時から例年通り中祭式にて紀元祭を執り行い、参列者全員で偉大な建国の大事業に感謝の真心を捧げました。

下の写真3枚は、当社での紀元祭の様子です。但し、今日は祭典中に写真を撮影できなかったので、これらはいずれも過去の紀元祭で撮られたものです。

紀元祭

平成22年 紀元祭

平成22年 紀元祭

紀元祭の後、午前11時40分頃からは、参集殿直会が行われ、今日の紀元祭に参列された当社関係者の皆さん方(総代さん達、萬燈保存会神力會敬神婦人会など各崇敬会代表の方々)が、昼食を兼ねて、大前から撤下された御神酒や、別に用意されたお食事などを戴きました。


(田頭)

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